第27話 僅かな変化と日常の綱引き

 咲の一言は、僕の中で尾を引いたまま、一週間余りが過ぎた。ここ最近の癖のように、僕は両手を頭の後ろで組みながら考え事をしていた。すると、目の前で山崎が突っ立って僕の方を覗き込んでいた。

「考え事しているようでしたけど、大丈夫ですか?」

山崎は言った。

「いや、特にないよ、大丈夫。先日池田さんとミーティングがあって、少し今後のことを検討していたんだよね。で、何かあった?」

僕は当たり障りない回答をした。別に嘘ではない。

「これ、新しい組織図です。今朝、全社メールで飛んできたので印刷しておきました。真野さんの直下につくことになりました。今後もよろしくお願いします」

「ああ、ありがとう。こちらこそよろしく」

全社メールで来ているなら、その旨を伝えてくれれば確認できるのに、と僕は思ったが言わなかった。きっと、彼は敢えて紙に打ち出して伝えたかったのだろう。僕は、以前池田さんがこれからも山崎のことを頼むと言っていたのをふと思い出した。

 僕は山崎に渡された組織図に目を通しながら、待てよと思った。そういえば、池田さんからチーム編成については何も聞いていなかった。自分の部門に目を通すと、僕の直下に山崎、目向、塚越の三名で松本さんの下に大島と高島さんの二名が記されていた。教育が必要なチームと個人プレイチームとに分けられた訳だ。彼からすると、編成は確定して全社メールで流れるから見ておいてという判断だったのだろう。つくづくコミュニケーションが難しい人だ。そういう細かいところで、人心を掴めるかどうかが変わってくるのに。

 組織図を眺めながら、僕は微妙な違和感を拭えないことに気付いた。何度か隅から隅まで目を配らせても何の違和感か特定できずにいると、山崎が何かに勘付いたようでこちらに近づいて来た。

「あ、そうそう。加賀さんが更迭されるみたいです」

「え?」

僕は、加賀さんという存在が、自分の中でこんなにも小さかったことに驚いて、聞き返すことしかできなかった。

「表向きは独立して起業するとのことですが、今回の責任を取って事実上の更迭みたいです」

「そうなんだ」

「居たら居たで面倒な人でしたけど、カナシッコウ役員と呼べなくなるもの何だか寂しいですよね」

「いや、それはどちらでも良いけど、そうなんだね」

山崎のコメントへは何の感想もなかったが、会社の対応には多少驚いた。会社もタイミングを狙っていたということだったのか。何だか彼に悪いことをしたような気もしたが、そんな気遣いは僕の傲慢でしかないだろう。僕は僕のやるべきことをやったに過ぎない。結局、全ての人が幸せになるなんてことはあり得ないのだ。万物平等がこれまで成し遂げられたことが無いように、誰かが利益を得た分、別の誰かが不利益を被るシステムが成立しているのだ。だからこそ、何かを得るためには闘わなくてはならない。誰かが与えてくれるものではなく、勝ち取るものなのだ。だから勝者と敗者は存在する。

 山崎によると、加賀さんの最終出社は今日だということだった。随分と急だったが、不思議とこういう時の会社の手際はすこぶる良い。我が社は臭い物に蓋をするのだけは得意らしい。僕はいささか迷ったが、加賀さんに挨拶することを差し控えた。僕は、心の中で彼の人生を狂わせてしまったことへの謝辞を述べながら、彼のこれまでの過程と今回もたらされた結果の因果関係を想像していた。彼は、元々人事や労務などの会社の基盤となる仕組みを構築する側の人間だった。創業当初の勢いに乗る会社の流れの中で、守備範囲ではない事業サイドに足を踏み入れてしまったのだ。多くの人は、自分の強みが何なのか気付けていない。自分にとっては当たり前のものだからだ。他人に言われてもピンとこない。一方、自分にないものを取り入れて強みにしようとしても、せいぜい人並みにしかならない。自分の強みは自分が当たり前だと思っていることの中に潜んでいる。それをいかに俯瞰して気付けるかが、このレースに勝つコツでもあるのだろう。

 そんな自分勝手な想像を繰り広げていると、あれよあれよと昼になってしまった。僕はどうにも仕事が手に付かなかったので、少し早い昼食に出ることにした。ここ最近まともに昼食をとっていなかったので、久しぶりに何処へ行こうかと思案しながら廊下を歩いていると、見覚えのある後ろ姿がエレベータを待っているのが見えた。

「よう、お疲れ。お前も昼か? 久しぶりに一緒に行こうよ」

僕が声を掛けるよりも早く、下山亮は僕に気付いて声を掛けてきた。

「ああ、奇遇だね。じゃあ久しぶりに行きますか」

彼は僕の同期で、現在は営業部に在籍している。仕事はデキる方なのだが、社内から、体内で風邪菌を飼っているのではないかと揶揄されるほど、しょっちゅう風邪を引く。そのせいで、同期の中でも昇進が遅れてしまっているという、何とも運のない男だ。

 僕と下山は会社から少し歩いたところにある何の変哲も無い定食屋に入った。ここは新卒入社一年目の頃、二人でよく通った定食屋だ。二人とも日替わり定食を注文し、配膳されたお茶を啜りながら下山は口を開いた。

「聞いたか?」

僕はきっと加賀さんのことだろうと察したが、敢えて知らないフリをして聞き返した。僕の知らない情報があるかもしれなかったからだ。

「四十、五十になったときに、周りから後ろ指されるような人材にはなりたくないよな」

僕は黙って聞いていた。

「時代が変わるに連れて、やり方を変えてかなくちゃならないと思うけど、時代に置いていかれる人ってのはああいう人なんだろうな」

彼は、厄介払いされた加賀さんに追い討ちをかけるが如く、言葉の鞭を振るっていった。加賀さんは、盲目的に自己を過信してそうなったのか、変化に気付けなかっただけなのか、それとも変化に気付きつつも、変える術を持てなかったのか。僕は、直ぐにこれ以上の考察を止めて、下山の話にそうだねと、表面上の同意を見せて彼の話を聞いた。確かに、今回の結末を招いた彼の軽率な行動には賛同できないが、彼の生き方自体は否定できないなと思った。恐らく世の中には、彼のように周囲に後ろ指を指されながらも、一定のポジションを築いている人たちはたくさんいる。きっと、今回の経験がなければ、僕も下山のように思っただろうし、彼らに対して敵意も持ったと思う。しかし、今ではそれも一つの生き方だと思うし、何ならそう言われても、社会的に一定の位置を陣取れた彼らを羨ましくも思う。後ろ指を指されようが、蔑まれようが、彼らは彼らなりの苦労を乗り越え現在の位置を勝ち取ったのだ。周りからとやかく言われようとも自分の家族や生活は守っている。自分の尊厳を生贄にして。みんな自分の世界を生き延びるのに精一杯なのだ。この地球には六十数億の世界が散らばっている。そして、日々ばらばらの世界が重なり合ったり離れたりして、社会は成立している。混ざり合うことはない。

 一個人の話を全体に飛躍させて物思いに耽っていると、下山が僕の思考に横入りした。

「そういえば、真野は子供は?」

「いや、まだだよ」

僕は現実に引きずり戻されて質問に答えた。

「そうかあ。実はウチはいよいよでさ。来年生まれるんだよ」

下山はさらりと重大発表を言ってのけた。

「ええ、そうなんだ。おめでとう。もうどっちか分かってるの?」

僕は心の底から祝福の気持ちを述べたつもりだったが、突然の吉報で当たり障り無い社交辞令になってしまった。そのせいで少しばかり下山に悪い気がしたが、彼は全く意に介さず先を続けた。

「ありがとう。でも、何だかなあという気持ちでもあるけどね」

下山は溜息を吐きながら呟いた。

「え、どういうこと。めでたいのに」

彼はその先を聞いて欲しそうな雰囲気だったので、僕は素直にその誘いに乗った。

「いやあね。七、八割方人生上がりたいという気持ちで最近やってて。でも、この状態で上がってしまうと後々食いっぱぐれるリスクが高いから、無理やりにでも自己成長を目指してて。そんな風に生きていると、一生何かに備えて生きていく人生を歩んでいる感覚に陥っちゃってね。何のために生きているか分からなくなっててさ」

僕は黙って頷きながら聞いていた。

「そんな時に子供ができて。だから既婚者は子供を作るのかもしれないなあなんて思っちゃってさ」

「そんなもんかねえ」

僕には下山の嘆きに対する答えは持ち合わせていなかった。だけど、考えることは皆同じようなことなのだなと思った。人は、自分のために生きる人生に限界が見えてしまうと、未来を託せる他人のために生きようと思うのかもしれない。

 その後、二人で日替わり定食を食しながら他愛の無い話をして会計を済ませた。下山はそのまま外出するとのことで、定食屋を出たところで僕らは別れた。得意先に向かう彼の後ろ姿を見つめながら、下山も加賀さんもそれぞれの人生を懸命に生きているのだなと思った。少しだけ光が差し込んできた空を見上げると、都会の灰がかかって燻んだ水色と、白と鼠色の間のような薄い雲が、無限に広がっているように感じられた。

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