第37話 ……見た?
「陽子と月野と丸井が用事で部活に参加出来ないそうだ」
「あんたと二人きりなら、あたしも帰りたいんだけど」
辛辣に答える水瀬。
今日のように複数名の不参加者がいるとどうしても練習が成り立たないこともある。
尻ドラム役だけしかいないときは流石にどうしようもないだろうけれど、叩く側の人だけしかいないのであれば、別のものを叩いたりで練習出来なくもない。
しかし、水瀬は俺と二人きりというこの空気がどうも嫌なようだった。
俺一人残って練習というのも、やる気になれなかった。真剣さが足りないとか言われようと、窓の外の曇り空が陰鬱な気分にさせているのだから仕方ない。
傘も持って来てないし、早く帰るべきだろう。
「じゃ、帰るか」
俺の言葉を聞いて立ち上がった水瀬は、鞄の持ち手を握りしめてそそくさと部室から出ようとした。
「待て」
「なに」
「折角だから、一緒に帰らないか?」
驚いた様子の水瀬は、訝しむような目で俺を睨んだ。しかし、次に出た言葉は意外なものだった。
「じゃあ部室の鍵、早く返してきて」
*
水瀬と二人、曇り空の下で肩を並べて下校する。家の方向が同じらしい。
「中学、もしかして一緒?」
「小中は他県にいたから。もとは……幼稚園まではここに住んでたから帰ってきたって感じ」
「じゃあ、高校に知り合いはいないのか?」
「うーん……いても相手は覚えてなかったり」
「幼稚園以来じゃ覚えていても気まずいかもだしな……」
そう言うと、水瀬は俺をじっとりと睨んだ。
「なんだよ」
「覚えていても気まずい?」
「かもなって話……な、なんだよ」
水瀬は俺を睨んだままだった。なにか言いたげに、なにかを訴えるように俺を睨んでいた。
「あのさ……」
「あっ」
ようやく水瀬がなにかを言おうとした瞬間、俺は頬に水滴が当たる感触に気付いた。雨だ。
水瀬も気付いたようで、空を見上げていた。大粒の雨は次第に激しさを増した。
「本降りだ……!」
「……はぁ」
水瀬のため息がどうも雨に対してではないような気がした。
しかしそんなことを気にしている余裕もなく、俺は近くの公園へ避難することを提案した。
水瀬の家がどこにあるのか分からないが、少なくとも走ればすぐのこの公園へ避難することは間違った判断じゃないはずだ。
水瀬も迷うことなく賛成し、屋根のあるベンチまで一直線に走った。
ブランコ、鉄棒、滑り台、砂場と揃った広い公園。小さい頃はよくここで遊んだし、この前夢に出てきた砂場もここだった。
結局あの相手は陽子じゃなかったのだろうか。
「あーもう……最悪」
ずぶ濡れの水瀬が呟く。
屋根に降り注ぐ雨音の中、水瀬の言葉はかき消されつつも俺の耳まで届く。振り向くと、彼女はブレザーを脱いでいた。
ずぶ濡れでべったりと身体に張り付くブラウスは透けていて、下着が、水色のブラジャーがはっきりと見えていた。
水瀬がこちらに顔を向けるのが見えて、俺は慌てつつもさり気なく顔を逸らす。
「……見た?」
「見てない」
信じたのか諦めたのかは分からないけれど、水瀬はそれ以上なにも言わなかった。
ベンチに座るも、濡れた制服が身体にまとわりついて気持ちが悪い。
しかも隣に濡れ透け水瀬。落ち着かない俺はベンチから立ち上がった。
「家、こっからどれくらいなんだ?」
「もうちょっと歩いたとこ」
やっぱり近所らしい。
「さっき、何か言いかけてなかった?」
「あー……くしゅんっ!」
水瀬のくしゃみに、俺はつい振り返る。
「こっち見んな!」
「あっ、すま……」
一瞬見た水瀬は、スカートをギリギリまで引っ張り上げて水分を絞り出していた。
濡れ透けのブラウス、水色の下着、水も滴る良い太腿を出来るだけ鮮明に思い出そうと目を閉じる。
「くしゅんっ!」
「大丈夫か?」
振り返らずに言う。
「大丈夫……あのさ」
本当に大丈夫なのだろうか。俺だって寒いのに、と考えていると水瀬は言葉を続けた。
「昔、この公園でよく遊んだ」
「へぇ、俺もだ」
「知ってる」
知ってる?
「俺が昔、この公園で遊んでたことを?」
「本当にあたしのこと、覚えてないの?」
「待て待て……」
言い方から察するに、水瀬は幼少時代に俺と面識があった。
それを彼女は覚えているが俺は覚えていない?
「水瀬麗……」
なにか思い出せないかと改めて名前を口にする。
「ギャルの友達なんていなかったような……」
「はぁ? 昔からこんなんじゃなかったし。てか、今もギャルのつもりないし」
「いや、ギャルでしょ」
黒ギャル、チャラチャラしてて、口調とか強くて、爪とか睫毛長くて……。
「見た目で決めつけないで」
確かに見た目以上の根拠はない。
水瀬がギャルのグループに入っている様子も学校では見ない。
「てか、今話してるのはそういうことじゃないし」
あぁ、そうだった。幼少の頃の記憶を探っているんだった。でもやっぱり、思い出せない。
「なにか印象的なエピソードとかない?」
俺の問いに水瀬は少し黙った。
横目で彼女を見ると、頬を赤らめ、唇を尖らせていた。
「……結婚」
「え?」
「結婚の約束した」
心臓が飛び跳ね、記憶の混濁に目眩さえ覚える。
フラッシュバックのように断片的な記憶が蘇り、あの日砂場遊びの帰りに結婚の約束をした女の子の顔が陽子から水瀬に変わる。
人の記憶とはいい加減なもので、そうと聞かされるとそうだったような気になる。
信憑性も決して低いわけではない。陽子の記憶にそれは無かったからだ。
彼女は代わりにお風呂での約束の記憶があった。俺はそれを覚えていなかったが……。
人の記憶というよりも、俺の記憶がいい加減なのかもしれない。
「……砂場遊びの帰り道?」
「そう……て、覚えてんじゃん」
「いや、相手を忘れてた」
陽子と勘違いしてた、とは言わないでおいた。
「そうだ、陽子は水瀬のこと覚えてたのか?」
「当たり前じゃん」
当たり前なのか。
というか、そんな素振りは見せていなかった気がするけれど、俺が見ていないところで二人は感動の再会を果たしていたのだろうか。
「陽子も教えてくれればいいのに」
「気付くまで黙っててって言っておいたの。まぁ、結局気付かなかったわけだけど」
二人で俺を試していたわけか。意地が悪いと思う反面、気付かない俺も俺だ。
「あのときの女の子がギャルになるとは……気付かないのも無理はない」
という言い訳。
「だからギャルじゃ……はぁ、もういい。あたしだってあのときの宙くんが変態になってるなんて……って最初は疑ったし」
「ん、宙くんってもう一回言ってみて?」
陽子と同じ呼び方だった。確かに昔はみんなからそう呼ばれていた。
「あっ……」
ハッとした顔をする水瀬は、咄嗟にそっぽを向いた。
水瀬が無意識にそう呼んでしまうということは、普段から頭の中では俺のことをそう呼んでいるのだろうか。そう考えると、急に水瀬のことを意識してしまう。
横目で見ていた俺はここぞとばかりに彼女の方を向く。
懐かしい思い出に満ちた公園と、その思い出を共有する女の子を前に俺はノスタルジックな気分になった。
まだハッキリとは思い出せないけれど、確かに陽子以外の女の子とも遊んだ覚えはあった。
褐色の肌に黒髪ショートヘアの優しい女の子。それが水瀬かどうかの答え合わせはこれからゆっくりとしていけばいい。
「忘れててすまん。それと……久しぶり」
「ばか……」
濡れ透けの水瀬が膝を抱えて言った。
正直、どんな思いで今まで俺と接していたのかも、どんな思いで全てを打ち明けてくれたのかも分からない。
だからこんな簡単に謝って、久しぶりなんて言っていいのかも分からない。
「なぁ、水瀬」
呼びかけに振り向く水瀬。
唇を噛み締め、眉根を寄せてはいるものの、目尻が垂れているその顔はニヤけ面を必死に隠そうとしているようにしか見えなかった。
「なにニヤけてんだよ」
「に、ニヤけてないし!」
慌てて否定されたけど、俺は内心胸を撫で下ろした。
それから俺たちは、雨の弱まったタイミングを見計らって家へ帰った。
翌日、水瀬は学校を休んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます