第2話 山中鹿之助の誕生

 林の中に入ると、甚次郎じんじろう冴名さなの手を自分の腰にあてた。もう片方の手も反対の腰に沿わせる。冴名は両手で甚次郎の腰を正面から抱える格好になった。

「ちょっと。本当に、なにをするつもり」

「そのまま頭を下げてくれ」

 言われる通りにすると、自然と甚次郎の股間に目が行く。まさか男のものを、アレしろということか。

「ええっ、そんな破廉恥な」

 話にだけは聞いた事があるけれど。


 すると甚次郎はくるりと背を向ける。

「あの。甚次郎」

 そこで冴名は気付いた。腰をかがめ甚次郎の後ろにくっついたその姿は。

「これって、馬?!」


 甚次郎は大きく頷いた。

「この斜面を馬で登れるか確かめてみようと思ったが、やはり馬は四本足だからな。だれかもう一人いないかと探していたところに……」

「わたしが、のこのことやって来たという訳ね。甚次郎」

 だいたい、甚次郎が山菜採りなど、おかしいとは思ったのだ。


「騙された」

 冴名は唇を咬む。

「助かったよ。うちは貧乏で、こんな事に使える馬がいないのだ」

 どこまでも暢気な甚次郎の声に、冴名は小さく呻いた。



「いったい、なぜ、こんな真似をするんです」

 冴名はぜいぜいと息を切らしている。

 ただでさえ急な斜面を腰をかがめ、木の間を通り抜けながら登ろうというのだ。いくらかは甚次郎に引っ張って貰えるとはいえ、疲労は大きい。だが、甚次郎の答えは冴名の思っても見ないものだった。


「晴久さまと賭けをした。この月山富田城を陥とせるかどうか、な」


 ☆


 この月山という山は、飯梨川の方面だけが、ややなだらかになっており、そこに頂上から本丸、二の丸、三の丸と砦を築いている。そして一段下ったところに山中さんちゅう御殿と称する建物がある。だがそこまで到達するには、城下から七曲りという山の斜面を削った道を延々と昇って行かなくてはならない。

 そして、その道以外は急峻な斜面と深い谷に囲まれ、大軍で攻めるには非常に困難な城といえる。


 今、甚次郎と冴名が昇っているのはその中でも最も急な、本丸へ向かう斜面だった。

「こんな場所、騎馬じゃ絶対に無理だよ」

 死にそうな声で冴名が訴える。もう馬の格好も止めて、ほとんど四つん這いになって斜面をよじ登っているのだ。

「ああ。やはりそうかもしれないな」

 さすがの甚次郎も弱気な声を出す。冴名は大きく息をついた。

「じゃあ決まり。さっさと戻りましょう」

 ぱんぱん、と手に着いた土を払う。


 その時、斜面の上の藪が音をたてた。

「まさか、熊じゃないの」

「そうかも。これはまずいぞ。だが安心しろ、冴名……あれ」

 刀、かたな、と慌てて甚次郎は探している。しかし冴名が腰に手をあてた時から刀は持っていなかったような気がする。

「しまった。家に置いて来た」

「馬鹿ぁ」


 ざわっと藪が割れ、それが姿を現した。まだ角が生えたばかりの若鹿だった。冴名と甚次郎を見ても驚く様子はない。

 じっと、深い夜のような漆黒の瞳で二人を観察している。

「きれいだ」

 甚次郎は小さな声をあげた。


 鹿は突然身を翻し、藪の中に消えた。

 ふたりは暫くの間、茫然とその方角を見詰めていた。一般に鹿は神の使いであると云われる。まさにあの鹿は「神鹿しんろく」そのものと思えた。二人はそろって戦慄した。


「決めたぞ、冴名」

 甚次郎の声で冴名は我に返った。

「おれの名は、今日から鹿之助だ。山中鹿之助と名乗る」


 神託という言葉が冴名のなかに浮かんだ。

山中やまなか鹿之助しかのすけ

 冴名は口の中で呟く。これ以上なく相応しい名前だと思った。


「鹿之助」

「ああ」

 冴名が呼ぶと、鹿之助はそれに答え精悍に笑った。


 鹿之助は冴名の手を取り抱き寄せる。冴名は抵抗することもなく、鹿之助の胸に身体を預けた。

「鹿之助……」

「冴名……」

 ふたりの唇が接近し、冴名は目を閉じた。


 しかしいつまで待っても冴名の唇に触れるものはない。

「おい冴名。あれは鹿だったな」


 冴名は目を開けた。その鹿之助は間抜けな顔で、藪の方を見ている。いまさら何を言っているのだろう。あれが鹿以外の何だというのだ。


「おおっ。鹿も四つ足、馬も四つ足。ならば、鹿が通るなら馬も通ると云うではないか。源平合戦で読んだことがあるぞ」

 得意げな鹿之助。片頬をひきつらせ、冴名は身体を離した。

「何が言いたいの」


「分からないのか。馬でも本丸まで登れるかもしれないと云う事だ」

 ああ、と冴名は額を押えた。

 神鹿だと思ったのは大間違いだ。あれは悪鬼の使いだったに違いない。

「さあ、いくぞ冴名。今度はおれが後ろに付いてやる」

「結構です!」


 冴名はため息をついて、また急な斜面を登りはじめた。

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