空洞の眼窩は何も語らない
『もう私のことばっかりじゃなくていいよ』
信じられない言葉だった。
いつかはそういう日も来るかもしれないなんて当時勤めていたバイト先の同僚との会話でも出ていたし、そのたびに『かもねぇ~』なんて相槌を打ったりもしていたけれど。
それでも、本当にその言葉を向けられたとき、わたしはどうしたらいいかわからなくなった。まだ小さな
その瞳は、もうわたしなんて必要ないって言っているみたいで。いつか来るかもしれないとどこかで不安に思っていた日が本当に来てしまったのが、あまりにも怖くて。
手を伸ばそうとした。
待って、置いていかないで。
わたしを置いて変わっていかないで。
伊織ちゃんにまで置いていかれたら、わたしは何のために生きていけばいいの?
お父さんもいなくなって、お母さんはわたしたちを
そこからの記憶は、ひどく曖昧だ。
けれど、もうわたしたちが離れることはない。それだけは、確かに言える。ヒリヒリと痛む首が、それを教えてくれる。
* * * * * * *
私の言葉で姉は変わってしまった。
もう、あの頃の姉の姿はどこにもない。
確かに少し私に対する接し方が過剰だったけれどそれ以外は快活で、優しくて、何をとっても大人びていて、けれど私には甘えた部分も見せてくれる――そんな私の自慢だった姉の姿は、あれからどこにもなくなってしまった。
どこから持ってきたのか小箱を台所の隅に置いて、その中に……ううん、違うあれは私じゃない、だって私はここにいる、伊織は私だ、私は伊織なんだ、姉は目の前にいる、私は姉を見つめている、私は箱の中身なんか知らない、知るはずない、姉はここにいるんだ、なのに箱の中ばかり見ている――見ているのは、ううん違う私じゃない私は箱の中を見ていないだから箱の中にあるものが何なのかなんて知らない、知らないはずだ、知らないのに……!
あの日からずっと、記憶がはっきりしない。
台所の床はきちんと拭いたし、臭いが籠らないように換気だってした、今日も姉は生きている、生きているから箱の中身に私の名前で呼び掛けるんだ、それは私じゃないのに。
ねぇやめてよそういうの、私が悪かったなら謝るから、私が拒んだのが悪かったなら謝るから、だから目を覚ましてよ、お姉ちゃん。
「その箱の中にいるのはお姉ちゃんの方じゃない!」
真っ白な陶器のなかでただ黙ったまま宙を見つめている姉に向かって叫ぶ。何も言わないで、何も見ないで、何も食べずに、もうすっかり皮も肉もなくなってまで、それでも私が私だと受け入れようとしない薄情な姉を、私は――――
* * * * * * *
パリン!
乾いた音がして、わたしは自分がぼうっとしていたことに気付いた。見ると、足下で何か白い物が粉々に砕けている。
持ち上げてみると中身がないみたいに軽い物だったけど、これ、どうしたんだろう?
「もしかして伊織ちゃんがやったの?」
……返事はない。もしかしたらばつが悪くてだんまりしているのかも知れない。まったくもう、そうやって後片付けをわたしに任せようとするところは昔から変わらないんだよね、伊織ちゃんは。
けど、そういうところが昔から可愛いんだよね。
「もう、しょうがないなぁ」
思わずこぼれる笑いを自覚しながら、わたしは欠片になっていた伊織ちゃんを拾い集めて箱の中にしまう。
……伊織ちゃんは何も言わないけれど、きっとわたしのことを信じてくれているのだろうことだけは伝わってくる。
箱の前に置いておいたご飯やおかずを電子レンジに入れて温める。今日もおいしく食べるからね、伊織ちゃん。一緒に味わおうね。
「ふふふっ、」
幸せのあまり漏れた声が、少しだけ伊織ちゃんに似ているような気がしたけど、それはきっと気のせいだ。
鍵の開いた小箱には 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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