第32話 落日
「狼狽えるな、敵は既に逃げ腰ぞ。落ち着いて陣形を整えるのだ!」
大声で叱咤するのは毛利家の重臣、
今回の布部山攻めでは元春に次ぐ副将の地位にある通良である。慌てる事無く、重傷を負った吉川元春を収容すると、壊乱寸前の毛利軍の前線を立て直した。
見回してみると、
「これは冴名どのに叱られるな」
必ず帰って来いと言われていたのに。荒い息をつきながら茨之介は苦笑した。
「もう腕も上がらぬ。刀が重たいぞ」
最後の力で斬馬刀を振り上げた茨之介。その胸を毛利兵の槍が貫いた。周囲から何本もの槍が、茨之介を串刺しにする。
意識が消える瞬間、茨之介は天を舞う白鷺を見た。その背には美しい女神が乗っている。金屋子神だ、と茨之介は悟った。
(なんだ、別嬪じゃないか……伝承とは当てにならぬものだ)
微かな笑みを湛えたまま、藪中茨之介は息絶えた。
「鹿之助、お前は下がれ。後はおれたちが
尼子軍の最後方で獅子奮迅の戦いを続ける鹿之助のもとに、横道兵庫介と秋宅伊織が駆け付けた。
「お前は勝久さまを守らねばならんのだ。早く行け!」
返り血を浴び、赤鬼のようになった鹿之助はしばらく逡巡していたが、やがて二人に一礼し馬を返した。
「では、出来る限り時間を稼ぐとしようか」
その言葉通り、残った横道兵庫介と秋宅伊織は散々に毛利軍を翻弄した後、兵庫介は討死を遂げ、秋宅伊織はそのまま行方知れずとなった。
総大将を欠く毛利軍はそれ以上の追撃を止め富田城下に留まった。尼子の伏兵を警戒した事もあるが、何より元春の行軍速度に補給が追いつかなかったのがその理由である。
「だが、もう何処へも逃げられはせぬ。流浪の尼子勢など消え去るのみ」
口羽通良は哀れみを込めて呟いた。
すでに毛利元就は日本海側から石見の兵を送り込んでいる。一旦、尼子に降った出雲の諸城は、すべてまた毛利の影響下に戻るだろう。
尼子勢は敵の海の中を彷徨うしかないのだった。
☆
敗走を続ける尼子勢は斐伊川の中流にある
残る者を数えてみると五百にも足らない。これはおよそ四分の三もの兵を失った事になる。
「横道兵庫介、秋宅伊織、藪中茨之介、古志十太郎、高尾右馬允……」
立原久綱が苦渋の表情で、討たれた部将の名をあげていく。尼子勝久は嗚咽を押し殺してその者たちの名を聞いた。
「新右衛門!?」
陣営に熊谷新右衛門が戻ってきた。人を背負っている。
冴名と鹿之助は急いで駆け寄った。新右衛門が背負っているのは
「よかった。阿井さんも、無事だったか」
「……!」
冴名は息を呑んだ。新右衛門の足元には血だまりが出来ている。それは背中から流れていた。
「あ、阿井……さん」
新右衛門はゆっくりと背中の阿井を降ろす。阿井の身体の前面は血に塗れていた。
「出血が、止まらないんだ」
虚ろな声で新右衛門は言う。阿井の顔はまるで
阿井の傷の具合を見た冴名は黙って頭を垂れた。もう手の施しようがないのがひと目で分かった。
「何をしけた顔をしてるの、冴名さま」
ひび割れた唇がかすかに動いた。
「ここは、日登でしょう。……『
出雲神話によれば、
「縁起がいい場所だよ……ここは」
「だって、いまは、毛利家が八岐大蛇みたいなものだから」
へへ、と阿井は笑うように息をつく。
「ちゃんと退治してね、鹿之助」
「ああ、分かった。阿井どの」
「新右衛門……」
阿井が右手を伸ばす。呼吸が浅く、微かになっていく。
「手を、握って。新右衛門」
新右衛門は両手で阿井の手を包み込む。冷たい手だった。阿井の身体が小刻みにふるえ始める。
「阿井。おれも、すぐに行くから」
「ばか」
唇が少しだけ笑みの形になる。
「ありがとう、新右衛門」
一筋、涙がこぼれ、阿井は目を閉じた。
☆
尼子勢は、中海沿いにある
だがそこにあったものは、焼け落ちた十神山城と転覆した船の残骸のみだった。
穏やかな水面を夕日が照らしていた。
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