出雲尼子戦記

杉浦ヒナタ

第1話 城下のふたり

「知っているか、冴名さな。瀬戸内の空はもっと蒼いのだというぞ」

 前を歩く甚次郎じんじろうが陽気な声で言った。

 その丈高い背中を見詰めていた少女は視線を上に向ける。眩しい空はたしかに、やや淡い水色をしている。


「ここは八雲やくも立つ国だもの。これが普通でしょう」

 冴名はそう言って目を細めた。大気に含まれる水分が多いためだろう、出雲地方はいつもこうやって空が霞んでいるのである。

 そのほのかな色合いが、折しも萌える新緑と美しく溶け合っている。

「わたしは、出雲の空が好き」


 冴名が見上げる空を切り裂くように、峻険な山がそびえている。

 その山の名を月山がっさんという。


 山陰地方の覇者、尼子あまご氏。

 その居城、月山 富田とだ城はその頂上いただきにある。城域は決して大きくないが、外堀をなす飯梨川いいなしがわを含め、その要害堅固なこと比類ない。周防すおうの大内氏、安芸あきの毛利氏の大軍すら撃退した、文字通り難攻不落の要塞なのである。

 冴名と甚次郎はその麓を歩いている。


「甚次郎はこの空が嫌いなの」

 冴名の問いに足を止め、意外そうに少年は振り返った。

 十代の半ばに達しているかどうか。体格は同年代の少年に比べ抜きんでているが、表情には年相応の幼さがある。

 その切れ長の目に、不意に鋭い光が宿った。


「嫌いじゃないさ。だけどもっと、青い空が見たいだけだ」

 甚次郎はそう言うと胸を張り、天を振り仰いだ。その子供っぽくも堂々とした態度に、冴名は呆れ顔で笑った。


 立原たちはら冴名と山中甚次郎は、ともに尼子家重臣の一族である。立原家は冴名の兄、久綱ひさつなが若くして家督を継ぎ、尼子家当主の晴久はるひさに仕えている。山中家と立原家は縁戚で、久綱は甚次郎の叔父にあたる。

 叔父とはいえ、甚次郎と久綱の年の差は十五歳ほど。その妹の冴名に至っては二つ差でしかない。

 甚次郎は病弱な兄に代わり山中家を継ぎ、出仕を始めたばかりだった。そんな甚次郎を久綱と冴名の兄妹はいつも気に掛け、実の弟のように可愛がっている。

 

 ☆


「なあ、冴名。最近おれたちの間で改名するのが流行っているのは知っているか」

 歩きながら肩越しに振り返り、甚次郎は悪戯っぽく笑う。確かに甚次郎ら若手の侍たちが競って改名しているというのは、冴名も聞いた事がある。

 多くは名字にちなんだ駄洒落のようなものだ。兄の久綱も、奴らはしょっちゅう名乗りを変えて全く面倒くさい。と嘆いていた。


「実はお前の名前も考えたんだ。聞きたいだろう」

 見上げる冴名は三白眼になっている。

「別に」

 本当に、余計なお世話だった。


五月さつき 早苗之介さなえのすけというんだ。どうだ、格好いいだろう」

 冴名(さな)と早苗(さなえ)が掛かっているらしい。


「語呂は悪くはないけど、何で五月」

 しかも何故、男の名前なのだ。

 甚次郎は、おや、という顔になった。

「冴名って、五月生まれだったろう」

「違います。誰と勘違いしてるんですか」

「そ、そうか」

 はぁー失敗した、と意気消沈した様子で立ち止まる。


「じゃあ、第二の案だ。もっとも道理助どうりのすけというのは」

 あっけらかんとした声に、冴名のこめかみの辺りがぴくぴく震えだした。

 おい、と云うその声は地獄からの風のように低く冷たい。

「それは人の名前なの。合点がってん承知助しょうちのすけとどう違うんですか」

 それをわたしに付けようというのか、この男は。


「ああ、それもいい。さすが冴名は物知りだな」

 まったく動じた様子の無い甚次郎の背中を見て、冴名はため息をついた。

 そこで、ふと気が付く。

「ねえ甚次郎。いったい何処へ行くつもり。山菜採りじゃなかったの」

 彼は迷いも無く、城の裏手の雑木林へ向かっている。そこは急峻なうえ、山菜が生えるような場所ではない。


「ああ。山菜採りは口実だ。こうやって冴名と山へ入りたかった」

 どこか緊張した面持ちで甚次郎は言った。


「え、まさか。それって」

 冴名の頬に血の色が上った。いつまでも弟のように思っていたけれど、やはり甚次郎も男だったのか。冴名は急に足元が浮くような感覚になった。

「あ、あ、あ。だったらそれなりに心の準備とか必要だから、ねえ、甚次郎。ちょっと戻って、着替えとか」


 うろたえる冴名を怪訝そうに見た甚次郎は、いきなりその手をとった。

「何を言っている。さあ、行くぞ。冴名」

「あ。は、はい」

 がっしりとした手に握られ、冴名は甚次郎の後に続いた。


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