第19話 問題解決のプロセス

 この日から僕は、この二つのネガティブプロジェクトの終局に向けて日夜業務に励んだ。加賀さんの件に関しては、元々僕は山崎のサポートという役回りだったが、池田さんとの話し合いにより経験のある僕が対応した方が良いということになり、主担当とサポートの交代が成立した。山崎は、最初は残念そうにしていたが、メインの交渉以外の役回りの多くを任せると、意気揚々と自分の役割をこなしていった。

 朝は咲に僕自身の根幹の問題解決が滞っていることに渋い顔をされ、昼間は加賀さんへ睨みを利かせながら通常業務をこなしつつ、夜になって漸く腰を据えてトラブルシューティングに取り組む毎日が繰り返された。日によっては終電を逃し、タクシーで帰宅することもあった。そんな日が一週間のうち数日続いたが、全てのことが『ながら』進行だったので、どれもこれも遅々として進まなかった。二つのトラブルシューティングのうち、吉田の件は、営業側にアポイントの調整を任せ、加賀さんの件は、僕が自ら日程調整を行った。合間合間に電話を掛けるというやり方では、なかなか相手はつかまらなかった。何日かトライした結果、漸く業務提携先と電話越しにコンタクトできたと思えば、先方は今回の件を知らないと言う。会話の中で何度か先方の担当者名を伝えると、五分ほど通話を保留にされ、別の人が電話口に現れて言葉を発した。

「状況は理解しました。改めてお会いして話しましょう。こちらでも状況確認を進めますので、二週間ほど猶予をいただきたい」

と言って約束の日程が決まり、電話は切れた。

 東奔西走の日々は続き、僕の疲労はピークに達していた。自分の抱える業務量が多すぎて、交渉相手にすべきことも伝えるべきことも分かってはいたが、如何せん資料化する時間が取れず、遂に、打ち合わせ当日に打ち合わせをキャンセルしてしまった。しかも、その打ち合わせには池田さんが同席することになっていた。池田さんからは、『どうなっているんだ』と外出先から激怒の連絡が入った。そして僕は池田さんに『あいつはやる気がない』と烙印を押されてしまった。山崎は僕の状況を理解していて、僕の代わりに池田さんに弁解してくれていた。しかし池田さんは全く聞き入れない。終いには池田さんは、『あいつを捨てて来い』と山崎に指示を出していた。僕はそれを聞いてとても悲しくなり、ドアを開けて隣の部屋のベッドに潜り込んだ。そして目を瞑りながら、漸くこれが夢だということに気付いた。夢の中で眠りにつくとは相当疲れているなと妙な状況下で冷静に思いながら、夢から覚醒するために目を開けたり閉じたりしようとした。しかし、金縛りのような状態に陥ってしまってうまくいかなかった。隣の部屋では池田さんが山崎に『さっさと縛って捨ててこい』と怒声を上げている。山崎は懸命に抵抗してくれている。僕は夢の中なんだからそんなに頑張らなくていいのにと、それを聞きながら懸命に瞬きをしようとしている。遂に池田さんは、どこからかロープを持って来て僕を縛り始めた。あっという間に僕はグルグル巻きにされてしまい、『よし。捨ててきて』と山崎に指示した。池田さんと山崎が手を伸ばして来て、僕が『うわああ!』と叫び声を上げたところでやっと目が醒めた。

 目を開けると、僕は咲の左足と掛布団に包まれて太巻きの具のようになっていた。身動きが取れなかったのは、咲が足で布団ごと僕を巻き込んでいたからだった。僕は寝汗びっしょりの腕を何とか布団から脱出させ、咲を起こさないようにして絡みついた足をほどき、掛布団を元に戻した。そして僕は再び眠りについた。

 翌日も僕は、重たい身体と心に鞭を振るって業務をこなしていた。頭の中では昨晩の悪夢が再生されていた。僕はフラッシュバックと闘いながら、業務提携先との会議に向けた資料を作成していた。僕は、時々会議の準備をしているのか、会議の資料の準備をしているのかよく分からない状態に陥る。今日も朝からそんなモードに入り込み、更に昨日の夢のイメージに苛まれるという二重苦を味わっていた。僕は昨日に疲れていた。しかし、僕は今日を生きなくてはならない。僕は疲労感が溢れる身体をぐるりと回した。そして二、三回腹を膨らませながら大きく深呼吸した。この行為が身体の回復に少しでも役立つかどうかは分からないが、僕は疲れたときに気休め程度の思いで行なっている。今日もそれをルーティンのように行い、佳境を迎えた業務に挑んだ。

 しかし、やはり作業は遅々として進まず、あっという間に夜も更けてしまった。雑念を振り払えども考えは一行にまとまらず、漸く行き着いた解を記述しようとすると、また新たな道筋が見えてしまう。その繰り返しだった。さっき考えた新しいアイディアは、次の瞬間には古くなっている。そんな感覚の渦に飲み込まれていた。そういう時は決まって、そのアイディアは練り切れていないものだ。だから思考の途中で横道に逸れて、別の新しそうで似たようなアイディアが生まれてしまう。それが功を奏することもあるが、いつも起こる訳じゃない。僕は、頭の中で思い描いては消すという行為を繰り返していた。その間、刻々と時計の針は進んでいった。別の部署の人たちは、今日は何処に呑みに行く、あそこに旨そうな店ができただの、何とも楽しそうな会話をしながら僕の背後を通り過ぎて行った。羨ましいと思う気持ちはなかったつもりだが、無意識に彼らの後ろ姿を横目で追っていた。楽しまなきゃ損だろという声が、どこからともなく聞こえてきたような気がした。

「何、呑みに行きたいの?」

普段あまり絡みのない松本さんがクスクス笑いながら僕に話し掛けてきた。僕が仕事を切り上げて帰る同僚の動きを首を回しながら見つめ続けるという挙動を見つけてしまったようで、彼女は面白そうなおもちゃを見つけた子供のように爛々としていた。僕はとにかく気を紛らわせたかったので、すかさず彼女の問い掛けに乗った。

「いやいや松本さん、分かってるでしょ?」

この人は、相手がどういう状況かを理解した上で、実現困難なことを吹っかけてくる中々サディスティックな人だ。しかし、彼女の声質なのか、喋り方なのか、嫌味な雰囲気を感じることはなく、いつも僕は臆することなくやり取りできている。プライドの高い男性陣からすると、そんな耐性のある僕は信じられないらしい。そんな予定調和なやり取りではあったが、彼女は怪訝な顔もせず乗ってくれた。

「でしょうね。話は聞いてるよ。まあ終わったら愚痴でも武勇伝でも吐き散らしたらいいよ」

「本当ですよ、吐いたらいけないものまで出ちゃうかもしれません」

他愛のない掛け合いの後、じゃあ落ち着いたら呑みに行こうと言って、松本さんも会社を後にした。特に生産性のある行為ではないが、僕は彼女の細やかな優しさに少し救われ、朝から全く捗らない作業に戻った。

 これが落ち着くことはあるのだろうか。終わったとしても呑みに行く暇など出来るのだろうか。と嘆きながら、僕は何て贅沢な悩みなのだと思った。退屈なときには何もすることがないと嘆き、時間の隙間が見つからないほど凝縮された時には暇がないと嘆く。どっちにしろ嘆きの雨からは逃れられない。というより、自ら嘆きの雨を降らせているのだろう。

 そんな状態で仕事をしていると、今日もまた最終電車に乗り遅れそうな時間帯を迎えてしまった。すると、何処からともなく池田さんが現れ、僕の席に近付いて来た。僕はまた夢の中にいるのだろうかと思い、彼に見つからないように太腿を少し強めにつねった。背筋が伸びるような痛みがほとばしり、これは夢ではないことが確認できた。

「時間がかかりそうなら家でやりなよ。残業時間も今月結構かさんでるでしょ? 何も会社でやる必要はない」

池田さんは僕の隣に来るなりそう言った。僕は最初、この発言が何を意味しているのか分からなかった。自宅で仕事すれば残業稼働ではないから稼働時間上は疲弊しているように見えないと言いたいのか、それとも忖度してサービス残業しろということなのか。五秒ほど沈黙が流れ、僕は漸く自分が忖度の指示に回答しなければならないことに気付いた。

「そうですね。ですが、もう少しキリのいい所まで進めたいと思います。今から帰ってやってもって感じですし」

池田さんの予測範囲内の回答パターンだったようで、即座に返事がやって来た。

「そうか。じゃ、無理せずに」

そう言って彼は帰っていった。これで言葉通り無理せずに明日を迎えたらどうするつもりなのだろう。無理せず、とはどこで無理をしなくて良いということなのだろう。やはり意味がわからなかった。

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