第10話: 認知的不協和

「お疲れ様」

共通テストの帰り、コンビニのイートインでカップ麺を啜っていた僕の隣にエイカが座る。

「……よく見つけたね」

「偶然だよ」

エイカが手にしているのはレンジで温められたおにぎり。

「どうだった?」

「今日は自己採点しないことにする」

「英語、少し難しめだったね」

「エイカが難しいって言うなら僕には無理だよ」

そう言って僕はアミノ酸等でしっかり味付けされた汁を飲む。頭に響く美味しさ。

「エイカはそっか、朝からだっけ」

「そうそう。世界史Bと倫理」

「倫理なんて取ってるんだ」

「学年で私だけだったよ。先生が難しい顔してた」

容易に想像できるので笑ってしまう。

「でも、何で?」

「中身があるから、かな」

エイカが開けたおにぎりを一口齧って、また話し始める。

「政治とか経済とかって、あくまで今のシステムが前提なんだ。けど社会ってどうしても観測とか理論化で変化するし」

「……どういうこと?」

「物理法則って、少なくとも私たちの知る限りでは何度実験しても同じような結論になるよね。物は下に落ちるし、暖かいものはいやでも冷める」

ぬるくなった手の中の発泡スチロールの容器。

「でも政治や経済は違う。新しい思想が現れ、それを取り込んだ体系ができて、今までの理論が通用しなくなって、また新しい思想が必要になる。その繰り返しが、私は好きなんだよ」

また一口。僕も麺のなくなった汁を飲む。

「歴史が、好きなの?」

「まあ、ざっくり言えばそうだね。倫理はいいよ。少なくとも過去の思想の話がある。変化は高校レベルでは飛び飛びだけど、少し調べればなんとか線を引ける。あとは世界史と照らし合わせると結構面白いのはあるね」

エイカはたぶん、それを勉強だと思っていないのだろう。知的好奇心の延長線で、学ぶことが楽しいもの。僕にとっては化学の一部がそうだった。有機化学でパズルのように構造式を導き出すのにワクワクしたのを覚えている。ルールを適応して、候補を絞って、条件に合ってるか確認する。多分、そういうワクワクと似たようなものなのだろう。ジャンルは違うけれども。

「君は今日英語だけか」

「うん。エイカは明日もあるんだっけ」

「そうそう。生物と数学」

「選択、生物なんだ。僕は物理と化学」

「……志望校、理科二科目だっけ」

「ううん。でも先生が受けとけって。料金変わらないんだからって」

「正論だがなぁ……」

エイカは苦笑いをした。

「ま、実力を知るのはいいことだよ。私は記念受験と揶揄されそうだけど」

「僕はそんなこと思わないよ」

「……私の現状を知っていて?」

「……頑張ってる人は、うまくいってほしい」

「君の願いはありがたいけど、それを世界に適応するのはやめておきな」

エイカは、難しい顔をする。

「……理由を、聞いてもいい?」

「公正世界仮説」

言い切るように、エイカが言った。

「正義は最後に勝つし、努力は報われる。悪いことをすればバチが当たるし、失敗したのは怠けていたから。こういう考え方はわかる?」

「うん」

子供騙し、とまでは言わないがお約束だろう。

「なぜこのような考え方が存在していると思う?」

「……努力した人が、成功したから?」

「より厳密には、成功した人に、努力した人が多かったから、かな」

「何が違うの?」

「努力しても成功するとは限らないし、成功していても努力してない人はいる」

勉強を勉強と思わずにできる人とか、と僕は頭の中で付け足した。

「まあ、傾向はあるよ。とはいえそれは真実ではない。問題は努力が報われるなら報われてない奴は努力してない、すなわち自業自得だって考える場合」

「……それって、よくあるよね」

「気がつけるだけ君はいいよ。結構な人が無意識でやるから」

エイカは重い息を吐いた。

「でも、こういう考え方が社会を支えているのは事実。いいことをしたら明日きっと何かいいことがあるって思わずにやっていけるほど世界は楽しくない。けど、そうやって自分を支えていた人が真面目にやっていたのに失敗したような人を見たらどう思う?」

「自分の考えが間違っている……とはならないんだよね」

「そう。きっと本当は真面目にやってなかったんだろうと考えがちだ。これはフェスティンガーの認知的不協和という考え方で説明できるね。イソップ童話の酸っぱい葡萄の話、知ってる?」

「結局葡萄が取れなくて、負け惜しみみたいに言う狐の話だっけ」

「そうそう。基本的に人間は自分の知識や経験と矛盾が少なくなるように、と世界を解釈するんだ。例えば真面目にやっていたのに失敗した人を見て、その人の成功を信じていたのならちゃんと評価されない社会が悪い、とかいう解釈をするかもしれない。これは自分の持っているその人は真面目で、成功するはずだっていう考え方を優先させたからだね」

「……なるほど」

「で、この認知的不協和が限界になるともっと破滅的な解釈をすることもある。とはいえ、ある程度の人は自分の矛盾を見つめることができるんだけど」

そこまで言って、エイカは僕の目を見た。

「だから、私がもし失敗しても何も責めないでいいよ。それは私の実力だし、後悔も苦しみも私のものだから」

「……ちょっとは、共有させてよ」

「私は友人にそういうのを投げられない」

「……そっか」

「別に君を軽視しているわけでも、打たれ強いってわけでもないからそこは注意してね?慰めの言葉が案外効くかもしれないから」

「わかった。でも、こういうの話していいの?」

「どういうこと?」

「……なんていうのかさ、退路を絶った方が全力を出せる、みたいな」

「別に受験はそこまでのものじゃないよ」

意外な言葉に、僕は少し驚く。

「生きるだけなら今の社会でも何とか、まあ、たぶんなる。別に大学がどうだろうが、のんびり生きるだけなら問題ないよ。そりゃあこの教授に師事したいとか、この場所に行くためにはこの大学が必要だとかなら話は別だけどね?私はそのレベルじゃない。偏差値なんて、あくまで統計学的な数字に過ぎないのにそれが全てみたいに言ってくるのが良くないよね。いやもちろん第一志望はいいとこなんだけどさ……」

「エイカは、先をちゃんと見ているんだね」

「違うよ。眼前の課題から目を背けて適当に遠くを見てるだけ」

「……そう、なのかな」

「そうだよ」

僕は冷めてしまったスープを流し込んで、席を立つ。

「それじゃあ、行く?」

「行こうか」

そう言ったエイカもカバンを持って、席を立った。

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