第2話 あの靴、気に入ってたのに!

 国を滅ぼすほどの禍々しい存在と聞いている。ぞくりと背筋が凍る思いで動きを止めた。でも、ひとつくらい砕けても問題ないはずよ。そう思いながらアイリーンは奥まで分け入った。


 ほら、何も起きていないわ。自分にそう言い聞かせる。


 けもの道が残されているのは、ここが神獣の住まう地だから。庇護された動物も住んでいるし、水辺へ向かう道は常に踏みしめられていた。鳥居代わりの大木の間を抜けると、そこは美しい水辺だ。


 湖というほどの大きさはなく、沼のように濁っていない。でも池と呼ぶには深かった。透き通った水は濃青色をしており、どこまでも深く、覗くと吸い込まれそうだ。事実、落ちた侍女が浮かんでこなかった逸話が残っていた。


 芝が広がる水辺に腰掛け、アイリーンは靴を脱いだ。水辺の縁に腰掛け、膝まで水に浸す。


 泉のように水が湧き出るようで、ぽこっと空気の泡が混じった。たまに大きな泡が混じり、縦横に歪みながら水面を揺らす。この景色がアイリーンはお気に入りだった。出来たら兄や姉にも見せたいのだけれど、禁足地に誘うわけにも行かない。


「もったいないわ」


 これほどの景色なのに、私以外に見てくれる人がいないなんて。そう思う反面、アイリーンは理解していた。人が来たら、こんな綺麗な景色はあっという間に壊されてしまう。自然の美しい景色を作るのは気が遠くなる月日が必要だけれど、壊すのは一瞬だから。


『今日は早かったね』


 ぽんと目の前に出たのは、愛らしい小狐だ。アイリーンの膝によじ登り、まるで猫のように丸くなった。全体に白い毛並みは、野生の動物ならばすぐ捕食されそうだった。額に愛らしい模様が刻まれており、薄青に光る。彼は神々の末席に座す神遣みつかいだった。


「うん、ちょっと」

 わざと言わずに濁したアイリーンを見上げ、ころんと寝転んだ小狐はけらけらと笑う。その仕草は飼い猫に似て、憎めない愛らしさがあった。思わず、ふかふかの胸から腹にかけてを撫でまわしてしまう。



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『悪戯がバレたんでしょ。でもあれは白蛇しらへび様なんだけどね』


「そうよね。可愛いじゃないの。なぜ叱られるのかしら」


 仲間を得たと思って唇を尖らせたアイリーンに、小狐はぐっと肉球を押し付けた。頬をぐりぐりと押されて、アイリーンがのけぞる。


『リン、そういうとこだよ。人は蛇や龍を嫌うの、知ってるくせに』


「私は、ただ白蛇様に日向ぼっこの場所を提供しただけよ。その後、白蛇様が中に入っちゃったの」


 壺が飾られた部屋は滅多に人が来ない。だから神獣である白蛇様のお昼寝に使えると思ったのだ。実際、場所を見た白蛇も喜んだ。思う存分寛いだ後、狭い壺の入り口から潜り込み、中で休んでいただけ。偶然、掃除当番の侍女が壺を持ち上げなければ、何も問題はなかった。


 寛いでいた白蛇が驚いて、にゅっと顔を出したのが始まり。侍女のシシィは悲鳴を上げて壺ごと白蛇を放り出す。念のために式紙を付けておいて良かった。アイリーンは居心地悪そうに小声で呟く。


「……次からは気を付けるわ」


『次がある前提なんだね。まあいいけど、白蛇様は無事だったの?』


「ええ。すぐに式紙を使ってお帰ししたわ」


『ふーん、それでも叱られて追い回されてるわけ』


「しょうがないわ」


 おどけた仕草で肩を竦める。ぐらりと大地が揺れた。飛び起きた小狐が水の中を覗き、まん丸い目が大きく見開かれる。


『やばい、出て来るぞ』


「え? 何が……」


 ぶくぶくと大きな泡が噴き出して、ぼこっと大きな泡で水面が溢れた。慌てて飛びのいたアイリーンの靴が、転がって水に流される。


「ああ、あの靴気に入ってたのに!」


『そんなのいい。さっさと逃げろっ!』


 普段は弟のような気軽な口をきく狐の叫びに、アイリーンは背を向けて走り出した。

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