出雲尼子戦記
杉浦ヒナタ
第1話 城下のふたり
「知っているか、
前を歩く
その丈高い背中を見詰めていた少女は視線を上に向ける。眩しい空はたしかに、やや淡い水色をしている。
「ここは
冴名はそう言って目を細めた。大気に含まれる水分が多いためだろう、出雲地方はいつもこうやって空が霞んでいるのである。
そのほのかな色合いが、折しも萌える新緑と美しく溶け合っている。
「わたしは、出雲の空が好き」
冴名が見上げる空を切り裂くように、峻険な山がそびえている。
その山の名を
山陰地方の覇者、
その居城、
冴名と甚次郎はその麓を歩いている。
「甚次郎はこの空が嫌いなの」
冴名の問いに足を止め、意外そうに少年は振り返った。
十代の半ばに達しているかどうか。体格は同年代の少年に比べ抜きんでているが、表情には年相応の幼さがある。
その切れ長の目に、不意に鋭い光が宿った。
「嫌いじゃないさ。だけどもっと、青い空が見たいだけだ」
甚次郎はそう言うと胸を張り、天を振り仰いだ。その子供っぽくも堂々とした態度に、冴名は呆れ顔で笑った。
叔父とはいえ、甚次郎と久綱の年の差は十五歳ほど。その妹の冴名に至っては二つ差でしかない。
甚次郎は病弱な兄に代わり山中家を継ぎ、出仕を始めたばかりだった。そんな甚次郎を久綱と冴名の兄妹はいつも気に掛け、実の弟のように可愛がっている。
☆
「なあ、冴名。最近おれたちの間で改名するのが流行っているのは知っているか」
歩きながら肩越しに振り返り、甚次郎は悪戯っぽく笑う。確かに甚次郎ら若手の侍たちが競って改名しているというのは、冴名も聞いた事がある。
多くは名字にちなんだ駄洒落のようなものだ。兄の久綱も、奴らはしょっちゅう名乗りを変えて全く面倒くさい。と嘆いていた。
「実はお前の名前も考えたんだ。聞きたいだろう」
見上げる冴名は三白眼になっている。
「別に」
本当に、余計なお世話だった。
「
冴名(さな)と早苗(さなえ)が掛かっているらしい。
「語呂は悪くはないけど、何で五月」
しかも何故、男の名前なのだ。
甚次郎は、おや、という顔になった。
「冴名って、五月生まれだったろう」
「違います。誰と勘違いしてるんですか」
「そ、そうか」
はぁー失敗した、と意気消沈した様子で立ち止まる。
「じゃあ、第二の案だ。
あっけらかんとした声に、冴名のこめかみの辺りがぴくぴく震えだした。
おい、と云うその声は地獄からの風のように低く冷たい。
「それは人の名前なの。
それをわたしに付けようというのか、この男は。
「ああ、それもいい。さすが冴名は物知りだな」
まったく動じた様子の無い甚次郎の背中を見て、冴名はため息をついた。
そこで、ふと気が付く。
「ねえ甚次郎。いったい何処へ行くつもり。山菜採りじゃなかったの」
彼は迷いも無く、城の裏手の雑木林へ向かっている。そこは急峻なうえ、山菜が生えるような場所ではない。
「ああ。山菜採りは口実だ。こうやって冴名と山へ入りたかった」
どこか緊張した面持ちで甚次郎は言った。
「え、まさか。それって」
冴名の頬に血の色が上った。いつまでも弟のように思っていたけれど、やはり甚次郎も男だったのか。冴名は急に足元が浮くような感覚になった。
「あ、あ、あ。だったらそれなりに心の準備とか必要だから、ねえ、甚次郎。ちょっと戻って、着替えとか」
うろたえる冴名を怪訝そうに見た甚次郎は、いきなりその手をとった。
「何を言っている。さあ、行くぞ。冴名」
「あ。は、はい」
がっしりとした手に握られ、冴名は甚次郎の後に続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます