第17話: リンゲルマン効果
「君の大学、家から通える範囲だっけ」
「そうなる、ね」
もきゅもきゅと食べながら、僕たちは話を続ける。
「大学入ってからのこと、考えている?」
「全く。きっとどうにかなるでしょ」
「……せめて、勉強はしっかりしときなよ」
「正直、サークルに入れるかも怪しいから授業をしっかりやると思うよ」
「ならいいけど。君はタスクがないと動かないタイプだから」
「そうかな?そうだね」
「理解が早い。100点をあげよう」
「わあい。ちなみに満点は?」
「加点式だからないよ」
馬鹿な話をできる相手として、エイカは多分今の僕に一人だけの友人だ。
「第一志望に行ったら、何するの?」
「……そうだね、まず図書館に行きたいかな」
なんとなくの僕の意図、受験に心を切り替えるための言葉はなんとか受け取ってもらえたらしい。
「市の図書館じゃダメなの?」
「専門書がね。知りたい歴史分野がいくつかあるんだけど、ちゃんとした入門書がないんだ。流石に英語はまだ読めないから、日本語文献を所蔵しているところってなるとやっぱり大学図書館か国立国会図書館になってしまう」
「国立国会……どこかで聞いたな」
「NDLとも言うね。一応本を発行したものが納本する義務のあるところ」
「つまり、日本中の本がある?」
「そ。理論上はね」
そういう場所があるなんてことを、実は今まで考えたこともなかった。
「ところで、理論上っていうのは?」
「法的には自費出版だろうが同人だろうが国立国会図書館に送らなくちゃいけないんだよ。罰金も定められてるし」
「その罰金、適用されたことあるの?」
「私の知る限りないよ」
「やっぱり」
なるほど、現実は難しいものらしい。
「ところで、そういう資料は結局最後は英語で読むことになるわけ?」
「そうとも限らないよ。ヨーロッパだとフランス語とドイツ語は歴史をやるなら重要になるし、ラテン語やギリシャ語を使えるならそれに越したことはない」
「ラテン語……」
「ヨーロッパで永く学術分野に使われてきたからね。古代ローマ帝国の威光が消えたのは宗教改革と科学が始まってからだよ」
「ラテン語って、古代ローマの言葉?」
「そうそう。って言ってもぱっと思いつく一般的な用法がないな……。SPQR、ヰタ・セクスアリス、学名とか?」
「……読めるの?」
「活用がとても面倒でね。英語って三単現のsと過去形、進行形ぐらいしか動詞が変わらないけど、ロシア語だと性別でも変わるっていうのは知ってる?」
「なんとなくは」
名詞に性別がある、みたいな話の延長線上だろう。
「それに法、ムードが加わる。命令とか疑問とか、って言えば良いかな」
「……それ、活用表が大きくならない?」
「まだ序の口だよ。さらに動詞によって活用がかなり異なる。で、不規則動詞もいくつか」
「……そう考えると、英語って簡単なんだね」
「ヨーロッパでもラテン語は難しいとされるんだ。語族すら違う私たちが学ぶのはさらに、だと思うよ」
こんな話をしていると食事が進んでいた。
「……何を読んで、そんな知識を身につけるの?」
僕の質問にエイカは少し悩むような顔をした。
「……何だろ」
「えっ」
「正直、思い出せない」
「そういう、もの?」
「……頭の中で一回整理すると、多分出典を忘れるんだと思う。そういうこと、ない?」
「どうだろ」
「うーん、ああ、恋にしようか。君が思っている恋の、出典はあるかい?」
どこかで見たドラマとか、又聞きした少女漫画のあらすじとか、興味本位で引いた国語辞典とか。
「……なんとなく、わかった」
「そう考えると、案外私達はどこから情報を手に入れたかわかってないんだよね。家族や学校で学びそうにないことを案外知っていたりするし」
「不思議だね」
「まあ、そうやって偏見は積み重ねられていくんだろうけど」
エイカが少し乱暴に言葉を吐く。
「……エイカはさ」
「なに」
「将来、誰かと結婚すると思う?」
「面白い質問だね」
この話し方の時のエイカは、大抵興味津々だ。
「前提を確保しよう。何でそんな質問を?」
「なんとなく。それと、エイカがどういう風に捉えているかが気になった」
「なるほどね」
食事も終盤に差し掛かりつつあった。
「そもそも相手が私に恋愛感情を持っていない方がいい。とはいえ、法的関係を持って、一般的には相互に独占契約をするわけだ。生活の場も共有する以上、やっぱり信頼とかが重要視されるのかな」
「……結婚って、あくまで書類上のものだから別居とかもあるのかと考えてた」
「ああ、多分私はそれをしないよ。だってそれなら結婚の意味がないじゃないか」
「エイカの思う結婚の意味って?」
「税制上の扶養控除、公的書類の代理引き取り、あとは結婚相手の死に目に会えるとか?」
「……一緒に暮らすことで、家事を分担するとかじゃないの?」
「……ん?」
齟齬があるらしい。こういう時は、疑問を口にするのが一番だ。
「なんていうか、エイカの言う結婚って法的っていうか社会的なものが多くない?」
「だって、そういう前提だろう?」
「いや、相手をどういう基準で選ぶのかみたいな方が気になる」
「……ああ、わかった。さっきまでの話は同棲を前提にしている」
「うん」
「で、誰かと一緒に暮らす場合には契約や取引をどっちかの名前で一括して行うことが多い。その時に、妻って肩書きは社会内でかなり便利だ」
「つまり、結婚のための結婚はしない、相手がいて、そういう関係にとって結婚が……その……」
「シナジーがある、っていう用語がカードゲームとかにあるね」
「ニュアンスは近いはず」
「シナジーがあるから、結婚をする?」
「そうなるね」
「……次に行くよ。どういう相手と、一緒に暮らしたい?」
「正直、私にそういう相手が見つかるかわからない」
「そうなんだ」
「二人でやるより一人でやった方が仕事の効率が上がる、っていう話があってね」
そう言ってエイカはスマホを取り出す。
「リンゲルマン効果、だね。綱引きを考えるよ。10人で引っ張っても、1人で引っ張る10倍の力で引けるわけじゃないんだ」
「力を入れにくい、みたいな話じゃないよね」
「うん。サボるんだ」
半分納得、半分意外。
「リンゲルマンの綱引き実験では8人で綱引きをすると平均で全力の半分しか出さないようになるらしい。もちろんこれは家庭、具体的には二人で同棲する時と様々な面で違うけど有用な示唆を与えてくれそうじゃない?」
こういう言い回しは、きっとエイカが読んできた本から少しづつ学んでいったものなのだろう。
「企業にとってこの問題が深刻なのはわかる?」
「……個人のパフォーマンスが低下するから?」
「そうそう。で、これを回避する条件がいくつか提案されている」
そう言ってエイカは画面を滑らせていた指を止めた。
「努力が必要な環境であること。自分の成果がはっきりと見えること。周りが優秀すぎても、ダメすぎてもよくない。どっちも自分が頑張らなくても良いって考えになっちゃうからね」
「……逆に言えば、そうでない環境での共同生活はできない」
「そうだね。合理的に話せて、趣味が近いか干渉しなくて、仕事分担ができること。これが私が相手に課す最低限の条件になるわけ」
これだけなら、普通の結婚の話と近いだろう。
「好意、つまり君みたいな理屈をすっ飛ばした献身がない場合にこういう関係を維持するのって綱渡りになるのはわかる?」
「バランスを崩すとどうしようもなくなる、から?」
「そうそう。人間は常に完全なパフォーマンスを出せるわけじゃないし、動けなくなることはそう珍しいわけじゃない。そういう時、同棲は言うなれば消費が二倍になるわけだ。それを相互信頼だけで構築するのって、相当難しいはずだよ?」
「まとめていい?」
「いいよ」
「結婚は同棲した時にメリットがあって、同棲は無償の献身なしには難しい、と」
「そうだね。で、私は無償の献身という概念をうまく飲み込めない。私が一番好意を持っている君であっても、メリットなしに付き合えるわけじゃない。今日だってリフレッシュに付き合ってくれるっていう私にとってのメリットがあったわけで」
「……なるほど、ね」
少しづつだけど、エイカの説明が飲み込めてきた。
「保険をかける、っていうのは?」
「どういうこと?」
僕の言葉にエイカが首を傾けた。
「無償の献身がないとするよ。相手が動けなくとも、自分だけがその作業を分担する必要がないように周りに頼むとかっていうのはどう?」
「人間関係が必要になるよね。あるいはそういう人を雇えるだけのお金か」
「……うん」
「地域共同体や、信頼できる家族がいればいい。でも、それの根底にあるのは無償の献身だよ。お返しは期待しているだろうし、場合によっては無言の義務となってくるけど、それでも最初は献身が必要になる」
「……そう?」
「そうじゃないと関係が回らないと思うな」
「最初に人を助けるとか、ちょっとしたことをするとかでも関係を回し始められると思うんだけど」
「私はそこそこ冷酷な人間だよ。最近やっと社会からどう見られるかで様々なコストが変わってくることを学んだけど、そうでなければ困っている人は見捨てるし、面倒ごとは避けるし、好きなことをやるためには適当な人を犠牲にする」
正直なところ、エイカのこの言葉を否定することはできなかった。僕らがクラスで浮いていたのは人間関係をうまく作れなかったからだし、僕らの間には約束も無償のなにかもなかった。話していると面白い、というだけの関係。
「もちろん感情がないわけじゃないよ。でも、それが全てじゃないだけ」
「恋が全てじゃないように」
「そう。とはいえ、君の好意はできるだけ何らかの形でお返ししたいとは思ってるよ。これは感情的なものもあるし、引け目につけ込まれたくないっていうそこそこ理性的な理由もある。もちろん、そのお返しは私にとってメリットのある形で行いたいところだけどね」
そこまで言って、エイカは水を飲んだ。
「つまり、私が誰かと一定以上関わると、きっとその相手は不幸になる」
「そこ。僕はそうは思わない」
言わなくちゃいけない。特にこれについては何度でも。
「例えば僕の場合、どこまで関わったら不幸になるの?」
「……私でも、この関係を壊したくないから多少は気を使う。でも、何かミスをしたら?相手の感情を逆撫でしたり、困っている時に慰められなかったり。君が辛かろうが、私がそれを察することは難しいし、きちんと対応するなんて難しいよ」
「……そばにいてくれれば、それでいいんだけど」
本当はもっと多くのことをエイカに求めたい。ここで言えないようなことも。でもそれは無茶な願いで、口にしたら脅しになってしまうんだ。
「うーん、どうにも想像できないな」
エイカは重心を後ろにずらした。
「ま、そろそろ行こうか。話したいのはわかるけど、待ってる人もいるしね」
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