異世界高尾山〜高尾の山は世界一〜

砧 南雲(もぐたぬ)

異世界高尾山〜高尾の山は世界一〜

 登山者数・年間三百万人と、現世と異世界を合わせた中でもダントツの一位を誇る、世界有数の観光地にして霊峰たる高尾山。登山口から徒歩一時間強を経て辿り着いた山頂にて、級友と登山者を周囲に従えたモンベル王国の第一王子は、声を張り上げた。


「ス、スノーピーク公爵令嬢よ!! ……ゼェゼェ……我は、汝との婚約を……ゼェゼェ……ここに、破棄するものとする!! ……ゼェゼェ……」


 震える指が突き付けた先には、速乾素材で手足を覆い、頭髪をBuffでスッキリとまとめた長身痩躯で眉目秀麗な少女が、登山者に頼まれ記念撮影の真っ最中であった。王子の声に振り返り目を瞬かせるも、まずは撮影した写真を登山者に見せて出来映えを確認してもらった後、カメラを登山者に返し、そしてゆっくりと王子に向き直って深く一礼した。


「失礼、聞いておりませんでした。ですが、ここは山頂標識の真正面にあたる場所。山頂に辿り着き、達成感を胸に満たした民衆達が記念撮影に臨む聖地である故、我々は場所を変えるとしましょう」


 そう言いながら、王子の背中にそっと手を添え、山頂の先へと促した。渋々進む王子の後に、級友達も続いた。


 ***


 喧騒に満ちた高尾山頂から少し離れた開けた場所に着くと、先導したスノーピーク公爵令嬢はモンベル第一王子に向き直り、微笑みを浮かべて再び深く一礼した。


「お待たせいたしました、王子。ここならば、御用向きに邪魔が入ることもございますまい。して、一体どうなされましたか?」


 高尾山頂で既に息切れ切れだったモンベル第一王子は、肩で大きく息をしながら、対照的に少しの動揺も見せていないスノーピーク公爵令嬢を、忌々しげに睨み据えた。


「余裕ぶっていられるのも、今の内だけだぞ! 我は……ゼェゼェ……、今回の学校行事中にこちらのキャプテンスタッグ男爵令嬢……ゼェゼェ……、を散々虐め抜いた性根の腐った忌々しい貴様との婚約……ゼェゼェ……、を破棄し、そして男爵令嬢と婚約を新たに……ゼェゼェ……、結び直すのだからな!」


 荒い息の中で長い口上を何度も途切れさせた王子は、気付けばその傍らに、庇護欲を唆られる印象の素朴で小柄な少女を伴っていた。フレンチスリーブの可愛らしいTシャツ、マルチカラーの山スカートに横縞の山タイツで、ゆるふわかつ肌の露出若干多めな感じで全身をまとめた男爵令嬢は、王子同様に大きく息をし王子にしがみつき、王子の庇護欲を一層かきたてながら、スノーピーク公爵令嬢へ必死な視線を向けた。


「……ハァハァ……、わ、私は、初めての山登りで大変なのに、その上貴女にずっといじめられて……ハァハァ……、とっても辛かった! そんな私を、理解ある王子様が見つけてくれて、支えてくれて……ハァハァ……、ここまで来れたんだから……!」


「高尾山初登頂おめでとうございます、キャプテンスタッグ男爵令嬢。頑張りましたね。しかしながら、私がした虐めとやらに、生憎身に覚えがありません。ここで詳らかに説明して頂けないでしょうか?」


 腕を組み、軽く首を傾げるスノーピーク公爵令嬢に対し、モンベル第一王子とキャプテンスタッグ令嬢は、共に顔を更に紅潮させた。思わずよろめいたキャプテンスタッグ男爵令嬢をモンベル第一王子が支え、その為にフラついたモンベル第一王子を、今度はキャプテンスタッグ男爵令嬢が支える。人と人が支え合って「人」という字になるんだな……と、離れて見守る級友達は思った。


 王子と支え合ってようやく落ち着いたキャプテンスタッグ男爵令嬢は、両手首にぶら下げていたトレッキングポールを強く握りしめ、王子に肩を支えられながら、トレッキングポールでスノーピーク公爵令嬢を指し示しながら訴えた。そのトレッキングポールで身体を支えれば、王子の介添えは不要なのでは……? と言うか、トレッキングポールで人を指し示すのは失礼では……? と、離れて見守る級友達は思った。


「しらばっくれるなんてひどい……!! 私はあなたに、『この道を歩くな』って邪魔されたり、格好を馬鹿にされたり、水も飲ませてもらえなかった! 私が男爵家の人間だからってひどい……!! 私だって皆と同じように、高尾山を楽しみたかっただけなのに……!」


「そうだぞ、スノーピーク公爵令嬢! 汝は自分の登山経験と登山知識と登山装備と健脚ぶりと、あとついでに家柄の差で、自分に及ばないものを見下し貶め辱めたのだ! 何て忌々しい女め!」


 話している内に感情が昂り、睫毛を涙で濡らすキャプテンスタッグ男爵令嬢と、その肩を強く抱くモンベル第一王子の姿を、スノーピーク公爵令嬢は興味深そうに眺めて口を開いた。


「王子のお話は漠然としていてわかりかねますが、キャプテンスタッグ男爵令嬢については、何か明らかな誤解をしておられるご様子。まず、私は確かに貴女に対してルートのアドバイスを致しましたが、それは装備に因るものです。その靴と貴女の今の技量では、貴女に不整地を歩かせるわけにはいきませんよ」


 スノーピーク公爵令嬢は、キャプテンスタッグ男爵令嬢の足元を指し示した。男爵令嬢のたおやかな白い足は、心許ない薄っぺらな靴底と細い紐とで申し訳程度に包まれているのみである。


「なっ、ワラーチの何が悪いのよ! 身体と大地が直接繋がって、何かいろいろあって健康に良いのに!!」


「足の出来上がった熟練登山者ならいざ知らず、貴女の未熟な脚力で不整地を歩くには、グリップが絶望的に足りません。しかも貴女は当初、6号路から2号路へ抜けようとしていたではないですか。あれは高尾山を知り尽くしたものだけが歩ける難易度の高い道なのですよ」


「またそうやって私を馬鹿にしてひどい!!」


「しかもその足で山道に入れば、ヤマビルはおらずともマダニの危険がありますし、下手に怪我をしたなら蜂窩織炎の危険まで発展しかねません」


「……それは本当なのか? キャプテンスタッグ男爵令嬢の身に危険が及びかねないのであれば、確かによろしくない」


 地団駄を踏むキャプテンスタッグ男爵令嬢とは裏腹に、モンベル第一王子は令嬢の肩から手を離し、気遣わしげに男爵令嬢とスノーピーク公爵令嬢の顔を交互に見遣った。キャプテンスタッグ男爵令嬢の顔が悔しさに歪むのを横目に、スノーピーク公爵令嬢は続けた。


「それから、格好を馬鹿にしたというのも語弊があります。私は貴女が帽子に付けた、可愛らしい蜻蛉の飾りについて、それは残念ながら虫除け効果が見込めないのではないかと申し添えたまででして」


「そんなことないわ! 蜻蛉は害虫を食べるんだって、私ちゃんと知ってるんだから!!」


「確かに、トンボ科で最大のオニヤンマは、ススメバチまでも捕食する昆虫界の覇者の一人と言っても過言ではありません。だから、その大きさと色にあやかる飾りを身に纏うことで、虫除け効果を見込めるという説があるのです。だがしかし、キャプテンスタッグ令嬢が付けているそのトンボの飾りは、サイズも小さければ色合いも異なります。それはありていに言えば、赤蜻蛉では?」


「……あー、赤蜻蛉じゃあ、蚊やヨコバイぐらいしか捕食できないだろうな」


 思わず呟くモンベル第一王子を、涙に濡れた目でキャプテンスタッグ男爵令嬢が睨み付ける。


「王子は!?! 一体どっちの?!? 味方なんですか!?!?!?」


「い、いや我は」


「王子は一貫して、キャプテン男爵令嬢を心配していらっしゃいますよ。そしてそれは、この私も同じ」


 動揺する王子の後を引き取り、スノーピーク公爵令嬢は微笑む。


「水を飲ませなかった件についてもご説明しましょう。高尾山山頂下トイレ前には、水道の蛇口が多数あります。しかし注意しなければならないのが、飲用可と飲用不可と分かれている点です。キャプテンスタッグ男爵令嬢は、飲用不可の蛇口前で今にも水を飲まんとしていたので、急いで制止したのですよ」


「あれは確かにわかりづらい……」


 思わず納得してしまう王子。いよいよ後ろ盾を失ったと感じたキャプテンスタッグ男爵令嬢は、王子の傍から飛び退り、トレッキングポールを激しく床に叩き付けた。


「王子までひどい!!! みんなのバカ!!! 高尾山なんて、大嫌いなんだから!!!!!!」


 叫ぶと、山頂の反対側へと広場を駆け出した。呆気に取られて立ち尽くすモンベル第一王子を他所に、すぐさま後を追うスノーピーク公爵令嬢。2人が向かう先には、奥高尾へと続く縦走路へ下りる階段。悪役令嬢ものにはお誂え向きの舞台設定過ぎる、と級友達は思った。そして案の定、疲労の溜まった足を縺れさせるキャプテンスタッグ男爵令嬢、その腕を掴むスノーピーク公爵令嬢、そして……。


「ふう、間一髪でしたね。お怪我はありませんか、キャプテンスタッグ男爵令嬢?」


 スノーピーク公爵令嬢の、ほっそりとしながらも強靭な腕に支えられ、キャプテンスタッグ男爵令嬢は転落を免れていた。遅ればせながら後に続いていたモンベル第一王子と級友達は、揃って胸を撫で下ろした。スノーピーク公爵令嬢は、キャプテンスタッグ男爵令嬢の身体を支えて一人立ちさせた後、腕を引いて先の広場へと戻ってきた。


 ***


 級友達に加え、何事が起きているのかと集まった暇な登山者達の衆人環視の中、男爵令嬢は顔を真っ赤にして全身を震わせていた。初めての山登りに対する興奮、ろくに寝付けなかった為の精神疲労、級友達と行動を共にする高揚、想像を遥かに上回る肉体疲労、予期せぬ公爵令嬢の妨害の数々に対する絶望、そこを憧れの王子に救われた歓喜、山頂での公爵令嬢との直接対決が想定外の方向へ展開する苛立ち、意外と役に立たない王子への失望……。混沌と渦巻くそれらを制御しきれず爆発させた結果、危うく怪我をしそうになったところを、仇敵である筈の公爵令嬢に救われた。最早何が何なのか、自分がどうしたいのか、キャプテンスタッグ男爵令嬢にはわからなかった。ぼんやりとスノーピーク公爵令嬢を見上げると、スノーピーク公爵令嬢は悠然と微笑み、肩から提げたサコッシュの膨らみから何かを取り出して、


「!?!」


 キャプテンスタッグ男爵令嬢の口に、高尾山名物天狗焼きを差し込んだ。


「慣れない山登りで、貴女は大層疲れているのです。疲労回復には甘い物が覿面ですよ」


 カリッとした香ばしい生地がキャプテンスタッグ男爵令嬢の口の中で溶け、続けて黒豆餡の優しい甘さが令嬢の口内を満たした。そして令嬢の凝り固まった心までも溶かしていった。


「ううう……! ごめんなさい、スノーピーク公爵令嬢!! 本当はずっと私に優しくしてくれていたのに、私は未熟でわがままばかり言って…!!!」


「いいのですよ。貴女がこれで、高尾山を嫌いにならないで下さるのなら」


「大好き……高尾山も、貴女も大好き……!!」


「高尾山と並べられるとは、光栄ですね」


 今や、自身の胸に縋り付いて泣きじゃくるキャプテンスタッグ男爵令嬢の頭や背中を優しく撫でて、スノーピーク公爵令嬢は微笑み続けていた。二人の側におずおずと近寄るモンベル第一王子の姿に目を向けても、スノーピーク公爵令嬢の微笑みは変わらなかった。


「その、スノーピーク公爵令嬢……大変済まなかった。キャプテンスタッグ男爵令嬢が、その、汝……いや、貴女に虐められているという言葉を、我は鵜呑みにして貴女を糾弾してしまった……。しかも婚約破棄を宣言する等……我はどうかしていた……!」


 悄然とするモンベル第一王子の口元に、スノーピーク公爵令嬢は同じく天狗焼を滑り込ませた。


「王子もお疲れだったのです。私のことを信用して頂けなかったのは残念ではありますが、下級貴族に対する王子の御心遣い故と考えれば、この先気に病むことでもございますまい。これからもよろしくお願い申し上げます」


 口元で天狗焼をもぐもぐさせながら、モンベル第一王子は恐る恐る尋ねた。


「……我を許してくれるのか……?」


「勿論ですとも」


 級友達は歓喜の声をあげた。これにてモンベル王国の平和は保たれた。判断力の甘さはあるものの民に心優しい王子と、底無しの包容力で王子と民と恋敵を包み込む公爵令嬢、二人が支えるモンベル王国の未来に栄光あれ。


「他の皆もおつかれさまでした。下山は、一号路の途中からリフトを利用しましょうか」


「でしたら、スノーピーク公爵令嬢の横には是非私が!」


「いやいやキャプテンスタッグ男爵令嬢、スノーピーク公爵令嬢の横は、婚約者たる我の場所だぞ」


「あっはっは、ここにきて急にモテモテですね私」


 冒頭の緊張感とは裏腹に、笑いさざめきながら下山を開始する、モンベル王国の学生達。小さくなるその姿と遠ざかる声を見送りながら、山頂に立つフル装備の登山家が言った。


「……山を、舐めるんじゃない!」

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