第一章 あぁ麗しき異世界ライフ

第9話 赤子として過ごそう


「―――」

「――」


眠い。

ここまで眠気を感じたのは、四月の下旬に五時間目の授業を窓際で受けていた時くらいだ。


しかし、いつまでも眠っているわけにはいかない。

今聞こえている音が、まるで俺を呼んでいるかのように聞こえるから。


なんで呼ばれているのか、誰が俺なんかを呼ぶのかわからないが、取り合えず目を開けてみない事には始まらない。


ゆっくりと瞼を開き、視界がクリアになるまで待つ。


ぼやけていたソレは、次第に輪郭が整っていき、俺を見下ろすようにして二人の男女がいるという事に気づいた。


「う、あ?」

「おっと、目を覚ましてしまったか」

「もしかして、名前を呼んであげたからかしらね?――ふふ、気に入ってくれたんじゃない?」

「おぉ、それならもっと呼んであげよう!」


聞きなれない言葉だが、意味は理解できる。

これは確か、俺がどこかで学んだ…異世界の言葉だ。


「ばぁうっ!!」

「あらあら、パパの声に驚いちゃったみたいね」

「そ、そうか…ごめんなー、パパがびっくりさせちゃったなー」


い、いや。驚いたというわけでも無いので悪しからず。


――そうだよ。異世界。異世界だよ。


学んだ場所は、あの恐ろしく長い時間を過ごした殺風景なあの空間。

そこで体も鍛えて魔法の技能も全て限界まで育て上げて、ようやくたどり着いた場所!


望み続けて早…何年かは言えないけど、とにかく待ちに待った異世界だ!


「ふふふ、なんだか元気な子ね。そわそわしてて、落ち着かない子」

「だなぁ。ケイとファルブはずっと静かだったからな…この子は、ちょっと変わった子みたいだ」


さて、状況をまとめよう。

今俺を挟むようにして会話をしている男女は、恐らくこの世界での父さんと母さん。

その会話の中に出てきたケイ、ファルブというのは恐らく俺の兄…或いは姉だろう。


対する俺は、先程手足を確認する分に、赤子になっていると判断できた。

まだ離乳食すら食べられないような年齢だろう。

実際言葉を発しようとした時、「ばぶぅ」みたいな言葉に変換されてしまったわけだし。


部屋の内装を見た所、確かに俺は貴族の子供に転生できたようだ。


――して、名前は?

せめて苗字くらいは知りたい。


「じゃあ、改めて…おはよう、アレイスター。お前の名前は、アレイスター・ルーデンスだぞ」

「あ、あぶぁ…」


アレイスターに、ルーデンス。

そのどちらも聞いたことがある。

なぜだか知らないが、よく記憶に残っている。


片方は変態魔術師アレイスター・クロウリーとして。

もう片方は倫理の授業で出てくる単語ホモ・ルーデンスとして。


恐らくこの親は狙ってつけたわけではないのだろうが、俺からしたら『変態遊び人』というイメージにしか繋がらない名前なのが悲しい。


慣れるしかない、か。


良い笑顔をこちらに向けてくる新たな父さんと母さんにぎこちなく笑みを返しつつ、内心大きくため息をつくのだった。


※―――


転生して、早数日。

子供というのは本来、一日の長さが本来の長さ以上に感じる物のはずだが、俺はどうしても短くしか感じない。


これが、大人になると子供の頃はボール遊びに興じることのできた十分の休憩が、コーヒーを飲んで落ち着くだけになるという現象だろうか。


十歳の子供と二十歳の大人では、単純に一日の長さの体感に二倍の差が出るというし、俺みたいな精神年齢が何歳かもわからないような男には一日等あって無いような物だと言うのだろうか。


あ、そうだ。

長い時間をほぼ禁欲状態で過ごしてきた弊害は、今の所姿を現していない。

そりゃ赤子として目を覚ました瞬間勃起なんかしたら笑い話にもならねぇわな。


「はーい、アレイ。おっぱいの時間にしましょうね~」

「ばーぶー!」


うわぁい!ぼくおっぱいだいすき~!!


――はい訂正。禁欲生活の弊害ありありだわ。

(あまり実感はわかないにしても)実の母による授乳タイムでここまで喜べる時点でどうかしてるわ。


で、でもさ?

黒髪碧眼の巨乳美人のおっぱいを合法的にしゃぶれるとか、誰だって興奮してもおかしくないじゃん。

ましてや俺、今までどころか勃起する事すらできなかったんだぜ?

溜まりに溜まって溢れかけてるリビドーがこうして暴走するのも、仕方ない事だと思う。


すっごく必死に母親の乳に吸い付きながら、口内へと母乳を流していく。

美味しいんですねこれがまた。


食欲と性欲を同時に満たせるって、授乳という行為は非常に偉大だなと思わされるな。


「んっ……っもう、必死なんだから…焦らなくても、逃げませんよ~」


悩まし気な声を出しつつも、俺に授乳を続けてくれる母。

名前はまだ知らない。

家族間で互いに呼び合っているかと思ったら、「パパ」「ママ」って呼び合ってるし。


これじゃ二人ともルーデンスさんとしか呼べないじゃないか。

…父さん、母さんと呼ぶのは…その、抵抗があるというか…勝手な都合があるし。


「はい、おしまい。あんまり飲み過ぎるのも良くないですよ~」


あぁっ、そんな殺生な!


母に促されて胸から口を離し、名残惜し気に彼女が服を着直すのを見つめる。

…賢者タイムとは言わないが、なんだか自己嫌悪の気持ちで満たされてきたぞ?


――っと、瞼が重く。


やはり体が赤子だと、起きていられる時間も少ないか。

魔力コントロールとか気を扱うトレーニングとかを家族に隠れてこっそり行っているけど、そのせいか余計に体力消費が多い気がする。


え?なんで魔力コントロールとかをする必要があるのかって?


そりゃ勿論、あそこで修行した分だけで大丈夫なのか不安だからってのと、あまり長い間やらないでいると体が鈍っちゃうからだろ。


感覚が一番肝となる魔法と気は、しっかりと毎日コツコツ続ける必要があるんだよな。

魔法なんて、体内外で循環させる際の伝導率とか色々面倒な事も多いし。


「あらあら、もうおねむの時間かしら~?」

「だーぅ…」


はい、眠たいです。

食欲と性欲は一旦満足したんで、睡眠欲の方を満たしたいです。


言葉にならない願いを、母は読み取ってくれたのだろう。

俺の体を揺さぶらないようにしつつ、ゆりかごまで運んでくれた。


そして、毛布の上に俺を乗せると、優しく頭を撫でて一言。


「ふふ、おやすみなさい」


その言葉を聞くと同時、俺の眠気は限界を迎え、テレビの電源を切ったように意識が途切れた。


※―――


拝啓、俺の魂のお母様、お父様。

先立ってしまった不孝は、もうお許しになってもらえたでしょうか。


兎にも角にも、私は転生を果たしました。

念願の異世界転生です。

これから十五歳になるまでに土台となる力を高め、転生特典的な強さも一緒に手にし、この世界の連中をブイブイ言わせてやりたいな、と思っているのですが…


現在、なぜか命の危機を感じています。

助けて。


「ば、ばぶぶ…」

「ケイ!部屋の中で剣を振り回すなと何度言ったらわかるんだ!」

「…う…」

「今だって、もしかしたらアレイに刺さっていたかもしれないんだぞ!?」

「…ご、ごめんなさい…」


視線をすぐ横にずらすと、そこには鈍い音を響かせながら細かく振動している刃が。


先程父が言っていた通り、ケイ兄さんが俺のいる部屋の中(リビング的な場所。とっても大きな部屋だ)で剣を振るい、手からすっぽ抜けて俺の方へと飛んできたのだ。


ギリギリで首だけを動かして回避したモノの、もし回避できなかったら揺り籠諸共串刺しだったぞオイ。


「ば、ばぶー…」

「ケイ。もし約束が守れないなら、お前に剣を握らせるわけにはいかないぞ」

「そ、そんな!?も、もうしないから、それだけは!!」

「その言葉は何回目だ?」


いや、説教は後でいくらでもやってくれて構わないんで、真横のこの剣をさっさと何とかしてくださいよ。

そろそろ首が辛くなってきたんですけど。


実際に声も出しているが、父が俺のSOSに気づくことは無く、説教はさらに長引き始めた。


俺が生まれる前から何度も同じ事件を起こしているからか、普段ファルブが悪戯をした時以上に怒っている。

…子供はあまり叱り過ぎると、反抗心から同じ事をやりますよルーデンス父。


「まぁまぁ、パパもそんなに怒らないで。それより、早くあの剣を抜いて上げた方が良いんじゃないの?」

「――あっ!!すまないアレイ!」


母の言葉を受け、ようやく俺の事を思い出したらしい。

…なるほど、この親にしてこの子ありって感じだな。


しかし――ケイ兄さんは剣が大好きなのか。

読んでいる本も剣術の指南書ばかりだったし、前から薄々気づいてはいたが。


よしよし。なら、俺が剣を持っても何の違和感もないようになったら兄さんと戦おうじゃないか。

もし俺が勝ったら、あの空間の中で身に着けた様々な流派の剣術を全て教えよう。

もし俺が負けたら、逆に俺が教えてもらえばいい。

ウィンウィンの関係って奴だな。


そのためにも、肉体の実力で劣っているのを何とかすべく、魔力とか気とかの扱いをさらに良い物へと変えねばなるまい。


よーっし、滾って来たし、早速自主練だ!

『気』を練り上げて全身に纏い、維持するぞ!


「――ッ!?」

「ひっ!?」

「えっ!?」


俺の隣に刺さっていた剣を引き抜いた父が、突然息を呑んだ。

それと同時に、母もケイ兄さんも小さく悲鳴を上げた。


えっ、何事?節足動物でも出た?

それは嫌だなぁ…外に追い出してもらっていいっすかね。


「い、今の…」

「アレイが、やったのか?」


恐る恐る、と言った様子で俺の顔を覗き込んでくる男二人。

できれば母の方が良かったというのは贅沢だろうか。


ってか、俺がやったって…何を?

まだ何もしてないんだけど。


強いて言うなら『気』で体全体を覆ったくらい……あ。

数年後に待っているだろうケイ兄さんとの戦いの事ばかり考えて忘れてたけど、気の力を持たない人が気を感じたら、恐怖心が沸き立っちゃうんだった。


異世界作品の貴族って、戦わずに豪邸で華やかに暮らしているイメージがあるし、気が使えなくても仕方ないかもな。

…本当は貴族ってのは、平民よりも真っ先に戦いの場に出るもんなんだけどね。

だってほら、平民と違って領地は命も等しい物なんだから、逃げるって選択肢が無いわけで。


――っと、そんな話をしてる場合じゃないな。

取り合えず、適当に笑って茶を濁しておこう。


「…きゃっきゃっ」

「……気のせいか」


『気』のせいですよ、『気』のね。


自画自賛してしまいたくなるような名演技で三人の目を欺いた俺は、父の発言にくだらない返しをしつつ、内心ほくそ笑むのだった。

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