第32話 SoHappy? UnHappy?
その日の仕事帰り、僕は咲と待ち合わせて外で食事を取った。咲が外で食べようと誘ってくれたのだった。二人で外食するのは久しぶりだった。僕たちは、結婚当初や結婚前に付き合っていた頃は、頻繁に外食し、事あるごとに散財していた。咲もその頃は、瞬間を楽しむということに対して、あまり金に糸目を掛けるタイプではなかったと思う。しかし、結婚を機に、我々の財布の紐は年々硬くなっていった。特に咲は、中身が別人に入れ替わったかのような変貌ぶりで、謹厳実直(きんげんじっちょく)と言わんばかりの妻となった。僕もそれに感化され、次第に特に意識もせずに、いつの間にか倹約夫婦となっていった。何がそうさせたのかはわからない。将来の不安かもしれないし、来たる何かに備えるという意識が働いたのかもしれない。でも、人間は、年齢やそれに伴う人生の段階に応じて変化していくものなのだ。そうやって環境や状況の変化に順応し、人生を全うする。
僕と咲は、あらかじめ予約していたイタリアンレストランに予約時間きっかりに入店し、席についた。
「改めて、昇格おめでとう」
咲は言った。ありがとうと僕は答えた。
「久しぶりに良さげな雰囲気のお店で食べたいなと思ってたから、ちょうど良いきっかけがあって良かった」
「あれ、外で食べる方が優先度が上だったの? てっきり、お祝いをしてくれるために外食にしてくれたと思ってたけど…」
「そうだよ。だって、そもそもそんなに嬉しそうじゃなかったじゃん、昇格」
僕たちは、アペリティーヴォを口にしながら、今週に起こったことなど、他愛のない会話を続けた。
その後、アンティパスト、プリモ・ピアット、セコンド・ピアット、コントルノ、ドルチェ、カフェと、基本的なイタリアンのコースを堪能した。店の雰囲気も味もまずまずの店で、また二人で来たいと思えるお店だった。
僕たちはその店を後にし、所々星が散りばめている夜空を見上げつつ、これまで何度も来たことのあるお互いの職場の中間地点にある街を歩いた。僕はまだもう少し酒を飲みたい気分だったし、多分咲もそうだったんだと思う。僕たちは、歩き慣れた街を右に左に折れながら、とある見慣れないバーにたどり着いた。
その見慣れないバーでは、ピアノがメインのジャズトリオのしっとりとした演奏が心地よいバランスで鳴り響いていた。僕と咲が座ったカウンターの対局には、中年の子金持ちそうな夫婦が座していて、トリオの演奏を聴きながらパートナーと演奏されている曲について語り合っているようだった。僕の人生も、ジャズの流行りに精通して、こんな風にウイスキーグラスを傾けながら、気取った人生を歩んでこれたら良かったのにと思った。しかし次の瞬間、首を振ってウイスキーグラスを空けて、バーテンダーにおかわりを注文した。僕はそれほどものの名前を覚えるのは得意ではないし、第一、咲は名前というものに無頓着だ。僕たちは、そこで鳴っている音楽が素晴らしければそれで良いのだ。確かにジャズも聴かないこともないが、それは単にBGMとして掛けているに過ぎない。
僕と咲は、トリオが演奏し始めると無言になって彼らに視線を集中し、演奏が終わると会話を再開する、という作業を幾度か繰り返した。作業が進むと同時に、僕と咲も酒が進み、段々と二人とも口数が少なくなり、ぼんやりしながら互いを見つめ合ったり、演奏を見たりと、同じ空間にいながら個の時間を過ごすスタイルに変わっていった。
酔いが廻っていくことと反比例して、僕は、身体の奥底で眠りにつきかけていた塊が、覚醒しかけていることを感じていた。酒は、酔い方によっては嫌なことを掘り起こす効能を持っている。僕は、段々とその重くて黒々とした塊に意識が飲み込まれていき、自分の中の想念と向き合うことになった。
僕は、人生の分岐点のどこかで選択を誤ってしまったのだろうか。僕は、自分の記憶を辿っていく中で、いくつかの心当たりに差し当たったが、それ以上深く考えることをやめた。それ以上の詮索とその時点の立ち回りは、簡単に妄想することはできるが、実際に行うことは不可能だからだ。それに、仮に僕が再選択できたとして、再び咲と出会えるのだろうか。僕は、不動のまま頭をぶんぶんと振り乱す仕草をイメージし、自分の意識をバーのカウンターに呼び戻した。咲は、無言のまま演奏を見つめていた。そして、僕が無言で咲を眺めていることに気付いて、僕の手を引いて一緒に演奏を楽しむことを促した。
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