第7話: Dreißigjähriger Krieg
「……大丈夫?」
悩んだ結果、僕は机に突っ伏すエイカに声をかける。
「いいえ」
端的な答え。わかりやすい。
「温かい飲み物」
「左から二番目の自販機、一番下の段の濃いめのココアで」
「わかった」
エイカを教室に残すのは気が引けたが、ゆっくりと扉を閉じて冷える廊下を進む。多分、模試があまり良くなかったのだろう。僕は自己採点の時にもう落ち込んでいたので大丈夫だが、エイカのあの空気を見る限り自己採点よりも低かったとかだろうか。
「はい」
アルミニウムの容器をエイカの机におく。
「……開けて」
「いいよ」
パキリと音を立ててキャップが離れる。エイカの丸まった背中。
「……撫でていい?」
「……ゆっくり、ね」
手を伸ばして、上着の毛羽だった表面に触れる。心臓の裏側あたりにあたるのだろうか。
「やっぱり落ち着く」
「どういたしまして」
「いや、この成績で落ち着いてちゃいけないんだけどさ」
小さい声でエイカは言う。
「案外、私も感情的なんだなって思って」
「どういうこと?」
「この模試、君に告白されてからすぐのやつだよ」
そういえば、そういう時期だった気もする。
「……そばにいてくれたことには、ありがとうを言っておくね」
「……いいの?」
「友人の範囲内だから」
「……そっか」
エイカはゆっくりと身体を起こして、容器に一瞬手を触れてすぐに戻す。
「まだ熱い」
「そう?」
エイカは眠そうで、少し赤い眼をこちらに向けた。
「はい」
エイカが机の上に小銭を置く。ココアの値段の倍ちょっと。
「……いいよ、買った分だけで」
「……君は、奢るとか言わないんだね」
「引け目につけ込みたくない。案外僕も、誠実でいたいのかも」
「まあ、うん。そっか」
ちびちびと、エイカがココアを飲み始める。
「それで、模試はどうだったの?」
「国語の三分の二がズレていた」
「……え?」
「文字通りだよ。精神やられてて確認する気力がなかったんだ」
「……そんなこと?」
言ってからしまったなと思う。
「傷ついたので少し動かないで」
そう言うとエイカは僕の顔に向けて手を伸ばした。
「……いたい」
頬を結構強めにつねられている。
「復讐だからね?」
「……はい」
「まんぞくした」
手を離したエイカはゆっくりと背伸びをした。
「うん。やっぱ甘いもの飲むと気が楽になるね」
吹っ切れたようなエイカと、頬に残る痛みで、僕の感情はグチャグチャになっていた。
「見せて」
「いいけど」
僕は自分の模試の結果をエイカに見せる。
「……悪くない、と思うよ」
エイカは僕の第一志望校の判定を指さす。
「今の時点で50%なら、十分狙える」
「エイカは?」
「私?考え直せって書かれてるよ」
エイカが僕の顔の前に突き出した紙には、この近くで一番大きい公立大学の名前。
「……国語が、悪かったから?」
「それ加味してもギリギリダメ。まあ別に気にしちゃいないけどね」
いつも謎の自信を持つエイカが、今日はどうにも乗らないようだ。
「世界史は、すごいね」
「凡ミスだよ。満点行けたかもしれないのに」
ここで不貞腐れるのもエイカらしいと言えばそうだ。
「どうやったら、そんなに覚えられるの?」
「つなげる、って言えばいいかな」
エイカは言う。
「ほら、適当なページ開いて用語を言って」
ポケットから取り出された青い世界史の参考書。案外この学校の制服の収容力は高いのだ。
「……じゃあ、『30年戦争』で」
昔あったヨーロッパの戦争だってことぐらいしか僕は知らない。聞いたことあるだけすごいと思う。
「Dreißigjähriger Krieg。第二次プラハ窓外放出事件を発端としたもので、最初は宗教対立だったけど最終的には列強と二つの家を巻き込んだ大戦争になった。被害はドイツの荒廃。得られたものは一時的な平和意識と形だけの宗教寛容」
「第二次?」
いきなり無茶苦茶なワードが入ってきたので驚いてしまった。
「うん。プラハ窓外放出事件は第三次まであるよ」
「そんなに」
「最初はフス戦争のきっかけで市長らを落としたもの。これは死んだ。第二次はカトリック教徒であったボヘミア王の即位に反対した貴族たちが起こしたもの。これでは助かってる。最後はチェコスロバキアの外務大臣がパジャマ姿で落ちていたもの。公式には自殺」
「公式には、って……」
「殺されたのは1948年だったかな。チェコが共産主義に染まろうとしていた時代で、まあいろいろあったらしいよ」
よくまあそんな量の情報の引き出しを持っているものだ。
「こういう風にストーリーで覚えてる。お陰で名前とかはパッと出てこないんだけどね」
「それでもすごいよ」
「まあ、このくらいしか取り柄がないから」
エイカの顔は言葉と裏腹に結構嬉しそうだった。
「……読めば、覚えるの?」
「ボロボロになるまで、ね」
そう呟くと、エイカは少し悲しそうな息を吐いた。
「……役には立たないけど」
「……それは、どういう」
「文字通りの意味だよ。ただ暗記して、取り出すだけなら今は機械の方が得意。必要なのは点と点を結んで、裏にある流れを見つける能力。そして残念ながら、私にはそれが足りない」
「そんなこと」
「君はバケモノと話したことはあるかい?」
僕はゆっくりと首を振った。
「いるんだよ。事実の羅列からパターンを見つけ出せる人間が」
「それでも、試験では」
「ああうん。で、その試験はいつ役立つの?受験が終わったら?専門家になれるほどの能力がない私に、歴史の知識があって何になるの?」
エイカは怒ってすらいない。全部受け入れていて、諦めていて、それをわかっていない僕を面倒なやつだという目で見てるだけ。
「……ごめん。軽率だった」
「いいよ。それに、私も意地悪を言った」
エイカは席を立って、教室の前の方に行く。
「のんびり馬鹿話をして、そこそこ楽しい青春を送るのには役立ってるからね」
鍵を取って、手の中でくるくる回しながら言うその表情は、やっぱり少し悲しそうだった。
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