第8話: INVIDIA

「感情の話をしようか」

こういう内容をエイカと話すのは久しぶりだ。

「どういう?」

「妬み、といこう」

黒板にエイカはアルファベットを書いた。

「INVIDIA、VIDIAっていうのはVideoとかVisionとかと同根」

「妬みってenvyじゃないの?」

「これはラテン語。envyもここから来てるよ」

相当形が違う気もするが、そう言われればそういう気もする。

「見ること。敵を見る。何の敵?」

「……自分より上の存在」

僕の答えに、エイカは嬉しそうに首を縦に振る。

「心理学では嫉妬と羨望を分けて考える。違いは?」

「……恋愛と絡むか、とか自分がなれるかどうか、とか?」

「なかなかいい線をいっている。一応の定義で言うと、嫉妬には3人必要となるんだ」

エイカは三つの円を三角形になるように並べて描く。

「これは君。これは私。で、これが私が付き合っている人間だ」

普通そういう時には人間という用語を使わないんじゃないだろうか、などという野暮な突っ込みはやめておく。

「君がこの対象に嫉妬するのは、私の価値観に依る。一方で、君が羨望の感情を持つとしたらそれは君の価値観に基づくものだ」

「……なるほど」

「多くの宗教で羨望は戒めるべきものとされている。ここから導かれる結論は?」

「……羨望は、一般的に悪とみなされる?」

「うーん、そうなんだけど少し私の予想と違うな」

エイカは首を傾けた。

「飲酒。重婚。特定の動物の殺傷。いくつかの宗教で、異なったものが禁止されている。一方で殺人は基本的には、少なくともその宗教共同体の構成員に対し無条件で許されるものではない。これは価値観の差もあるのだろうが、それが問題とされたか、という風に言ってもいい」

「問題、か」

「すなわち、それをした奴がいたんだよ。多くの宗教で禁止されてるってことは、それだけ基本的なのさ」

「……つまり、人間は本質的に妬むものだ、と?」

「その通り」

笑顔のエイカ。

「何かを得ることは、より生き延びる可能性を上昇させてきた。逆にいえば、何かを奪いたいという感情を持っている存在は、そうでない存在よりも残りやすい。生命であれ、文化であれ。ミームはわかる?」

「ネットミームのミーム?」

「そう。語源は?」

僕は首を振った。

「リチャード・ドーキンス。イギリスの無神論者で進化生物学でかなり有名な人。『利己的な遺伝子』で有名だね」

「タイトルだけはどこかで聞いた」

「うん。で、彼はその本の中で情報も遺伝子のように子孫を残し、進化していくと主張しているんだ。それがミーム。遺伝子のgeneと音を似せたかったらしい。かくして、文化はミームによって編まれた布のようなものになる」

頭の中でうにょうにょと虫が動く。これはワーム。

「適応できないミームは淘汰され、広まるミームは生き残る。恋だってそうだ。単純な関係をより複雑にさせれば、それだけ相手をはじきやすくなる。コミュニケーション能力を事前に審査すれば、その後の破局リスクを減らせる。かくしてルールは難解になり、安易に月が綺麗ですねと言うことができなくなったのだ。ここまでは?」

「半分ぐらいは」

流し込まれる情報に溺れないのが精一杯だが。

「君は私を介して誰かを妬んだかい?」

「ううん」

「そっか。友達いないしな……」

少し寂しそうなエイカ。確かに、エイカが誰かと話しているところをあまり見ない。可愛いし話も面白いから、僕以外にもエイカのことが好きな人がいてもいいと思うのに。

「……色々考えたんだけどさ、ひとまず好意は受け取っておくね」

「えっ」

僕の表情を見て、エイカは悩むような、それでいて笑うような不思議な顔をした。

「もちろん、それは君の思っているような関係になりたいわけじゃないことは理解してよ」

「わかってる」

「うん。ともかく、私は君に好かれるのはそう悪くないって思うんだよ。見返りに何かをするか、って言われるとそういう気にはなれないのは君にはすまないけどね」

「……いいよ。嫌なら、仕方がない」

「正直、殴りたいとかだったら一発ぐらい良かったんだけどね」

ため息を吐くエイカ。

「君の感情は、全く理解できない。一体どういう理屈で、私にそんな好意を持っているのかさっぱりだ。とはいえ、それは私に価値を見出してくれているということだし、私の無茶を許容してくれるってことだから、そういう意味では……あーわからなくなってきた」

恥ずかしがっている、のだろうか。自分の思考が空回りしているような、褒められてむず痒いような。

「ただ正直、感情的には君に嫌われたいっていうのもあるんだけど」

「どうして?」

「好かれることを許容できなくなりそうだから、かな」

「……なんとなく、わかる。僕だって、今の関係が辛くないわけじゃない」

「とはいえ、どうせ私と話すことを選ぶんだろ?」

「……きっと、ね」

「私だってたぶん、君と話すことを選ぶよ」

「そういう関係で、いいのかな」

「私は許容範囲だよ」

エイカの言葉を額面通り受け取っていいものか悩む。実は傷つけているんじゃないかとか、これはただの自傷行為にも似た刺し合いなんじゃないかとか。

「そういえば疑問なんだけど、相手が思い通りにならない感情ってわかる?」

「……それは、絶望とか苦しさとか」

「ううん。もっと嫉妬に近いもの」

「二人だけしかいないんですよね?」

「二人だけしかいないよ」

僕は何となくあたりを見渡す。エイカ以外いない教室。暖房の音。暗い窓の外。

「……それは、僕が持っている感情?」

「君が、持っていそうな感情」

僕の好きな人が、僕を好きでいてくれないという事実に対する感情。

「……わからない」

「そっか。私も少し調べたんだけどいい用語がなくてさ」

重い空気を破るようにエイカが背伸びをした。

「そろそろ、冬休みか」

「……うん」

「……受験勉強はどう?」

「まあまあ、かな」

模試の結果を信じる限り、今のままいけば大丈夫だろう。

「友人として、応援しているからね」

「……好きな人の成功を、願ってもいい?」

「いいよ。できたら心の中でにして欲しいけど、受け取ってあげる」

エイカの笑顔は、いつ見てもドキリとするものだ。

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