第13話: 頑張ってね

「君の辞書の中で、恋の定義はなんだい?」

室温、とはいっても時期が時期なので冷たい麦茶を飲みながら僕は考える。

「……誰かを強く思う感情で、独占したい、そばにいたいと感じさせるもの、でどう?」

「オーソドックスだね。でも、世間一般の恋はもっと複雑な意味を含んでいる」

「そう?」

「うん。恋人がすべきこと、するべきではないこと、しなくちゃいけないこと、しなくてもいいこと。あ、恋人は互いに恋をしている二人のことって意味で使うよ」

「それは大丈夫。うん、確かになんとなくだけどルールがあるね」

「でもさ、この関係は恋って名称となんも関係がないっていうのはいい?」

「……赤信号、みたいに?」

少し考えて、エイカは首を振る

「逆かな。複数のシニフィアンに、一つのシニフィエが対応している」

「それだと、困らない?」

「だから、私たちは一般的に事前に取り決めをしているわけだ。私たち、と言うよりも共同体とか社会とかの中にあるからね、常識とか言ったほうがいいかな」

「……わかった。お約束、か」

「そう。ある二者の関係を恋と呼ぶのは呼ぶ人の自由だけど、それが世間一般で言う恋である保証はどこにもないし、そうでなくてもいい……って言えばいいかな」

「……質問をしていい?」

「いいよ」

久しぶりに、あの告白の時と同じぐらいに胸は高鳴っていたけど、心地よい高揚感だった。

「エイカは、関係を恋って呼ばれたくないだけなの?」

「だけ、と言うほど小さいとは私は思えないけど。まあ、そうだね」

張り詰めた緊張を吐き出して、少し残っていた麦茶を一気に飲む。

「それに恋と名付けたら、人間はそれを世間一般の恋にしたがる。命名って、結構な力を持つんだよ。色々な神話で名前っていうのは神聖視されていたのは知ってる?」

「ええと、古文でやったな……」

「そそ。イミナって考え方だね。本当の名前を使わないっていう考え方。もちろんこれは直接は関係ないんだけど、それはどう扱われるかで中身が変わることがあるんだ。再現性に疑問があるけど、先生が事前にここのクラスは伸びる生徒たちが多いと伝えられて教鞭を取ると実際に成績が上がる、なんて実験もあったし」

「……少し、飲んでいい?」

「どうぞ」

ヤカンから麦茶を注いで、一口。

「昔さ、エイカにどこか行って欲しくないって言ったの、覚えてる?」

「まあ、ね」

「……エイカに、行かないでってお願いしたらそばにいてくれる?」

「無理だよ」

言い切られてしまった。

「私の志望校はたぶん一人暮らしが必要な場所になるし、スケジュールも合わなくなるだろうからそうそう会えはしないよ。そりゃあ連絡とかくれれば予定は合わせたいと思うけど、君を最優先にできるほど世界はつまらなくないんだ」

「……僕といるのが、嫌なわけじゃない」

「嫌なやつを家に招くものか。まったく」

なんというか、改めて聞いて少し気が楽になった。

「……恋は、辞めてみるよ」

「そうした方がいいね。できるんだったら」

「無理だと思う?」

「さあね。私にはどうにもならないことだから、それなら楽しんだ方がまだいいと思ってるけど」

「でもさ、仲良くはしたい」

「いつまでかはわからないけど、いいよ」

理屈はわかるし、これ以上何かを言うと押しつけになる。それでも言うべきか、それとも飲み込んだほうがいいのか悩みながらぼんやりコップを見ているとエイカが口を開いた。

「とはいえ、私は別に積極的に離れたいわけじゃないっていうのは理解してよ?」

「……うん」

「愚痴なら、口に出したほうがいいと思うよ。どうにもならないことでも言えば少しは楽になるかもしれない」

「……たまに、連絡していい?」

「流石に多すぎたら言うし、それでも減らなかったら連絡手段を断つけど」

「どのくらいの頻度を想定してるのさ」

エイカが少し考え込む。

「……そんなに、難しい?」

「実際にそういう状況にならないと正確にはわからないけど、私が義務感を感じるレベルだとダメだと思う。だからルーチン的なものじゃなくて、もっと気まぐれにして。私が規則性を見抜けないぐらいならいいけど」

「毎月はダメか……」

「別に多い時があってもいいよ。大学で課題とかなければ一時間かそこら話すのはできるだろうし」

「……わかった」

「あ、私のLINE知ってるっけ」

「クラスのに登録してるからそこからわかるはず」

「ならいいや。……私、このあと勉強するけどどうする?個人的には可及的速やかにお帰り願いたいんだけど」

「言い方酷いよね?」

クスクスしているエイカからの言葉でなければきっと僕の精神はボロボロになっていたことだろう。

「あ、あと受験が終わるまで連絡しないで。流石に追い込みたい」

「わかった。じゃあ、次会うのは登校日かな」

「そうなるね。いつだっけ」

少し僕たちは考えて、スマホを確認し、ほぼ同時に答えを出す。

「うわもう2月も中頃か。嫌だな試験が音を立てて近づいてくる」

「……怖い?」

「怖くないわけないだろうに」

エイカは笑っているが、これは言葉通りに強がりだ。

「ま、共通テストで滑り止めは受かってるだろうしね」

「どこ取ってるの?」

エイカが言ったのはそこそこ大きな近場の大学。

「偏差値、僕のところと同じぐらいだよ?」

「普通に教授陣が良いからさ」

僕はカバンを背中に負う。

「……頑張ってね」

「……その台詞、誰かに言われたら殴りたいと思ってたんだよね」

「どうして?」

「まるで私が頑張ってないみたいだから。いいや、違うな」

エイカは赤本をめくりながら言う。

「私が、何にもまともに取り組めない中途半端な人間だって突きつけられるようで嫌だから、かな」

その言葉にいたたまれなくなって、僕は小走りで外に出た。

「鍵は私が閉めておくよ」

後ろから聞こえたいつもの調子のエイカの言葉も、早足の僕を止めることはできなかった。

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