03. 尻実検(前編)

『尻実検』

       落花傘飛高


 当時、野馬のば放男ひるおは小学五年生だった。内気で、また姉二人と妹一人とに挟まれていたせいか、やや女々しい性質でもあった。

 彼の学級には嗅分かぎわき建造けんぞうという大将がいて、取り巻きに為吉ためきち瓶介かめすけ葦蹴あしげ実繰みくるがいた。実繰だけが女の子だった。

 放男は四年生の中頃から実繰の事を好いていたので、建造の事を良く思っていないながらも、しばしば彼らの遊びに交じっていた。

 四月一〇日の放課後の事。建造一派に放男を加えた六人で、教室の机二つを並べ周囲に椅子を寄せ合い、内緒で持ち込んだカードの遊びに興じていた。

 そこへ不意に音もなく総員の鼻を刺す悪い匂い。


「おい、屁したん誰ぇ」

「やあん。これきついわあ」


 建造が怒鳴り、実繰が手で鼻を覆った。

 為吉・瓶介・葦蹴の三羽カラスは一斉に放男に目を向けた。


「おいじゃない。おいはしとらん」


 三羽カラスに釣られて放男を睨んでいた建造が、今度は為吉・瓶介・葦蹴と順に彼らの目を射た。


「違う違う」

「わいも違う」

「おれかて」


 次に視線を向けられたのは実繰。


「ちょっとなに見てんの。嫌やわあ」


 矢先は放男の面の上に戻った。

 建造が口を開く。


「わしは、してもうたことを責めとんのと違う。正直に白状せんのは卑怯や。みんなそこに立ちいや」


 かくして「尻実検」が始まった。


「放男がまず怪しい。お前、わしら五人の尻を順番に嗅げ。お前以外に真犯人がおったら、わしにだけこっそり告げい。見つけなんだらお前の仕業やからな。一番はわしじゃ。はよ嗅げい」


 建造は前屈みになって威勢良く腰を突き出した。それで仕方なく放男は無言でしゃがみ、尻の中央に鼻先を寄せた。微かな石鹸の香りだけだった。

 続いて三羽カラスを済ませる。どれも白。最後に実繰の番がきた。


「も、もうよそうよ。お、おいは……おいは女の子の、お、なんぞ、よう嗅がん」

「何いいよる。ここで嗅がんのならお前が下手人ぞお。ええんか。いや待てお前、実繰を庇ってやってるつもりなんか」

「そ、そないなこと……」


 男子四人からの視線をまともに浴び、放男は言葉を詰まらせてしまって、ただ下を向く事しかできなかった。かろうじて目は開けている。瞼を閉じたままにすると何だか湿りが頬を伝うようで怖かった。


「なあ実繰。お前こそどうや。何ぞ尻にやましいところがあるんか。ないなら放男にはよう嗅がせて潔白を示すとええんや。どうや?」


 憎たらしい表情で嫌みたらしく言われた実繰は、平生の愛らしい顔を歪めた。


「やましいところなんて、なんもおへん。さあ、ひるさん。さ嗅いで」


 実繰は放男の目の前に立ち、ゆっくりと回れ右をした。


「みくちゃんもゆうてるんや、遠慮せんと嗅ぎいな放男」

「さあさあさあ、ひるさん。どないした」

「頑張れひるさん。気張らっしゃいよぉひるさん」


 三羽カラスは喧しく囃し立てる。建造は睨め付けてくる。

 それで放男は一度は観念した。だが背を向けて黙って立ったままでいる実繰の尻近くに顔を運ぶも、これ以上は非道いと中途で止めた。


「おい放男。そんな遠くで嗅げるもんか。こらあ、もっと鼻近づけい」


 後頭部からぐっと押された。


「ひっ」


 実繰が小さく声を発した。鼻の頭がスカートに触れたからだ。むろん布越しではあるが柔らかい臀部にも。

 それと同時に、放男の鼻の奥に一種異様な感覚が湧いて漂った。桃の果実のような香りに混じって僅かに臭い。

 興奮で勃起を感じた。それと少しの尿意と下腹部の圧迫感も現れた。


(あかん。ここで放ると藪蛇になるわ)


 放男は腹をぐっと腹の筋肉で押し付けた。同じように肛門も周囲の筋肉で押し付けた。

 それからぎこちなく立ち上がって建造の顔を見る。


「さあ。実検結果を報告せい」


 建造は放男の手を引いて他の者たちから幾らか距離を取った。

 放男が建造の耳に口をくっ付けて囁く。


 ――み、みんな潔白やった


 嘘を言った事は、自分が黒であると泥を被った事である。

 それは承知。実繰からのご褒美と引き替えにする覚悟だったのだ。

 これから当分の間、先程の臀部の感触といい匂いといい、夜中に独りでじんわり想い返す事になるだろう。何の不足もないし採算は十分に取れた。


(そうや。これは実繰さんと、おいだけの秘密なんや)


 建造は、大人しく待っている四人の側まで戻った。放男も続く。


「これで真犯人は判明した。約束やし口にはださんよ。さあカードを続けよう」


 建造は真面目な表情でそう言った後、放男の顔を見て一瞬間にやりとした。

 実繰は見た。


「ちょい待ちや。それやとあんまりやわ。ひるさんの潔白も、ちゃあんと実検したげたらどないなんっ」


 確かに建造は口には出していない。三羽カラスも気付いてはいないらしい。

 けれども建造の目が、表情が、口に代わってはっきりと語っているではないかと、聡い実繰には判ったのだ。


「そ、そんなら、実検役は――」

「いいだしっ屁や。嗅分くん、あんたでええやろ」

「おっ、おう。わしでええわ」


 実繰の気迫に飲まれる形になりながらも、建造は敏速に放男の背中へと回る。

 そして、しゃがんだ建造の鼻が放男の尻穴から一寸ばかりのところまで迫ったその時。


 ――すぅぅ


 直撃した。呼吸の周期に完全に一致、まさに吸う瞬間に。濃いままに少しも漏らさず全部吸い込んだ。

 たちまち建造の体がドタンと床に倒れ込む。


「あっ嗅分くん」


 実繰の甲高い声が響く。

 放男は肛門の緩みで粗相してしまったという自覚を除いて、それ以外何事が起きたのかまるで理解の外にあった。


「あかん、救急や」

「そや急がなっ、はよう」

「教員室や、教員室」


 三羽カラスは慌てて教室を飛び出して行った。

 暫くすると、血相を変えた担任教師の火野ひのが教室内に飛び込んできた。続いて三羽カラスも戻った。

 若い火野は取り乱しながら、意識を失っている状態の建造を負ぶって運び出し、自分の車で国立病院へと向かった。

 火野はこの軽率な行動を後で反省する事になる。クモ膜下出血だったのだ。ただ早かった事は幸いした。どうにか建造は一命を取り留めた。

 放男の粗相がクモ膜下出血の原因でないのは明らかであった。だがそれでも気の緩みで建造に一発かましてしまったという罪悪感は決して小さいものではなく、放男は後々まで悩み続ける事になる。


 建造はというと一週間足らずで退院してきたのだが、どうした事か尻実検をしたという記憶は失せていた。この四月一六日には、ノーベル文学賞受賞者の一人が死んだ。ガス自殺をしたみたいだ。

 建造はこれ以降、学校で大将の座を別の副将級だった者の一人にあっさりと譲り渡すなど、以前の元気さがすっかり見られなくなる。建造の実繰に対する想いは失せていなかった。それは以前と変わらず、この先四年間続くのである。

 一方、実繰と同じ想いを抱いている放男の気持ちは五二年以上も続く事になる。

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