第12話: 記号論

第一志望の試験から数日経って、僕は久しぶりの学校に行く。一応共通テスト後に登校して採点会があったのだがエイカと会えなかった。

「発表は?」

「来週」

休み時間になるやいなやエイカが飛んできた。

「……その様子だと、問題なさそうだね」

「思ったより余裕があったから」

筆記試験の自己採点はやけに合格点が高かった一昨年よりも上だ。まず大丈夫だろう。

「エイカは……あまり良くない?」

「心がぶっ壊れかけてる」

少しだけ違和感のある笑顔。ちぐはぐな表情筋の動きでもしているのだろうか。僕の観察眼では詳しいことはわからない。

「そういえば過去問解いてて思い出したんだけどさ、シニフィエとシニフィアンって話はしたっけ」

「なにそれ」

「前そういう話をしようって言ったっきりだったからさ」

一応これから大掃除なので教室がバタバタし始める。

「放課後はワックスかけられるから、教室は使えないよ」

「うーん」

エイカは少し唸って、口を開いた。

「私の家でいっか。どうせもう勉強しないんでしょ?」

僕は首を縦に振った。


「ソシュールの話をしよう。スイスの言語学者だ」

エイカの家は学校から歩いてそこそこの距離にあるらしい。信号を考えれば自転車に乗るのも少し微妙なぐらいの場所。

「言語学、ってわかる?」

「言葉の学問、だよね。英語とか、フランス語とか……」

「そう。でも言葉っていうのは幾つかの側面がある。それを彼はラングとパロールに分割した」

「ラングは、languageのlang?」

「フランス語のlangageラングだね」

「フランス語って変なふうに文字を読まないよね」

「私の気に入ってるジョークだと、フランス語の文字の半分は発音しない黙字。もう半分は不規則な読み方をする、っていうのがある」

何となくわかったので笑う僕。

「ラングは文法、パロールは内容って感じ。発音とか、文法とかがラングで、それによって伝えられるもの、つまり書かれたものや話された音がパロール。ここまでは?」

「いいよ」

「それで、ソシュールは言語学はその対象をラングに絞るべきだと考えたんだ。で、実はこれは本題ではない。彼は同時に記号論という分野の創始者でもある。記号っていうのは意味を伝える中間役のことで、文字とか音のことね」

「ここではそういう意味として扱う、ってこと?」

「そうそう。学術用語だと思って」

横断歩道の前で、僕たちは止まった。

「信号が赤、っていうのは記号だよね」

「うん」

「でもそこに、赤でなければならない理由ってある?」

「警戒色とか法律とかあるけど……ない、よね」

「うん。それは恣意的に決めることができるわけ。でも、止まれっていう内容は変えられないよね」

「伝えたいことそのもの、だからね」

「そう。これがシニフィエとシニフィアン」

フランス語っぽい響き。

「シニフィエがイメージで、シニフィアンが記号の表現。古い概念だとシニフィエとイデアが似てるんだけど……一応違うものだしな」

エイカが呟きながら説明を練っている。

「まあ、一応この中身に触れるのはやめとこう。やりすぎると面倒になる」

エイカは上を見た。

「あくまで言葉っていうのは、ラベルに過ぎない。シニフィアンに縛られすぎないようにしないと」

「……どういうこと」

「端的に言うなら、私は私と君の関係に恋というシニフィアンを使いたくない」

気がつくと、小さな一戸建ての前に僕たちはいた。

「いらっしゃい。麦茶でも飲むかい?」

鍵を開けながら、エイカは言う。

「……失礼します」

人気のない空間に向かって、僕も声を出した。

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