第22話 徒労、不毛、プラマイゼロ
受付を済ませ、協議が開かれる会議室へと招かれ僕らは席に着いた。奥から加賀さん、僕、山崎の順で座った。本来であれば加賀さんが中央に座るべきだったが、プレゼンするのが僕だったので、形式的な序列で席順を決めなかった。椅子に腰を下ろし、打ち合わせ資料の準備をしながら、僕は徐々に気分が高揚してきた。ここまで来ると、あとは事前に練り上げたものをきちんと伝え、相手の意向を理解して着地させるというタスクを遂行するだけだった。そして、想定外の問答が発生した際に取り乱さず相手が何を把握したいのかの意図を冷静に汲み取れば良い。しかし、それが簡単にできれば苦労はない。
山崎は初めての経験でそわそわしていて、バタバタと鞄の中を弄ったりしていた。僕はじっと山崎の挙動を見つめ、彼がこちらを見るまで視線を動かさなかった。僕の視線に気付いた山崎は、僕の意図を悟って手を膝の上に置いた。一方、加賀さんは意外にも場馴れした雰囲気で、極めて落ち着いていた。もしかしたら何も考えていないだけかもしれないが、彼のフォローをしなくて済むだけでも儲け物だった。
先方はなかなか現れなかった。多分時間に換算してもたかだか十分かそこらだったと思うが、僕らにとっては数時間とも言えるほどの空白の時間だった。
「ちょっと遅すぎないですか?」
山崎が僕に声を掛けてきた。さすがに焦らされると、これまで折り合いをつけられていた緊張も暴発を予感させるように波打っていた。
「まあ、簡単な話じゃないだろうから、先方も準備に手間取ってるんでしょう」
緊張の沼に足を取られかけて、僕は矛盾の塊のような返答をしてしまった。打ち合わせの準備は前日までに終わっている筈だからだ。当日の、それも直前に準備するような状況では到底成功など望めない。山崎は、そんな僕の返答でも無言で頷いて、落ち着きを取り戻したようだった。気が紛れさえすれば掛けてもらう言葉は何でも良かったのだ。加賀さんはまったく動じる様子がなかった。心を無にしているのか、眠っているのか、目を瞑りひたすらその時を待つといった風情だった。
そしていよいよその時はやって来た。ドアの向こう側からうっすらと足音が近づいてきて、僕らの部屋の前で止まった。ドアをノックする音と同時に僕たち三人は一斉に立ち上がり、交渉相手を出迎えた。現れたのは常務取締役の鈴木さんという方だけで、元々業務提携交渉をしていた担当者は現れなかった。
「どうも、お世話になります。この度はご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありません」
先方の意外な第一声に僕は虚をつかれ、何と返したら良いか瞬時に言葉を見つけることができなかった。
「いえ、こちらこそ。今日はよろしくお願いします」
何とか振り絞って出した反応がこれだった。これではどちらが侘びを入れる立場なのか分からない。このまま沼の底に沈んでしまわないよう、聞こえないように大きく息を吸い込んで吐いた。
場を仕切り直そうと、僕は打ち合わせの口上を述べた。打ち合わせの趣旨、本件のお詫びとこちらの見解、それから今後の対応についてとか、そういった類のことを場つなぎの言葉を交えず丁寧に端的に説明した。その間、鈴木常務は黙って所々頷きながら聞いていた。そして、いよいよ本題に入ろうという瞬間、常務が口を開いて割って入った。
「実は、弊社内でも困窮しているんです」
僕は話の途中で遮られたのと、予期せぬ一言で頭がホワイトアウトしてしまった。
「今回で何件目なのか…」
「何件目…?」
白い霧の中で、僕は必死に琴線に引っ掛かった言葉を頼りにこの場にしがみついた。
「はい。打ち合わせの前に改めて事実確認をしていたのですが、やはり本件も同様の事案でした。遅れてしまったのはそのせいです。何とも申し訳ない」
僕は事態が掴めず、そして何を言ったら良いのかわからなくなってしまい、頭の中で平仮名の『あ』から『ん』がそれぞれ独立してぐるぐると駆け巡っていた。加賀さんと山崎は二人とも目の焦点が合っていなかった。
僕は濁流の中で必死に語句を紡ぎ合わせて、何とか次の台詞を絞り出した。
「すみません…。ちょっとどういうことか全く分かりません。ご説明をお願いできないでしょうか?」
どうやら日本語の体裁は保てたようだった。常務は極めて冷静な素振りで口を開いた。
「はい。ご説明しましょう」
鈴木常務は、淡々と端的に今回のいきさつについて説明していった。
鈴木常務は必要以上に丁寧な言い回しで、まるで猿にでも言い聞かせているように話していったので余計に話が長くなったが、要旨はこういうことだった。先の担当者は会社の古株で、元々は他企業との業務提携担当だった。しかし、毎回プロジェクトの進め方が強引で周囲との折り合いが付かなかったため、閑職に異動させていた。担当者は、閑職に追いやられても業務提携に携わることへの思いが捨てられず、独自に企業を開拓し、定期的に新規の業務提携を進めてしまっていたとのことだった。
「これまで彼が上げた実績も少なくないので、弊社も処遇に困っていたのです」
どうやら、特筆して自社が不利益を被る訳でもないので、何事も無ければ看過していたようだった。自社独自のビジネスチャンスは狭まるが、自ら動かなくても実入りがあるからだ。今回のように相手側から問い合わせが入った場合のみ、事態の収拾に乗り出すということだった。この会社にも加賀さんのような人物が存在したという訳だ。違うのは、この担当者は結果を出しているということだ。加えて、僕とは比べ物にならない程情熱を持って仕事をしている。僕は、この事態を招いた相手側の当事者に一定の尊敬の念を抱きつつも、話を聞きながら自分がこんな珍妙で低次元な事件に巻き込まれたことへの驚嘆と同時に、これまで費やした時間を返して欲しい気持ちで一杯だった。何のための準備だったのか。こんな下らない茶番に付き合わされた自分がいたたまれなかった。
その後、場に沈黙のさざ波が流れ、業務提携交渉の仕切り直しが行われた。交渉は至ってスムーズで、万事抜かりなく執り行われた。交渉は双方が望む条件で着地し、この珍妙な事件は幕を閉じた。
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