第29話 アンチエイジング②
「あれ、かずどうしたの? なんかあった?」
のぶは、まるで常日頃から一緒に過ごしている感覚で応答してきた。のぶもまた、僕の大学の友人だ。当時、彼とバンドを組んでいたこともあったが、お互い何の惜しみもなく、卒業と同時に解散した。バンド活動が佳境なときは、ほぼ毎日同じ空間を過ごしているような付き合いだった。僕は、行く先々で異なるあだ名を襲名する習性のようで、のぶからは『かず』と呼ばれていた。学生時代、僕は趣味の一環で音楽活動に勤しんでいたが、彼はどうやら本気で音楽業界で働きたいと思っていたらしく、卒業後一念発起して音楽関係の小さな事務所のスタッフとして勤務を始めた。組んでいたバンドを解散するときに、少しでも反対するなり何なりしてくれれば、僕も彼の思いを汲み取れたのだが、のぶとしては、第一線でやっていくには才能も持っている華もないということをきちんと分かっていて、裏方としてやっていく覚悟を決めていたようだった(それならそうと、ちゃんと伝えて欲しかったが、その思いは今でも彼には打ち明けていない)。しかし、過酷な環境に根を上げ、三ヶ月で退職。それは、彼から話を聞いてもイメージできないほどの劣悪な就労状態だったようで、のぶは当時を振り返るたびに、この経験を機に人間が変わったとよく漏らしていた。僕は、自分の想像力が及ばない世界もあるのだなと、その時はじめて思った。ちなみにのぶは単なる愛称で、本当の名前は建山信(しん)だ。最初に名前を間違えて呼んでから、僕にとって彼はのぶなのだ。
「いや、今久しぶりにレコード屋に入った懐かしのアルバムに出くわしてさ」
「お、それってもしかして懐かしのあれ? もう何年前だ? 暫く聴いてないな」
「だろ? だから思わず」
「これから軽く行こうよ、今空いてるんでしょ?」
「おお、いいね。行こう」
「すぐ仕事切り上げるから、あそこで待っててよ」
「分かった、早く来いよ」
のぶは、現在は地元の小さな会社に就職し、営業として日々勤めている。一般的な企業からしたら安月給で過酷な労働環境ではあるが、それでも当時の痛苦に比べたら断然マシだそうだ。
僕は電話を切り、待ち合わせ場所へと向かった。そこはレコード屋から歩いて三分もかからない場所で、学生時代のぶとバンドの打ち合わせでよく使っていた喫茶店だ。のぶの会社もここから歩いて十分くらいのところにある。僕はのぶよりも先に店につき、入店を知らせるために店主に会釈した。
「どうしたの? 顔見せるなんて久々じゃない。どういう風の吹き回しかね」
「いや、たまたま近くまで寄ったんですよ。それでのぶと久しぶりに軽く行こうかって」
「のぶ君も来るのか。こりゃ明日は荒れるな」
そうこぼした店主と僕とのぶは、学生の頃からの顔馴染みで、店主はこの店を二十数年切り盛りしている。若い頃は会社員として働いていたらしいが、脱サラして自分の店を持つことになった。彼はマサさんと呼ばれており、僕ものぶも本当の名前は知らない。寧ろこの店に来る誰もが、マサさんの素性を知らないのではないかと思ってしまうくらい、マサさんは謎めいている。段々と慣れていくにつれて、その人の素性を掘り下げたくなってしまうものだが、僕ものぶもマサさんの素性を暴こうとしたことはない。マサさんは当時から、どことなく触れて欲しくなさそうな雰囲気を醸し出していたからだ。その雰囲気を汲み取って、僕ものぶも、マサさんに対しては自分たちの身の上相談的な話ばかりしていた。
豊富な人生経験を持つであろうマサさんは、自分のことをひけらかすことなく、来店した客の歩調に合わせて話を出し引きしている。最近の流行りについて話すこともあれば、昨今の若者について話すこともあり、その若者の人生相談に乗ることもある。マサさんが店を持つまでには、僕らの想像が及ばない紆余曲折を経ているようで、彼の引き出しは底がないのではないかというくらいに奥が深い。そういった意味でも僕らの人生の先輩でもある人物なのだ。
「最近はどうなの? ちゃんと挽いてる?」
おもむろにマサさんは僕に問い掛けた。実は僕は、時々マサさんとは個別に連絡を取り、お勧めのコーヒー豆の種類なんかのやり取りをしている。個別のやり取りでは人生相談なんて重たい話題を取り出すわけもないが、ひと昔で言うところの暑中見舞いを出す程度の付き合いだ。
「ああ、もちろん挽いてますよ。土日だけですけどね」
「そうか、それはそれは。香りというのは身体に様々な作用をもたらすからね」
「そうなんですね。アロマテラピーみたいなもんですか?」
「テラピーかどうかはその人次第かもしれないが、普段摂取しないものを摂取することは良くも悪くも刺激になり、気分転換にもなる。良くも悪くも、ね」
「必ずしも良いってわけじゃあないんですね」
「それはその人次第ですよ。解釈する人の所作によって、意味のあるものにも無意味なものにもなり得る。人生、そんなもんですな」
「きっと僕の陳腐な感想以上に深いんでしょうけど、今はそれを実感することができないな」
「それも人によりけりですよ。その人にとってのその時に分かります」
「なるほど」
「それはそうと、どうします?」
僕はアメリカンコーヒーを注文してカウンターに腰掛けた。この店では酒も少しは呑める。最初はアメリカンコーヒーで目を覚まし、その後北欧産の瓶ビールを流し込む。酔いが回ってきたら、この店の本日のコーヒーをブラックでじっくりと呑む。ずいぶんと胃腸に過酷な過ごし方ではあるが、最初にアメリカンコーヒーを呑むのは、ここでの通過儀礼のようなものだ。また、この店は喫茶店なのにビリヤード台もある。のぶは酒をあまり呑めない。大体僕だけが呑み、僕だけが酔っ払ってわけがわからなくなり、打ち合わせもそこそこにビリヤードをやりながらひとときをやり過ごす。という自堕落を学生時代はよく催していたものだ。店内を見渡すと、僕が馴染んでいた内装とはひと味もふた味も変わっているようだった。まず、ダーツは無かったし、昔の海外の映画に出てくるようなレトロなピンボールゲームもなかった。ビリヤード台を奥に進んだところにはジュークボックスも設置されている。そのうちボーリングレーンでも追加して、新手のレトロアミューズメントパークにでもなりそうな雰囲気だった。雑多な店でもパーツごとに時代を切り取った造りになっていて、雑多感を醸成しない絶妙のバランスを保っている。雑味が味わいに深みをもたらしているかのようだ。マサさんの調和感覚は素晴らしく、それでいてそこそこの商才もあるようで、店はそれなりに繁盛しているようだった。
「どう、すごいでしょう?」
マサさんは僕が内観に呆気にとられてるのに気付いて得意げに言った。僕は顔を綻ばせながら答えた。
「やっぱりマサさんのバランス感覚は真似できないね」
「時代とどう調和するかですよ。迎合せずに、ね」
僕は黙って頷いた。
僕がアメリカンコーヒーを啜りながらのぶがやって来るのを待っていると、間もなく店のドアにぶら下げたオブジェがカランコロンと鳴り響き、新たな客がやって来た。
「お待たせ。マサさん、いつもの」
のぶは店に入るなり挨拶と注文を済ませ、せわしなく僕の隣に腰を下ろした。
「で、どうしたの?」
のぶの言動には隙間がなく、僕が親しんでいた彼からは、少しばかり変わったようだ。それも無理もないなと僕は思った。社会に出てからすぐの数年の間に過ごす環境と出くわす状況、出会う人は、その人の人となりを変えてしまうほどの影響力を持っている。
「いや、特にどうと言うわけでもないんだけど、たまたま懐かしいアイテムに出くわしたから連絡してみたってだけで」
「そんなことないだろ、これまでそんなことしなかったじゃん」
まったく、僕の友人は皆テレパシーでも使えるんじゃないかと僕は思った。それとも僕の行動特性として、何か自分から行動を起こすときは決まって良くない状況にある時だと思われているのだろうか。いずれにしても、心理状態が悟られやすい性質というのは厄介なものだ。
「そんなことって」
僕は嘘ぶいて何もないことを装って聞き返した。のぶは瞬く間に口を開いて言った。
「物事にそんなに執着しなかったじゃん。だから、そんな昔のことで連絡して来るなんて何かあったのかなって思うわけだよ」
やっぱり僕の行動の変化は、心理状態の変化に極めて忠実らしい。僕は、自分の単純さにうんざりしつつも観念して答えた。
「いや、このままでいいのかなって思っててね」
「何が?」
流石に端折りすぎた説明では、のぶにはうまく伝わらなかったようだった。僕は自分の気持ちを正直に分かりやすく話すことを極度に避けるらしい。ある意味、今回の問題に直面したことによって把握できた副産物だった。
「この先自分は何者になるのかなってことだよ。いやむしろ、何者かになれるのかと」
「ふむふむ。それで?」
のぶは、僕の話を引き出しながら何と答えるかを模索しているようだった。彼は、最初の反応が早い割に、結論を出すのに時間がかかるタイプなのだ。それを確認して僕は先を続けた。何となく沈黙を作ることを嫌ったのだ。
「最初は誰も何者でもないわけだけれど、スタートラインは同じで、何かのきっかけで前に進み出すよね。そのきっかけを探してるところなんだよ。どうしても見つからない」
僕の話を受けて、のぶは言いたいことが定まったような仕草を見せて言った。
「あくまで、俺の話ではあるが…。特に秀でた才能や能力がない分類の人間は、荒いメモリで測ったら同じようなスペックなわけで…」
僕は黙ってのぶの話を聞いていた。
「だとすると、何が差を付けるかというと、経験だと思うんだよね。知識を吸収するという経験も含めて」
「そうだね」
「だからまだまだ経験が足りないってことなんじゃないの? お前は修行が足りん、的なさ」
「まあね」
確かにそれはそうだとは思ったが、この問題に関しては少し違うような気がした。人生は経験を積み重ねたところで答えに近づくわけじゃない。ひたすら歩んで最後の方に答えにたどり着けるなんて思うのは大きな間違いだ。答えは、常に求め続けていなくてはならない。問題を先延ばしにしていたらそこで歩みは止まるのだ。僕が返答に窮していると、マサさんがのぶにいつものコーヒーを差し出してきた。のぶのリクエストには、応えるまでに時間が掛かるらしい。いつものコーヒーを、香りを堪能しながら一口含み、喉を潤した後でのぶは言った。
「まあ、これは俺の話だからね。要は見つからないんだったら、時間をかけてでも色々経験して、そこから拾い上げればいいんじゃないのってことよ」
のぶは何かを悟っているかのようにコーヒーを呑んでいた。確かに、のぶのこれまでの歩みは控えめに言っても報われていたとは言い難い道のりだ。卒業後飛び込んだ世界ではあっという間に夢も希望も打ち砕かれ、そのまま流されまいとしがみつくように入った会社では、周囲の人間のレベルの低さに不満を持ち、僕と会うたびに転職の話をしていた時期もあった。結局、転職活動をする決心ができないでズルズル歳を重ね、そうこうしている間に付き合っていたわけではないが、その会社の事務の女社員と授かり婚をした。さらに家も買うことが決まり、元々したかった決断が何だったのか分からないくらい生き急いでライフログを書き換えている。
「それはそうと、のぶはどうなの? 最近は」
僕は、そんなのぶはどのような心境の変化から現在の境地に至ったのか気になって聞いてみた。
「俺は…、そうだな。最近は大分安定したかな」
「子供が生まれると、やっぱり変わるもんかね」
「俺の場合は、子供ができたことも大きいとは思うが…。一度、底みたいなところまで落ちて、そこからもしばらくは自分の境遇とか見通しの無さとか周囲の人間への苛立ちとかあったりしたけど、やっぱり自分の好きなことに還れたってのが大きいような気がしてるけどね」
「へえ、そこなのか。意外だな。一時期あんなに遠ざけてたのに」
彼は今、仕事はそこそこに、学生時代からやっていた音楽に打ち込んでいる。BGMを作ってネットにアップして小遣い稼ぎ的なこともできているようだ。
「気晴らし程度で良いんだよ、そんな高い志があるわけでもないし…。そこそこ仕事して、ちょろっと楽しみができるくらいがちょうど良いんだ、俺には。何かを得るには、何かを犠牲にして、闘い抜く覚悟が必要なんだから」
僕は、それで良いものなのかと率直に思った。僕のもやもやは、気晴らし程度で晴れるものなのだろうか。僕が先に詰まっていると、のぶは急に何かを思い付いたかのように切り出した。
「例えば、チームを組んで曲作りに取り組んでみるとか。意外と新しい発見があるかもしれないし」
僕は、その提案にうまく答えられたかどうか定かではなかったが、その後のぶと近況の交換や自分たちの世代が悩み始める身体的な変化のことや先々の不安なんかの話をした後、互いの家を訪ねる約束をして別れた。その間マサさんは、ほとんど黙って僕らの会話を聞きながら自分の仕事をこなしていた。思う所もあったのかもしれないが、敢えて自ら切り出さないのがマサさんのスタンスなのだ。年長者が経験則や教訓を語ると説教じみてしまう。
僕は帰る道すがら、いつもの商店街を歩いていた。気分は五里霧中だった。この間、いろんな人と話してきたこと、積み重ねた経験によって芽生えた前進感は、今日ののぶとの会話でほとんど消え去ってしまった。少しは先に進んだと思っていたものが、無くなってしまったような感覚で、僕の閉塞感と焦燥感は、より一層僕への影響力を増していた。ビールを呑みながら、咲と話でもして少しでも気を紛らわせたかったが、家にたどり着くと、咲は珍しく今日はもう寝室ですやすやと眠っていた。僕はしげしげと風呂に入り、リビングで独り缶ビールのタブを引いた。
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