第21話: シニフィアン
「……馬鹿げてると思わないかい?」
「何が?」
いつもの制服。緩んだネクタイ。ズレたリボン。
「第一志望の合格も、なんなら後期試験も終わってないのに高校生が終わるなんて」
「そんなもんでしょうに」
手には卒業証書。教室には誰もいない。
「さて、最後の馬鹿話をしようか」
荷物も、掲示物も無くなった空間。少しの寂しさと、開放感とともに机の上に座った僕たちは話し出す。
「シニフィアンを決めよう。私が君に持ってる感情は、好意と言って差し支えないと思う。もちろん、恋愛的な話は抜きでだよ」
「うん」
記号的なシニフィアンを決めたということは、その中身について話すのだろう。名前をつけることは議論にとって重要なのだ。
「おそらく、私にとって相手に捧げられるものが低いんだ。一番行為を抱いている君のために、私は何かをしたいという衝動を持たない。頼まれれば引き受けるだろうし、恩義も感じる。とはいえ、それはあくまで能動的なものなんだ」
「……なるほど」
エイカが恋を嫌いな理由の一つは、それが理解できないからだったはずだ。
「私は自分の感情に嘘をつかないことを、君と円滑な関係を築くこと以上に優先する。これは純粋に価値観の違いだ。そして、きっと私は君とどこかで相容れなくなる」
「……うん」
辛いことだ。エイカが色々と考えていることに比べれば告白した側であるこっちの悩みはないに等しいし、告白する前に考えていたことなんてそれ以上に薄っぺらい。
「もちろん、それは変わるかもしれない。私だって恋に目覚める日が来るかもしれない。矛盾なしに信用できる人が見つかるかもしれない。とはいえ、そうなった私は多分君の好きな私じゃなくなっているんだ」
「……そう?」
「前に言ってくれたよね。私の好きなところ。私の仕草も、話し方も、考え方も、行動も私が恋をしたくない、いやできないからこそ持っているものなんだ。そういうところに惹かれてしまった君は、本当に可哀想だけど最初っからなんというか……矛盾していた、でいいのかな」
「……そうすると、僕がもし他にエイカみたいな人を好きになっても」
「難しいだろうね。私は私以外の人間の心理を完璧には知らないし、深く関わって感情を知ろうとした相手は君だけだ。それでも、私と似た人間をこれでも何人か知っている。……中には、恋愛経験がある人もいるね」
「いるんだ」
「……まあ、その人は結局別れてしまったんだけどね。自分が無力だってことに耐えれなくなってしまったらしい。君だったらさ、そういう相手と一緒に破滅できるだろう?」
「……やりかねない、とは思う」
今、エイカが何もかも捨ててどこかに行きたいと言ったら付き合ってしまうだろう。下手すれば大学とか将来とかも気にせずエイカについていくかもしれない。落ち着いてきたとはいえ、そういうことを考えるぐらいにはエイカへの恋心は大きかった。
「私には無理。どうしても、色々なものが私の歩みを止めてしまう。君が破滅する時、見送って骨を拾ってあげるぐらいは半ば義理でするだろうけど、一緒に破滅しようなんてことはできない。……臆病だとか、情けないとか言ってくれてもいいよ」
「言うと思う?」
「言ってくれれば私も楽なんだけどね」
エイカの悲しそうな笑顔。いつも、この顔は僕の心を掻き乱す。
「私は君が好きだ。だからこそ、嫌われてしまいたい。君に恋をできない自分について、何とも思えない自分が好きじゃない。矛盾した感情に苦しめられたくない。……全部、君のせいだって言えればどれだけ楽か」
「……僕の告白が、全ての元凶じゃないの?」
「いいや。それはあくまでもきっかけだ。確かにそのきっかけがなかったら私は面倒な心理的矛盾に向かい合う必要はなかったが、きっといつかは対峙することになったと思うよ。そういう意味では多分長期的に見てこの経験はきっと悪くないものになるんだろうが、今の私にはそこそこキツい」
「……そっか」
「一応は、私は君を特別扱いしているんだよ」
「それは、わかってる。……この先を、言っていい?」
少しの間。エイカが息を吐いて、僕の目を見る。
「それはきっと、私たちの関係をまた不可逆なものに変えるよ」
「エイカの言葉で、僕は何度も戻れないところにまで引っ張られたんだけど」
「……それも、そうだね」
エイカが呟く。
「……僕は、エイカといわゆる恋人がするようなことをしたい。もちろんそれは、もし叶ったとしてもエイカを傷つける願いだってことはわかってる。エイカが僕を特別な相手だと思ってくれてるのはものすごく嬉しいけど、僕が求めているものとは違う。でも、僕はそれでもいい」
「……馬鹿だね」
エイカが笑った。
「私は相当鈍感な方だ。自分の感情を弄る方法だってきっと人以上に知っている。その私が苦しんでいる感情と鏡写のそれを、私以上に繊細で人の心がわかるような君が背負うつもりなんだね」
「褒めてるのか馬鹿にされてるのか、わからない」
「どっちでもないよ。私から見た、君の一側面について言及しているだけ」
「……そっか」
エイカからすれば、きっと僕の方が悩むように見えるのだろう。そういう意味で、僕たちは鏡写なのかもしれない。
「では、別れ話を始めよう」
「付き合ってもいないのに?」
「関係性、という意味だったら今まで持ってきただろ?」
多分、僕が知っている中で一番落ち着いた別れ話になるだろう。
「ところで少し休憩しない?喉が渇いた」
「……ちょっと、トイレ行ってくるね」
「はいはい」
そう言って僕たちは立ち上がった。流石に、ぶっ通しで話せるほど僕たちの心は完成していない。
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