第25話 僅かな変化①

 自席に戻り、僕は彼にうまくやり込められてしまったと後悔した。おそらく、少なくとも一年間は僕一人でやり切らなくてはならないことに気付いたからだ。いざ、他の部門から異動させるとなっても、明日からお願いします、とはならない。適任者の人選と他部門との交渉、その上で対象者の現業務の引き継ぎなどと、新たな人材に来てもらうために幾つかのステップを踏む必要がある。対象者が優秀な人ほど交渉は難航するだろうし、本人の意向も関わってくる。かと言って、こちらも取るに足らない人物を要求するつもりもない。となると、交渉は長期戦になり、短期的な人員補充による改善は見込めないということになる。一方で、部内からの引き上げとなった場合、頭数としての候補は五人で、新人の山崎に目向系、三年目の塚越美優、僕の一つ下の大島大輔、僕の四つ上の高島平だ。しかし、短期間でこの中から任せられる人材を発掘、あるいは育成するのは不可能に近い至難の業だった。新人二人にはまだ荷が重い。塚越さんは三年目の女性社員で、何でも器用にそつなくこなすが、トラブルが起きると会社を休みがちになってしまう。大島は松本さんと同じで、目の前のことをがむしゃらに取り組ませた方が成果を出せるタイプだ。最後の砦の高島さんは、能力的にも本人の志向としても難しいだろう。こうなると、当面の三ヶ月の話は鵜呑みにせず、自分一人でどうしたらやり切れるかを考えた方が良さそうだった。僕は、こういう局面で大抵損を被る。

 うだうだ考えている内に時間は過ぎ、時刻を確認しながら、僕はそわそわしていた。今日は、以前の上司だった砂畑さんと元同僚の佐藤良子との会合だった。一日を振り返りながら、スマートフォンの時計が七時ちょうどになった瞬間に僕は会社を出た。久々の再会に心を躍らせながらエレベータのボタンを押し、約束の店へと急いだ。

 店に着くと既に店内は騒がしく、客の注文の怒号と対応に追われる店員の激しい往来が繰り返されていた。彼らと呑む時は、いつもこの安居酒屋だ。その中で周囲の喧騒に負けじと酒を呑み、大声で会話を繰り広げる。僕はこの飾らない会合が好きだった。店内を見渡していると、店の奥の方から二人が手招きするのが見えた。

「ずいぶん間が空いたよね。元気してた?」

砂畑さんはメニューを眺めながら言った。

「そうですね。半年くらい空いたんじゃないですかね」

僕は記憶を掘り起こしながら答えた。

「私達は四半期に一回の定例会を目標としていたから、これは大いなる反省点ですね」

それに佐藤さんが呼応した。彼女は僕より歳下だが、僕より遥かにストイックな人だ。それに、感覚的ではあるが本質を突き詰められる頭の回転の持ち主で、尚且つ行動力もある。

「頑張ってる?」

「いや、まあまあってとこですかね」

「何だよ、まあまあって。どっち付かずってこと?」

他愛の無いアイスブレイクの後、僕は自分が抱えている問題を二人に打ち明けた。

「うーん。それはしっかり考えないといけない問題だなあ」

砂畑さんはビールのジョッキをテーブルに置き、腕を組み始めた。

「真野さんは独立、起業みたいな志向はないんですか?」

佐藤さんが尋ねてきた。

「ないですね。考えた末の選択肢として出てくるのかもしれないですが、現時点で起業してこれをやりたいといったアイディアはないです」

僕は正直に答えた。そう、何のアイディアもないことが問題なのだ。

「俺らは、まずはこれをやり遂げようという確固たるものがあって飛び出したからなあ」

砂畑さんは腕を組んで考え込んでいた。成功する人間は、自ずと人生で成功するための戦略を立案し、実行している。人には様々な志向があると思う。自ら切り開いていくタイプ、チャンスが来るまで力を蓄えて待つタイプ、人を利用して駆け上っていくタイプ。大抵の人間は、チャンスが来るまで待つことを選択する。行動を起こさない方が楽だからだ。ただ、それは戦略を選択しているのではなく、楽な道を選んでいるだけだ。だからそういう人間は成功しない。

 砂畑さんと佐藤さんは、同じタイミングで会社を辞めた。そして二人で新しく会社を立ち上げた。砂畑さんは元々独立志向があり、会社の上層部と部下のマネジメント方針で揉めたことがきっかけで会社を退職し、起業に踏み切った。彼は緻密な計算はできないが、人脈が広く、部下の面倒見も良い。部下には自由にチャレンジさせて、責任は自分で取るという、部下からすると理想の上司タイプだ。僕は、彼が退職する前の数ヶ月だけ、上司と部下の関係となったが、その時にキャリアビジョンのことで相談したりもしていた。

「そうですね。幾つかアイディアがあって、着手計画まで決めてましたからね」

佐藤さんが横で頷きながら、砂畑さんと同じように腕を組んで言った。彼女も独立志向はあったが、本当はもう少し経験を積んでから独立するつもりだったようだ。しかし、自分の上司が会社と揉めて辞めることになり、このままこの会社でやっていく気も削がれ、予定より早いタイミングで独立を決意したと、辞める際に僕に言っていた。そのため運転資金が足りず、元上司と共同で会社を立ち上げることになった。そんな僕よりも圧倒的にバイタリティのある二人に、僕の問題解決に向けたヒントを貰おうなどというのも虫の良い話だった。そもそも二人と僕とでは土俵が違う。

「いや、そんなに深く考え込まないでも。そもそもこんな話をするために今日の会食を設定した訳でもないですし」

僕は話を変えようと口を挟んだ。湿っぽい話がしたくて二人と約束を取り付けた訳ではなかった。

「だけど大事な問題なんだろ? そこから目を背けたら一生解決しないぞ。一生なんてあっという間だぞ?」

砂畑さんは逃がしてくれなかった。

「じゃあ、聞きますが…」

話を変えることは諦めなくてはならなくなったので、僕は仕方なく参考にできる考え方を拾いに走った。

「お二人が独立しようと思ったそもそものきっかけは何なんですか?」

まるで二流のインタビュアーのような質問の仕方だった。

「シンプルだね。世の中の人のためになることをして、世の中を良くしたいとずっと考えてた」

砂畑さんに続いて佐藤さんも口を開いた。

「私は、自分で考えたことを世の中にダイレクトに主張したいと思ったからですね。そして、それを人々の生活を充実させることに繋げたいと思っています」

「志は変わってないということですね」

「そうですね。アプローチは変わったかもしれませんが」

「強さとは、動き続け、変わりながら、揺れない心ってところですかね。やはり、志という点では、二人の足元にも及ばないな」

美学のある人は尊敬を勝ち取る。僕の正直な落胆を砂畑さんは大声で笑い飛ばした。

「そんなことないと思うよ。今は見つかってないだけだろ」

砂畑さんは間髪入れずに先を続けた。

「ただ、これは真野も分かっていると思うけど。自分がどうありたいかで行動すべきだと思うよ。右向け右に従い続けても搾取されるだけ。自分で考えて主張しなければ、何も起こらない」

僕には何も言えなかった。

「結局は小さいことの積み重ねでしかないけどね」

三人の人生談義は続き、僕たちは会計を済ませた後、次の会合の約束をして別れた。

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