第30話 幸せレベル
相変わらず、僕自身は悶々としていたが、あれ以来、特にこれといった面倒に巻き込まれることもなく、穏やかな日々の中で、比較的緩やかに過ごしている。毎日、通勤電車に揺られながら今後の自分のことを考え、会社に着いたら遂行すべき義務をこなし、再び通勤電車に揺られて、今後の自分を案じながら帰宅する。そんな毎日の繰り返しだった。
僕は、自分の新たなミッションに取り組みながら、自分が何を求めているかを思案していた。こうして、日々果たすべき義務を遂行し、何かを誤魔化しながら過ごしていると、時々自分の本当の感情や志向が分からなくなってしまう。僕の思考は、枝葉に分かれてどんどん分散していっていた。片方の頭では、目の前の業務をどうこなすか考え込み、もう片方の頭では、僕の根幹の問題について思考を重ねる。問題は、山積みのように思えた。全て解決させたいが、それは幾ら何でも難しいことなのかもしれない。配られたカードはそれぞれ違うが、出せる手は限られている。しかし、自分の手で変えないと何も変わらない。できるできないではない。やるかやらないかだ。僕は、自分が死ぬまでに自分が生きた証を示したい。死に様は自分で決められないし、死ぬことで何かを成し遂げられる訳ではない。僕らが決められるのは生き方だけだ。ひょっとすると、何をしても後悔は付いて回るかもしれない。ただ、どんな結果になろうとも納得のいく選択をするということが重要なのだ。欲望、覚悟、意志、勇気。そのどれもが必要なことで、そのどれもが僕に不足しているような気がした。
作業をしていた手を止めて同僚の姿を眺めると、ほぼ全員が目の前の作業に忙殺されているように見えた。そういえば、この時期は我が社の繁忙期だ。余裕がない人間は目先のことで精一杯だ。この世界は、余裕のない人間で溢れている。そして今の僕のように余裕のある人間が、要らぬ悩みを抱えてしまう。
少しの間、ぼやっと周囲を見渡していると、執務室の入り口から見たことのある顔がいきなり現れた。しかし僕は、その顔について自分の記憶を手繰り寄せて唸ってみても、一向にそれが誰だか思い出せなかった。その男は、執務室の中を我が物顔でズカズカと突き進み、社長室へと一直線に向かっていった。社長室のドアが勢いよくバタンと閉まったところで、漸くそれが横山柄(よこやまつか)だということに気付いた。自分にとって重要度が高くないことは、記憶の練度が低い。
予期しない来客によって一瞬社内がざわついたが、皆すぐに自らの喧騒に立ち戻った。
「あの人、誰なんですか?」
山崎が僕のデスクに来て尋ねた。彼は、山崎が入社する頃にはもう退職していた人間だ。
「ああ、彼は横山さんと言ってね。一時期ウチに在籍していた人だよ。この部署に配属で、僕も一緒に仕事したこともある」
僕は、簡単に彼の経歴を山崎に説明した。
「そうなんですね。しかしまた、随分とまた空気読めない人ですね」
山崎は、見ず知らずの人間に呆れたような仕草を見せた。
「彼はウチの状況を知らないだろうし、今日もアポがあったんじゃないのかな。まあ、タイミングが悪いことは確かだけど」
「タイミング最悪ですよ。加賀さんのこともありますけど、今はウチの最繁忙期ですよ」
僕は、山崎を宥めて席に戻した。彼も繁忙期で少々気が立っていた。とはいえ、彼の人物観察の結果は、当たらずとも遠からずだった。彼の想像の通り、横山は敢えて読まないのか分からないが、空気が読めない。それに、狙ってやっているのか分からないが、いつもタイミングが悪い。加えて、彼には人を遠ざける特技というか、癖のようなものを兼ね備えている。
暫くの時が経ち、一同が横山のことを忘れかけた頃、再び勢いよく扉が開き、横山が出現した。社長と何の話をしたのか興味は無かったが、横山の顔は満足そうな笑みを浮かべていた。横山は社長への別れの挨拶を終えるなり執務室内をキョロキョロと見渡し始めた。社内のスタッフは全員、必要以上に下を向くような素振りを見せていた。
「どうも。お久しぶり。最近どうですか?」
横山は、僕を見つけるなり近づいて来て声を掛けた。僕は、心の中で舌打ちして反応した。
「ああ、どうも横山さん。まあ、ぼちぼちじゃないですかね」
僕は、面倒な奴に引っ掛かってしまったという表情をあからさまに見せたが、彼はお構いなしだった。
「いやあ、この度取締役に就任しまして。それで今日は、前職でお世話になったからご挨拶に来たんですよ」
横山は、僕が何も聞いていないのに勝手に演説を始めた。また始まったか、と僕は思った。彼はマウンティングする習性を持った生き物なのだ。これまで幾度となく、彼のオチの無い自慢話のリスナーとして付き合わされたことか。彼は、僕が相槌を打つ間も無く、続きを捲し立てていた。
「取締役にまでなると、横の繋がりを意識しないといけなくてね。今後、御社とも付き合いがあるかもしれないから。まあ、こちらはクライアントサイドだけど」
「はあ、そうですか」
僕はため息交じりに応答した。
「真野さんはどうなの? 座っている席の位置を見ると、ちょっとは偉くなったみたいだけど」
横山はまだ話を続けるつもりだった。
「いや、僕なんか横山さんに比べたらペーペーですよ」
「そうかそうか。まあ何より」
横山のタチの悪いところは、人に話し掛けておいて、人の話を全く聞かないところだ。人の話を聞かないのはまだ良い。最悪なのは、人の話を聞いていないのが一目瞭然の受け答えをすることだ。これは殊更、人の感情を逆撫でする。
「僕は今回取締役になったんだけど。転職してから暫くはそんなに忙しく無かったんだけどさ、いきなり大きなプロジェクトを任されてね」
横山オン・ザ・ステージだった。こうなると当分ノンストップだ。僕は、諦めて無我の境地に入った。
「それで寝る間も惜しんでプロジェクトを完遂したら、もう次から次へと入れ食い状態でさ」
「はあ…」
「そうなると、一人でやる量も限界になる訳。で、段々と僕の下に人が付けられていってさあ。それで仕事を移管していく内にポジションが上がってっちゃってね。だから最近は自分でプロジェクトを回してないんだけど、全然寝てないんだよ」
分かったから帰ってくれ。僕は露骨に嫌悪感を浮かべて彼を見ていたが、彼はまるで気付く素振りを見せなかった。
「だから、真野さんも上に上がりたいんだったら、下の奴をうまく使わないと駄目だよ」
「はい、一応参考に留めておきます」
人は立場によって表情や振る舞いが変わっていくものだ。しかし、それが高くなった瞬間に下の者に対しての態度が豹変する人間を僕は軽蔑する。位というのは、偉さではなく役割だ。それが理解できない人間はその役割を担うべきではないと思う。そのような者は、ただ他人を見下して虐げたいがために、上のポジションを取りに行っているだけだ。
横山は、僕へのマウンティングだけでは飽き足らず、馴染みがあった面々の席を回って、同じような話を展開し始めた。こんな風に、今の会社でも唯我独尊を全開にしているのだろうか。ウチの会社に在籍している時も、周りの人間にマウンティングしながらこき使って手柄を独り占めしていたが、最終的にこれが原因で周囲とソリが合わなくなり、外に居場所を求めて羽ばたいていったのだ。マウンティングする人間は気付いているのだろうか。山の下に強制配置された人間がどう思うか。恐らく気付いていないのだろうが、自覚してやっているのであれば、大した底意地だと思う。
「あーもう。集中できん」
大島が露骨に嫌な顔をしながらこちらを向いて声を荒げた。僕は彼の感情を察して話を切り上げることにした。
「だ、そうなんで。また今度話しましょう。今日はわざわざありがとうございました」
「え、あれ? もう終わり? まだもうちょっと情報交換したかったのに」
横山は相変わらずの空気の読めなさを発揮していたが、僕は取り合うこともせず彼をエレベータまで送っていった。全く、何で僕がこんなことをしなくてはならないのだ。
「じゃ、また。そうだ、今度呑みにでも行こうよ。会員制の良い店があってね」
「はあ。タイミングが合えばお願いします」
僕は、この話が進展しないように当たり障りない受け答えをした。
「何ならウチの会社に来ない? 今、ちょっと人足りなくてさ。こんな斜陽企業よりもっと給料出せるよ。俺が判断するんだし」
僕は反射的に言葉が喉から出て来そうになって思い止まった。意図して言えることが何もないのなら、何も言うべきではない。自分の印象を悪くするだけだ。
「そうなんですね。じゃあ、またいつかどこかで会えたらということで」
そう言って僕は彼を見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます