第16話 プロジェクト

 プロジェクト初日が終わって、自宅への道中で怒涛の一日を振り返ると、僕は自分で自分が優秀な人材だと錯覚しそうになった。僕は慌てて頭を振り、自分の思考をフラットな状態に戻した。僕が優れている訳ではない。単に周りのレベルが低いだけだ。僕に秀でた能力がある訳でもない。僕は自分を戒めつつ、何か大事なことを忘れているような感覚を抱いたまま自宅への道を急いだ。

 やっぱり帰宅は咲の方が早かった。玄関先から妻に帰宅した旨を告げると、僕の声色に疲労の帯を感じ取ったのか、咲がリビングから顔を出して様子を伺ってきた。

「どうしたの? 何かあった?」

僕は色々な側面を全て端折って答えた。

「ちょっと厄介なプロジェクトを振られちゃってね」

「またあ? 御社は厄介じゃないプロジェクトは存在しないんですかあ?」

僕が最後まで言い切る前に咲は次の発言を被せてきた。大体想像がついていたのだろう。僕が疲弊して帰宅するときは決まってこうだからだ。

「まあね。そうだね」

僕は咲の売り言葉は買わず、靴を脱いで荷物を寝室の床に置きながらぼそっと吐き捨てた。

「はい、そのままお風呂へ直行してくださーい」

咲は、僕が疲れて帰って来ると入浴を蔑ろにすることを察して、わざわざ寝室までやって来て指示を出してきた。

「へいへい、分かりましたよ」

僕は渋々服を脱ぎながら、脱衣所と洗面台がセットになった場所に設置した洗濯機の前に服を放り投げた。

「はい、脱いだ服は洗濯機に入れましょう」

咲は、疲労困憊であっても私的かつ夫婦の貴重な時間を雑に過ごすことは許さない。

「はいはい、保護観察官さんは厳しいですな」

僕の発した嫌味に即座に咲は反応した。

「そんな嫌味を言っている暇があったら、さっさとシャワーを浴びて夕飯を食べに来てください。今脱ぎ捨てようとした服だって、結局後で片付けるんだから、脱いだときにきちんとしまった方が無駄がないでしょ」

「そりゃまあ確かに」

僕は、咲の正論にはもう取り合わず浴室のドアを閉め、泥や油のように粘り気のある一日の疲れを拭い去った。

 シャワーから上がり、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに向かうと、ダイニングテーブルに夕食が並びつつあった。

「至れり尽くせりですな。感謝感謝」

咲に聞こえるように呟きながら、ダイニングに備え付けの椅子に座ろうとすると、咲はすかさず僕を呼び止めた。

「いやいやいや。箸を出したりやることあるでしょうが。何もせずにご飯が食べられると思うな」

僕は諦めて咲の手伝いをし、準備が完了したところで席についた。咲は僕が帰ってくるまで夕飯に手を付けず待っていたようだ。

「では食べますか。食べずに待っててくれたんだね、ありがとう」

「二人で食べた方が美味しいしね」

僕らは食事をしながら、互いの一日の出来事を話し合った。いつの間にか咲の社内新商品企画コンペは資料の提出が完了したらしく、来週の部内プレゼンで商品化する企画を決定するようだった。咲は、いつも自分の重要な局面を自己完結させる。良い意味でも悪い意味でもだ。何かの分岐点に差し掛かった際に相談されることはあるが、次に気付いた時には意思決定が完了していたり、出来事自体が終わっていたりする。何かの相談があった後、気になって尋ねてみると『ああ、あれね。終わったよ』などと、あっけらかんと答えてくるものだから、僕も拍子抜けして具体的にどうしたのか聞き出せないこともあった。今回も特に相談された訳ではなかったが、良い方向に着地すれば良いなと会話を重ねながら物思いに耽っていた。すると突然僕は咲に問い掛けられた。

「で、こないだの件はどうなってるの?」

「え、何の話?」

僕は不意を突かれて固まった。

「今後の自分の道について考える件よ」

咲は何を今更という表情で言った。さっきの何かを忘れている感覚はこれだったのかと、僕は他人事のように我に返った。

「あれはちょっと今行き詰まってる。直近は仕事に追われそうだし」

咲は怪訝な顔をして切り込んできた。

「そんな目先のプロジェクトなんかよりよっぽど重要な問題だと思うけどね。会社と運命を共にする訳ないんだし。一哉は一哉な訳でしょ?」

ごもっともな意見を妻に言われたものの、そんなに簡単に放り出せることでもなかった。それは咲も分かっている。分かってはいるが、完全に隅に置いておくなと言いたいのだろう。人は目に見える喫緊の課題に捉われるものなのだ。

「分かった。出来る限り考えてみる」

振り絞ってそう答えたものの、どこまでやれるかは自信が持てなかった。仕事の懸念や不安材料が頭から離れないのだ。振りほどこうとしても、僕の体内の深い部分に絡みついていてビクともしない。今日だって多少の軌道修正はできたものの、池田さんの言う通り山崎がどこまで出来るかは未知数だし、加賀さんが奇想天外な何かを持ってくる気もする。想像すると鳥肌が立ってきたが、僕はこの嫌な予感を見なかったことにして食事を終えた。夕食の最後の方はあまり味を感じなかった。

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