第21話 終局の前のエアーポケット

 最終的な帰宅時間は、朝の六時を回っていた。咲は新しい一日に向けた準備を始めており、古い一日を腰にぶら下げて帰宅した僕を一瞥し、ぷいと横を向いて自分の支度に戻った。僕が朝に帰ってきたことで、すこぶる機嫌を損ねたようだ。僕は、咲の冷たい視線を尻目にそそくさとシャワーを浴びた。そして、一足遅れて新しい日の用意を整えようと、寝室のクローゼットに向けて足を運びだしたときに、漸く既に咲は自宅を後にしていたことに気付いた。僕は眠たい頭で目を擦りながら、無意識のうちに咲への謝罪と経緯報告のストーリーを考えてしまっていた。

 その日の僕は、はっきり言ってほとんど使い物にならなかった。じっとしていると勝手に瞼が閉じてくるし、かと言って目を開けていても何かを考えられる訳でもない。頭はぼんやりとしていて、誰かが話しかけて来ても内容は右から左に流れ出ていく、といった悪循環だった。幸いにも、翌日に控えていたトラブル案件の資料は、池田さんからOKをもらい事なきを得た。僕はそれを受けてぼんやり明日のプレゼンのシミュレーションをして、定時ぴったりに会社を後にした。きっとこういう局面で詰め切らないことも、僕が突き抜けない要因の一つなんだろうと思ったが、そんなことよりも疲労と眠気が僕を支配し、自ずと足を自宅に運び出していた。

 そして当日を迎えた。前日の準備は入念ではなかったが、僕は不思議とそれほど緊張していなかった。多少の動悸や浮き足立つ感覚はあるが、頭も身体もガチガチで何も手につかないということはなかった。良い兆候だと僕は思った。重要な局面で緊張しすぎると力を発揮できない。しかし、まったく緊張感がないというのも、それはそれで後々事態に窮することになりうる。不測の場面に差し掛かった途端、頭が真っ白になってしまうからだ。僕は朝の自分の状態を鑑みて、最悪のケースには直面しなくて済みそうだと少し安堵し、支度を済ませて会社へと向かった。

 いつもより少し早い時間に出社すると、珍しく加賀さんがスーツ姿であたふたしているのが目に止まった。流石の彼でも事態の重大さを感じているらしい。僕は、その嗅覚があるのであれば最初から発揮してくれれば良かったのにと思った。そうすれば、こんなトラブルを抱え込まなくても良かったのだ。デスクまでの道のりで彼と鉢合わせてしまったので、僕は仕方なく当たり障りない問答をした。

「おはようございます。今日はお願いしますね。出発時間は分かりますか?」

「あ、あぁ、よろしく。時間は大丈夫。じゃ役員会議があるから、後ほど」

そう言って彼はそそくさと退散した。僕は、『この後別のミーティングがあるので現地集合でお願いします』と伝えたかったが、それすら発する間もなかった。仕方がないので声には出さず何回か念仏のようにその台詞を唱え、もし合流できなくても僕のせいじゃないと開き直って自分の席に着いた。彼は役員会議でどんな存在感を発揮しているのだろうと、自分の荷物を置きながらふと素朴に疑問に思ったが、取るに足らないどうでも良いことだと思って頭から振り払った。

 あれよあれよと時間は過ぎていき、僕は一足先に営業からの巻き込み事故の収集に向かった。出がけに山崎に声を掛け、本題の件と念のため加賀さんを連れてくるように伝えた。

「はい、任せてください。真野さん、今日は密度濃い一日ですが頑張りましょうね!」

僕は軽く手で会釈して会社を後にした。初めはどうなることかと思ったが、結果的に僕は山崎に救われることになった。事態が急変した後、彼に任せた加賀さんのコントロールの件で、彼は期待を上回る働きを見せていた。加えて、提携先への報告内容や今後の対応策についても、自分なりに意見を出してくれた。当初の状態からすれば予想だにできない成長だった。内容自体は大したものではなかったが、山崎の僕を送り出す言葉尻にも自信が備わってきたことが窺え、僕は彼を少し頼もしく思いながら打ち合わせ先へと急いだ。

 打ち合わせ先で営業の吉田と杉村さんと合流し、僕は意気揚々と打ち合わせに挑んだのだが、何とも呆気ない幕切れとなった。先方とのやり取り開始からあまりにあっさりと終着地点に辿り着いたので、僕は先方からの返答を聞いた後、暫く口をぽかんと開けてしまっていた。

 僕たちのリカバリープランは、既に利用されているサービスの即時停止と支払い料金返金、それと引き換えに別の代替サービスの三ヶ月無料トライアル利用に加え、三ヶ月後に本契約に至った場合、定価の三分の一の料金で利用することができるというものだった。営業から『先方はかなりおかんむりです』と聞いていたので、冒頭で事情を説明して持参したプランを話したところ、二つ返事で了承された。僕は完全に拍子抜けしてしまい、つい先方に率直な感想を伝えて理由を尋ねてしまった。すると先方は、冒頭の説明で状況を理解することができたためだと答えた。

「正直、今日説明を聞くまで状況がまったくわからない状態だったので安堵しました。寧ろ、こんなに破格な提案をいただいてしまって恐縮です」

今日に至るまでの過程を紐解いていくと、どうやら営業の吉田の言っていることが全く分からず困惑していたところだったようだ。

「吉田さんは発注までかなり押せ押せだったのに、いざ利用してみると今度はダメですの一点張りだったので…」

どうやら、僕は吉田が一人で勝手に引き起こしたアクシデントの無駄な尻拭いをしていたようだった。ただ単に拭うだけでなく、誰も見ないにもかかわらず入念にワックスで磨きをかけてピカピカにするという、極めて不毛な時間を費やしていた。アップルトゥアップルとはよく言ったものだ、と僕は思った。最初から正確な情報を得ていれば、必要以上のアフターケアをしなくても済んだかもしれない。結果論ではあるが、少なくともいきなり最上級のプランを持っていく必要はなかったのだ。僕は謝辞を伝えつつ、頭の中で吉田を袋叩きにしているイメージをしていた。

そしてリカバリープランの実施スケジュールを詰め、僕らは打ち合わせを切り上げた。先方との挨拶を終えエレベーターに乗ると、

「ありがとうございました!」

とりあえず勢いよく礼でも言っておけ、といった雰囲気で吉田が大きな声を上げた。もしこの『ありがとうございます』という言葉がそのまま象形物として具現化されたら、きっと外見はシースルーで、外膜はぺらぺら、中身はすっからかんの何ともつまらない代物だったろう。それくらい何の意味もない台詞だった。僕はわざとらしく聞こえなかった振りをしてエレベーターが階を下がっていく表示を見つめていた。

 これまでに使った時間は何だったのだろうと、僕は腹の虫が治らない気分だったが、何食わぬ顔でエレベーターを降り、次のアポイントがあると二人に伝えてその場を離れた。二人はどうやらこの後ランチでも奢って僕を労おうとでも考えていたようだったが、そんなものはこちらからお断りだった。確かに腹の虫は鳴っていたが、それは腹が空いてからではなく、腹の底から湧き上がる憤怒によるものだった。それに、僕には次のミッションがある。営業だったら、人の予定くらい事前に確認しておいて欲しかった。最後に無駄なやり取りまでさせられて余計うんざりした気持ちになり、僕は次の集合場所へと向かった。

 次の待ち合わせ場所に向かう道中で、僕はいよいよ本番だと気を引き締めた。おそらくすんなりとは収まらないだろう。電車のつり革にぶら下がってゆらりゆらりと揺れ動きながら、打ち合わせで伝えるべき内容を頭の中で繰り返していた。

 目的地に着くと、僕はいつものネクタイの結び目を締め直す仕草をして、意識的に顔を引き締めて自動ドアを通り抜けた。加賀さんと山崎は既にロビーのソファに座っていた。僕を見つけると二人とも軽く手を挙げて合図を送ってきた。

「出るときに会社にいなかったからちょっと戸惑ったよ」

加賀さんの間の抜けた発言に僕は面食らった。山崎の方をちらりと見たが、彼は苦笑いを浮かべるだけで何も言わなかった。そのやり取りだけで僕らの間では通じ合った気がした。スマートフォンの時計を見ると約束時間の五分前だった。

「じゃあ、そろそろ行きましょう。今日はよろしくお願いします」

僕は敢えて一堂に声を掛けることで自らを鼓舞し、受付へと向かった。

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