第18話 プランのない実行のリカバリープラン

 加賀さんが去ってからしばらくの間、僕は自分の席から身動きができなかった。このトラブル案件の行末を見通すことができなかったからだ。一週間分の疲労と鬱積が荒波のように襲い掛かってきて、僕は自席で溺れそうになっていた。人は、乗り越えられる試練にしか出くわさないと聞くが、出くわさなくても良い試練なら、わざわざ僕の前に現れないで欲しいと思った。こうして僕は、本題からどんどん遠ざかっていく。その後、体制を立て直すために、慌ただしくがちゃがちゃと身体を動かしていると、山崎が未だに目を真ん丸に見開き、興奮も冷めやらない様子で僕に声を掛けてきた。

「真野さんもあんな風になるんですね」

僕は気恥ずかしくなって、先ほどの剣幕を後悔した。もう少し淡々とやり遂げるべきだったのかもしれない。詰めが甘いのだ。感情に左右されずに生きられればよっぽど楽なのだろうと思う一方で、それはとてもつまらない生き方なのかもしれないとも思った。結局、このどちらにも振り切れないところが、そのまま僕の生き様なのだろう。

「いや、そうかな? ちょっとカッとなり過ぎたよね。ああいうのは真似しない方が良いからね」

僕の台詞を聞いたか聞いていないのかよく分からないが、山崎は呼応した。

「いやでも気持ちよかったなあ。僕もあんな風にしゃんとしたいと思いました」

「いやだからね…」

山崎はやはり僕の言ったことは耳に入っていないようだった。放っておいたら一日中言い続けそうだったので、僕は山崎を窘めた。そして、この後のプロジェクト進行について山崎と話すためにミーティングのセットを依頼しようとすると、以前別の案件で関わった若手の営業スタッフが蒼白い顔をして、僕の元へと歩み寄ってきた。僕は嫌な予感しかしなかった。彼は、売上と同時にトラブルもゴールインさせる、最近社内ではもっぱら評判の若手ストライカーの吉田だったからだ。僕は異常事態を察知した。関わりたくない気持ちが、体内の奥底にあるタンクを満タンにした。しかし、仮にこの瞬間を回避したとしても、事態が好転することはない。そう思って仕方なく何があったのかと聞いてみた。想定通り、トラブル案件だった。詳しく事情を聞いてみると、契約上アプローチしてはいけないクライアントへのサービス提案が決裁され、クライアントがサービスを利用した後に業務提携先からクレームが入ったとのことだった。

「どうして気付かなかったの? 契約書に明記してあったはずだけど」

僕は爆発しそうな憤怒の爆弾を握りしめて、平静を装って聞いた。

「すみません。気付いた時には後の祭りで…」

僕は彼の言っていることが理解できなかった。後の祭りということは、気付いたけど問題になるまで放っておいたということなのか。それとも気付く前にパートナーから指摘が入ったのか。僕は、この営業を磔にして、彼の保身を粉々に打ち砕いてやりたい感情を何とか抑え込み、自分の背中に白い羽根が生えたイメージをしながら、事態を正確に把握するべくヒアリングを進めた。感情は状況を悪化させる。先ほども同じようなシーンに出くわしたが、インプットもアウトプットも感情を混ぜると碌なものにならない。ここで感情に左右されるということは、後々身を滅ぼすことと同義だと思うことにした。感情にすがったところで、事態は好転しない。僕はこの瞬間から、念仏を唱えるように自分を律して状況確認を進めながら、別の頭で、何故不測の事態は重なるのか、という問題について思考を巡らせた。しかし、状況と思考が頭を錯綜しているせいで、全く結論に至らなかった。

 気を取り直して確認した状況を整理して、僕は心の中で頭を抱えた。このサービスは変則的な契約を結んでいたので、アプローチ禁止リストは別の覚書に定めていたのだった。なので、サラッと契約書を斜め読みしただけでは見落とすリスクがあった。でも、そんなことも僕は契約書に明記するよう指示していたし、何より社内マニュアルに纏めていたので、自社のサービスを理解して提供している営業であれば、難なくクリアできる問題だった。でも、今回その点は見過ごされてしまった。これは僕の落ち度なのだろうか。それとも営業の彼、あるいはその彼をマネジメントする上司、及び営業部全体か。僕は、少しだけ考えて責任の所在や自責の念を持つことすら下らないことだと解釈し、事態を着地させることだけに思考を集中させた。ひとまず、僕からパートナーへ連絡して取り急ぎの謝罪と正式な謝罪と経緯報告の場を作る。並行してクライアントへは営業から連絡してもらい、サービス利用の中止と謝罪、返金対応を進める旨を伝えてもらおうと思った。それを営業に伝えると、何やら彼はかなり渋った反応を見せた。僕は、一瞬胸ぐらを掴みそうになったが必死に感情を嚙み殺し、彼に理由を聞いてみた。理由を聞いて今度こそ僕は彼を張り倒しそうになったが、頬の裏を噛み潰した痛みで何とか堪えた。どうやら、クライアントへはかなり無理を押して契約まで漕ぎ着けたようで、対応が一筋縄ではいかないとのことだった。僕は、そのまま退職の挨拶でもしてこの場から立ち去りたかったが、そんなことをしても咲にどやされるだけなので止めた。とは言え、事態は現場だけでは終結できそうになかったので、営業マネージャーの杉村さんと池田さん同席の元、事態収束に向けた打ち合わせを実施することにした。

 池田さんは打ち合わせ開始から暫く腕組みしたまま話を聞いていた。杉村さんは黙りを決め込んでおり、当事者の吉田がしどろもどろになりながら、状況説明に弁明を織り交ぜてひたすら話していた。僕は、自分の立ち位置を確認するために、池田さんがまず何を発するかを見極めるまで事態を静観しようと決めていたので、吉田のプレゼンを話半分で聞いていた。吉田は、次第に顔が不安でいっぱいになっていき、もう話すことがないのか、『あの、その…』などのこそあど言葉を織り交ぜながら、同じような話を言い方を変えて繰り返していた。

「で、なんで提案しちゃったの?」

満を持して池田さんは口を開いた。質問自体は問題を解決に向かわせるものではなかったが、その言葉で僕の立ち位置が確認できたので、僕はひとまず胸を撫で下ろした。

「いや、あの…。なので、気付いた時にはもう…」

吉田は顔から汗を滴らせ、消え入りそうな声で答えた。

「何が、なのでなの? よく分からないな。契約書と覚書に書いてあったよね? それは見てなかったの?」

池田さんは、感情が読み取れない表情と口調で問い正した。

「いや、契約書は見ていたのですが…」

僕はこれが自分じゃなくて良かったと思いながら状況を傍観していた。

「見てたんじゃん。見てたのに提案して、更に受注まで押し切っちゃったってこと?」

吉田は何も言えずに黙って頷いた。

「理解できないなあ。書いてあるのに敢えて破るってどういうことなのか。まるで分からない」

杉村さんが見兼ねて横から入ってきた。

「いや池田くん、申し訳ない。吉田はどうしても売上が欲しくて受注まで持ってっちゃったんだ。俺も気付いた時には既に受注していた上に受注までのプロセスを聞くともう営業だけだと火消しが難しい状況になってしまい。申し訳ないが力を貸して欲しい」

池田さんと同期入社の杉村さんは、吉田がこれまで長時間かけて弁明してことと同じようなことを池田さんに伝え、助けを請うた。池田さんは、典型的な営業の出世プロセスを通ってきた同期を嘲笑するような苦笑いを浮かべて言い放った。

「力を貸して欲しいって。だって分かってたんでしょ? 分かっててやって、そのままいくと思ってたわけ? いくわけないよね、契約違反だし。確信犯に力を貸せと?」

杉村さんの顔は段々と紅潮していった。彼は元々口が達者な方ではない。愚直に訪問を重ねて売上を上げてマネージャーまで昇進していった人だ。そんな彼が池田さんに太刀打ちできるはずはなかった。

「まあいいや。ここで犯人を追求したって始まらないし。クライアントフォローはやるけど、これがどういうことか分かるよね? 杉村さんも吉田君も」

二人は黙って首を縦に振った。池田さんは先を続けた。

「真野君、これ対応お願いできる? 俺もフォローに入るので」

「えっ?」

僕は面食らってしまい、池田さんに聞き返すことしかできなかった。

「だってこのサービスの担当、真野君でしょ? 君が一番分かってるんだから。仕方ないよ、営業なのにできないって言うんだし」

もっともな意思決定だった。僕は営業二人を穏やかな目付きで睨みつけた。二人は僕から目を逸らし、ほぼ同時に俯いた。

「わかりました。対応します」

結局、僕はこのトラブルにも首を突っ込むことになって打ち合わせは終了した。

 まったくもってどうしたものか。一日に二つも厄介ごとを抱え込むことになるなんて。僕がこの先どうするか途方に暮れて憂いでいると、再び池田さんがやって来て、僕を別室に招いた。別室に入ると、池田さんは即座に加賀さんの一件について聞いてきた。

「で、何かあったの?」

僕は事の顛末を正確に報告した。その報告を受けての第一声はこれだった。

「何でそんな大事なことさっさと報告しないの?」

僕が事態を把握するのとほぼ時間差は無かったが、僕は報告が遅れたことを叱責された。そもそもこの件は『自分は居ないものと思え』だった筈だが、納得がいかないという思いは口には出さずに次の発言を待った。

「で、どうするつもり?」

当たり前だが、池田さんは次のプランまで求めてきた。基本的にこの役職の人は単なる報告は求めない。

「ひとまず、再度先方と協議の場を設けられないか調整したいと考えています」

「それで?」

その場で思いついたプランの一端を伝えると、矢継ぎ早に質問が飛んできた。僕は促されるまま先を続けた。

「事情を説明して難しそうであれば、業務提携断念ですかね」

我が社の懐事情を踏まえた僕のプランは、それほど問題があるようには思えなかったが、池田さんは聞きながら暫く腕を組んで考え込んでいた。

「うーん。先方に連絡を取るところまではいいけど…。その先は先方と相談して決めたいなあ。それと…」

僕はその先を想定できたので遮ることもできたが、黙って聞いていた。

「何とかこのサービスを起ち上げるところまで持っていけないかな」

ほら来たと僕は思った。

「流石に今回は無理なんじゃないでしょうか。契約書に判を押してしまっているようですし」

「そうなんだけど、やる前から無理とは言わないで欲しい。やってからそれでも無理なら言って欲しい」

池田さんは引き下がらなかった。僕も簡単に引き下がるつもりはなかった。実際にその通りにしたらどうなるのか想像してみたが、碌でもない光景しか見えなかったからだ。それに、やってから無理ということなんてできるのだろうか。物事は一定のラインを越えると後戻りできなくなるものだ。もうこれ以上の面倒事には巻き込まれたくない。

「そんなに拘る必要あるんですか? 正直言って大したサービスではないと思います。既に類似サービスも競合が提供していますし、先行優位性もないと思われます。その上で起ち上げに拘るんですか?」

「拘りたいね」

それでも池田さんは譲らなかった。

「固執する理由は何ですか? 予算か何かが大きく掛かっているんですか?」

しかし、僕も後退するつもりはなかった。

「それもある。が…」

「が、何ですか?」

僕は池田さんがいつも行う問答と同じことを彼に行っていた。彼の方式と違うのは、そこに感情が織り混ざっていたという点だ。僕は、いつも最後の最後で主観が客観を上回ってしまう。そんな僕の状態を察したのか、池田さんは観念したように詳細を説明し始めた。

「トラブルとなった案件を担当して、それを火消ししただけ。というネガティブな印象を作りたくないんだよ。これは俺の責任でもあるんだけど、このままだと真野君と山崎は役員陣にそういう印象を持たれてしまう」

僕は腑に落ちなかった。

「僕が関与しているからということですか?」

僕は抱えた疑問をそのまま投げつけた。

「そういうことではない。ただ単に筋書きが変わったということだよ。一応断っておくけど、今回は真野君に非はないよ。ただ運が悪かっただけだ」

池田さんは、僕が珍しく指示を受け入れないことに困惑の表情を浮かべつつも淡々と答えた。しかし、僕はそれでも承服できなかった。

「そんなに重大な案件であれば、池田さんが対応した方が良いんじゃないですか?」

「そこは部署や会社の事情があるので、君に対応して欲しいんだよ。サービスの起ち上げについては、厳密に言うとマストではない。ギリギリまで粘ったという事実が欲しいんだよ。嘘ではない事実が」

僕は池田さんの言う事情に大体察しが付いた。正直そんなことどうでも良いと思ったが、これ以上問答を重ねても様々な関係に亀裂が入るだけだったので、止む無く引き下がった。

「つまり、嘘じゃない報告として、トラブルの収束だけでなく、業務提携交渉も行ったという報告が必要ってことですね?」

「そう。だからそのロジックを作った上で先方とのやり取りを進めて、着地させて欲しい」

僕は渋々首を縦に振り、この件の着地ストーリーを再考することにした。池田さんは、詳細の詰めなどは相談に乗るからよろしく頼むと言い残して自分の席へと戻っていった。

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