第20話 虚像はいつまでも虚像で、虚業は常に実像
一人会社に残留した僕は、半分以上眠っている脳を奮い立たせて事態の解決に向け悶々としていた。相変わらず流れは滞ったままだった。何かに備えたり、何かを防ぐために生きていくことに慣れたつもりだったが、やはり無理を重ねればその分歪みも生じる。そして歪みから生まれた綻びは鬱屈の芽となり、いつしかその芽がひょっこり顔を出して弾け飛ぶ。まさにこれが仕事なんだなと、僕は機能不全となった頭でそう結論付けた。僕は、仕事とは自己犠牲と対価のトレードオフで成立していると思っている。だから自己犠牲の配分が多くなると、不満が募るというメカニズムだ。しかしプロフェッショナルとは、そう言った関係性を取っ払って、自己の実現に向けて仕事と自身を一体化させられる者だ。それには、その仕事を限界までやりきったと同時にその場で死ねる覚悟があるかどうかが問われる。割り切って選択と集中ができない僕は、いつもその壁にぶち当たる。そんなくだらない事を考えながら、僕は自己実現とは何て程のいい謳い文句なのだろうと思った。元々望んで選択したものではないことで、どのように自己実現しろというのだろう。中には没頭している内にそれが自分の核へと昇華する人もいるかもしれない。しかし、それは錯覚だと捉える人もいるし、そもそも核にならない人だっている。それでも自分に嘘をつき続けて誤魔化している間に、虚像が実像に変わるのを待てというのだろうか。僕にはそれができそうになかった。結局、虚像は虚像でしかないのだ。
いつしか僕は作業の手を止め、不毛な思考の波に溺れて時を過ごしていた。朝から晩まで、いつ終わるともしれない苦行を強いられていると思うと同時に、何て受動的なんだと思った。僕の思考回路は、能動的な意思や行動の兆しを放棄していた。もしかしたらこの状況や状態は、誰かにとっては取るに足らないものであるし、誰かにとっては喜びの極致なるものかもしれない。ものの捉え方は人それぞれだ。僕にとっては、この痛みの雨が降りしきる日々を、無我の境地でやり過ごしていかなければ身も心ももたなかった。毎日こんな卑屈な感情に支配されていると表情も歪んでくるのか、右の唇が上がってきた気がして僕は右手で自分の頬を撫でた。
深夜のオフィスで辺りを見渡しても、当然だが誰もいない。責任の前では常に孤独だ。深夜まで会社に残っていると、こうして碌でもないことばかり考えてしまう。気分や体力が落ちているときは心が揺れるものだ。泰然自若とは程遠い状態で、ありとあらゆる情報に誘惑される。その状態でたくさんの情報に刺激されると更に落ち込んでいく。そこで踏み止どまるためには、より俯瞰した姿勢が必要だ。僕はいよいよと手を動かし始めたが、ありとあらゆる雑念に邪魔されてしまい、これまた碌でもない結果しかアウトプットできなかった。嘘ではないが、正確な事実でもない内容を纏めながら、やはりこれは虚業だなと僕は思った。嘘で塗り固めた毎日を業とするから虚業というのだ。僕らは世間というしがらみの中で、虚業で塗り固めたかりそめの日々を生きている。僕は上半身を反らして伸ばしながら首をぶんぶんと振り、遠心力で雑念を振り払うイメージをした。時計の短針は、数字の3を指していた。
それから小一時間ほど集中し、僕は何とか打ち合わせ資料を完成させた。そもそも最初から集中してこなすことができれば、この程度の時間で完了できるのだ。勤続疲労とキャパシティオーバーはパフォーマンス低下に直結するのだ。いずれにせよ、これで何とか交渉相手との打ち合わせに間に合わせることができる。僕は出来上がった資料を斜め読みしながら、その仕上がりに気分が萎えた。この程度のクオリティであれば、どの分野であってもきっと成功には至らないだろうと思った。仕事に限った話ではないが、基本的に万物には共通する領域があって、例えば仕事に置き換えた際、違う分野だったら成功できるなんてことはあり得ないと思う。自分が取り組んでいる領域のクオリティは、そのまま違う分野でのクオリティに置換されるのだ。という境地に達し、僕はつまるところ今後何をやっても同じなのではないかという思いに駆られて余計にげんなりした。そして、やはりそれでもどこかで最終的にどうでも良いと思っている自分がいた。それはきっと義務としてやっているからなのだろう。最後の一押しや仕上げに拘って無理をする上司や同僚を見ていると、どうしても最後のところで付き合いきれなくなって気持ちが冷める。この心境は、今回のこの仕事だからだと思いたかったが、僕の人生のスタンスがそうなんだろうとも思った。人生そのものに投げやりなのだ。
ネガティブな思考をする時は疲れている時だけだ。そう自分に言い聞かせて、僕は帰宅の準備を始めた。土俵際でぎりぎり踏み止まっている生活というのは、こういう生活なのだろうか。そろそろ始発の時間だった。空は薄く明るみを帯びてきていて、これから穏やかな一日が始まるといった様相だった。一方、僕の身辺は穏やかとは対極の境地だった。僕は、この空に少しでも希望を持って今日に挑もうと思った。ひたすら今を中心に据えて、とにかくただこれだけに集中しようと、ほんのりと優しく明るむ空に誓って僕は会社を後にした。
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