第26話 僅かな変化②

 翌日、砂畑さん達との会合の余韻を味わいながら、僕は自分の席で両手を頭の後ろに回して考え込んでいた。池田さんは言っていた。この業務を完遂できれば、君の評価はまた上がっていくと。これだけの業務をこなして評価されないと言ったら、いくら上を目指す気のない僕でもやる気を無くすだろうが、どうにも彼自身の負の遺産の尻拭いをさせられている気がしてならなかった。特に、この部門の役割の再定義や業務整理は、彼の罪過のように思えてならない。それほど積み残された課題は大きく、複雑怪奇な問題になっている。周囲から伝え聞いているこの部門の歴史を振り返ると、その思いはどんどんと強くなっていった。彼が自ら業務を行なっていた頃、彼は質よりも量をこなすことで成果を上げていた。始めは社外の依頼主の作業代行の立場で、依頼された業務をひたすらこなすだけだった。そして依頼主の理解を深めるに連れ、少しずつ依頼主の相談役としての立ち位置を開拓していった。作業も請け負うし、依頼主の相談にも乗る、つまり問題解決の支援を行うという業務にも乗り出した。この瞬間、何でも屋が誕生したという訳だ。次第に、彼は自社内での立場も強めていったが、自分のやり方は変えなかった。変え方を知らなかったということも最初の内はあったのかもしれないが、これこそが理想の姿という過信を強大化させていったからだ。そして組織は疲弊し、破綻していった。潔くただの作業屋としての組織にすればよかったのに、自分のプライドが邪魔をして、どちらともつかない中途半端な組織になってしまった。今ではこの部門は、社内でも『何でも屋』の異名がつき、社内でも突出した歪みを抱える部門となっている。僕はその部門の存在意義や業務の再定義を任された訳だ。自分が出来なかったことを部下に押し付けるというのは、任命責任として如何なものかと思うが、出来ないというのでは仕方がない。ある意味、池田さんを忖度した形になってしまったが、僕はこういう所でもきっと損をしているのだろう。

 忖度して損した方が評価されるというのは、可能性への投資だと理解しつつもあまり気分の良いものでは無かった。それに、何でもかんでも忖度していたら、都合良く使われる駒で終わってしまう。何だか不条理だなと思いつつも、そういうルールのゲームの中に生きていると思うしかなかった。仮に、池田さんとのミーティングで僕が忖度せずに代替案を出せたとしても、良い方向には向かわなかっただろう。基本的に、上司は意見ではなく協力を求めているからだ。たとえ上司から率直な意見が欲しい、風通しの良い会社にしたいという人がいたとしても、上下関係がある以上は無理だろう。

 ぼんやりと今後の自分の立ち回り方を考えながら、僕は適当なところで仕事を切り上げて帰路に着いた。これまでとは打って変わって、締切が迫った仕事は無い。何となく電車に揺られ、最寄りの駅に着いて無意識に自宅への道を歩きながら、踏ん切りのつかない自分自身について思いを馳せていた。選択肢はいくつかある。その中で、諦めて何もしないということは選択したくなかった。僕には将来を向こう見ずでいられる程の若さはないし、フリーオブリゲイションな状況でもない。しかし、成功の定義(何を以って成功とするかの定義にもよるが…)は、その人の年齢やライフステージによって変わってくる筈だ。何も考えずに未知の大海に飛び込んで行ける状態の人、守るべきものを守りながら攻めに転じようとする状態の人。僕の場合は、咲との生活を守りながら自分の道を切り拓く、ということになる。青臭い言い方をすれば、その人相応の夢の見方があるということだ。だから僕は、まず自分の夢を見つけなくてはならない。

 そんなことを考えながら僕は、またすんなりと家に帰りたくなくなっていた。僕はこのテーマを考えるにあたって、自分の人生を、自分が何者かを探し当てる旅路と定義したつもりだったが、こんなことで誰もが迎えるその瞬間までに、答えに辿り着くことができるのだろうかと思った。ただひたすら漂い続ける毎日。その中で、何となく手に入れたものを自分のコレクションとして自分の展示場に並べていく。もしかすると、僕みたいに欲が散らかっている人間は、何も手にすることができないのかもしれない。エネルギーが分散し、欲を満たすための行動が伴わないからだ。

 少しばかり回り道をしたって、自宅のあるマンションの前まではあっという間だ。僕は、自分の家の玄関を前にしながら思った。このままでは、自分の人生も主役として生きられない。人生は、経験を積み重ねたところで答えに近付く訳じゃない。ひたすら歩んで最後に答えに辿り着けるなんて思うのは大きな間違いだ。同じような局面での立ち回り方が上手くなるだけだ。答えに辿り着くためには、常に答えを求めなくてはならない。問題を先延ばしにしていたらそこで歩みは止まる。

「ただいま」

玄関のドアを開けると同時に、既に帰宅しているであろう咲に対して声を掛けた。しかし反応はなかった。靴を脱いでリビングに向かったが、咲の荷物はなかった。彼女はまだ帰ってきていなかった。珍しいなと思いながら、自分の荷物を片付けていると、玄関のドアがカチャリと開く音が微かに鳴った。僕は、聞き耳を立てながら少しだけほっとした。

「あ、帰ってたんだ。今日は早かったのね」

咲は普段通りの口調で僕に声を掛けた。

「うん。漸く落ち着いたんでね。早く帰れる時は帰ろうと思って。咲はいつもより遅め?」

僕は咲に異変がないことに改めて安堵した。

「いや、仕事は特に忙しくない。ちょっと今日は帰りに寄るところがあって。それで少し遅くなったの」

先ほどの安堵は一瞬で不安に生まれ変わった。

「あ、別にやましいことでも何でも無いから心配しないでね。時が来たら言うから」

「うん」

咲は、僕の心情を見透かしたように念を押した。僕は懸念を払拭できた訳では無いが、こういうときに何を聞いても、何が正解か冷静に判断できないので追求をやめた。

「それはそうと、しばらくは自分の時間使えそうなの?」

咲は立て続けに僕に聞いてきた。

「うん。まあね。多分ね」

僕は半分以上、上の空で回答した。

「そうかそうか。じゃあこれでやっと直面した問題に身を投じられる訳だ」

咲は荷物を片付けながら僕に声を掛けた。僕は、咲に報告していないイベントがあったことを思い出し、唐突に咲に伝えた。

「そうだね。あ、そうそう。この度マネージャーに昇格しまして…」

「おお、おめでとう! …、というかちょっと待って。何でそんなこと黙ってたわけ?」

咲の反応には歓喜と驚きとちょっとした不満と、様々な感情が入り混じっていた。

「いや、こないだ昇格したんだけど、その時すぐ伝えようと思ったら滅茶苦茶機嫌が悪そうだったから。それでタイミングを見計らっていたらこのタイミングになりまして…」

僕は話が妙な方向に行かないようにフォローを入れた。

「ふーん。まあいいや、とにかくおめでとう。 で、給料は上がるの?」

「まあ、雀の涙ほどだけどね」

「そっか。でも多少なりとも上がるなら良しだね。負担だけ増えてもしょうがないし」

「まあね」

暫くの間、夫婦間の他愛のないやりとりは続いた。

「で、マネージャーに昇格した一哉君の今の心境は? 嬉しい?」

咲の質問に僕は即答できなかった。僕は少し間を置いて答えた。

「うん。まあ、嬉しいよ。ビジネスマンは上を目指すものだからね」

「嘘ばっかり。笑顔が引きつってますよ」

咲は、僕の口の右側を指して皮肉っぽく笑った。僕は表情を変えずに洗面所の鏡を覗き込んだ。右の口角が若干歪んでいた。嘘で始まった社会人人生、嘘のつき方は上手くなったつもりだった。しかし、やはり結局は嘘なので、メッキはすぐに剥がれてしまうようだ。最後に自然に笑えたのは一体いつだったのだろう。

 久しぶりに二人で食事の仕度をして、僕らは夕食を取り始めた。仕度と言っても休日に作り置いていたものを温めたり、買い溜めしてあった冷凍食品を使って簡単に調理する程度のことだ。それでも、しばらく二人でのんびりと時間を過ごしてこなかった僕らにとっては、何とも柔らかなひと時となった。

「それはそうと。見つかった? 一哉の問題の答えは」

咲はずっと僕の問題を気に掛けてくれている。

「いや。どうあるべきかは分かっているんだけど、どうしても見つからない」

僕はありのまま正直に答えた。

「そっか。じゃあもう少し考えたり、探したりしないとね」

「ひょっとしたら、見つからないのかもしれない」 

僕は自然と弱音を吐いてしまった。

「でも、そうやってずっと立ち止まっていると、私が先に次のステップに行っちゃうかもしれないよ」

咲の言葉は、僕の脳裏に重く鳴り響いた。

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