第10話 五里霧中でもひと休み

 翌日もその翌日も、僕は最寄りの駅で電車を降り、いつものように商店街を歩いて帰った。気分は五里霧中だった。結局、誰と話してもあまり前進感は無かった。『何か』は一向に見つからなかった。他人は自分を写す鏡と言うが、皆僕と同じように答えを持っていないのかもしれない。閉塞感と焦燥感は、僕の身体をがんじがらめにして、じわじわと逃げ道を絶っているようだった。時間と共に後戻りできなくなるような感覚。帰り道を歩きながら僕は、ビールを呑みながら咲と話でもして、少しでも気を紛らわせたいと思った。しかし家に辿り着くと、残念ながら咲は今日も寝室ですやすやと眠っていた。僕はしげしげとシャワーを浴び、リビングで独り缶ビールのタブを引いた。

 ある日、僕が朝の身支度をしていると、おもむろに咲が尋ねてきた。

「そういえば、幼馴染の二人は元気にしてるのかね。彰(あきら)くんと海(かい)くん。しばらく会ってないんじゃない?」

菅沼彰と恩田海は、僕の中学時代の友人たちだ。厳密に言うと幼馴染ではないのだが、かれこれ十五年ほどの付き合いになる。

「確かにそうだね。今年は年初に会ったきりで間が空いてる」

僕がスマートフォンのカレンダーをタップしながら予定を確認していると、すかさず咲が口を挟んできた。

「そうは言っても、ここのところ結構お酒呑む機会多かったんだから、体調と相談しながらだよ」

「いやいや、酒を呑むとは限らないし。だったら今二人のこと言い出さなかったら良かったんじゃないの…」

咲の小言に苦笑いしながら僕は答えた。

「だって、最近周りの人たちに会ってるでしょ? 漏れが無いか確認の意味で言ったのよ」

「そりゃそうだけどさ。まあ、あとは酒を呑まずに食事だけとかかな」

「男三人で、しかも昔の友達と会ってお酒呑まないで済むとでも思ってるのか!? まったく」

「いや、おっしゃる通りです。よく分かってらっしゃる」

単に咲の気晴らしに言い包められただけのような感覚に陥ったが、僕は思い出したように予定を確保して彰と海に連絡を入れた。二人とも暫く三人で会っていないことを気に掛けていたようで、すんなりと予定の調整は済み、ちょうど僕ら三人の中間地点となる場所で集合することになった。案の定、咲の言う通り酒が呑める場所で会うことになった。僕の単純さが浮き彫りになったことで、自分で自分にうんざりしたことは言うまでもない。

「相変わらず忙しなく働いてるんだな」

彰の近況を聞くなり海はそう言った。

「お前の方こそよく身体が悲鳴を上げないってもんだろ」

彰も海の仕事の状況を察して切り返してきた。

「俺はふらふらとやってきちまったからな」

彰は東京の郊外で内装屋を営んでいる。高校卒業後、特に夢も目的も持たずにフリーターとして生活した後、トラック運転手、清掃員などの職を転々として最終的に内装屋に転身した。内装屋を開業する前は、とある内装職人の会社で三年ほど修行を積んでいた。しかし、社長が売り上げをピンハネして給料が一向に上がらなかったことで揉めてしまい、喧嘩別れする形で望まない独立をすることになった。当初不安要素の塊だった前途は、彼の人付き合いの良さが一蹴し、方々から仕事を紹介してもらって軌道に乗っている。修行時代に広がった人脈が彼を助けてくれたのだ。おかげで商売繁盛で休む暇がないという、うれしい悲鳴に苛まれている。

「お前はもうやんないのか? 芝居」

海は、数年前途上で断念した道のことを唐突に彰に聞かれて、少しの間考え込んでいた。そして彼はきっぱりと答えた。

「もうやらないな。今は子供も二人いてその日が精一杯だし、あの頃の苦労や不遇を敢えてもう一回味わいにいきたくもないしな」

海は言った。何かを得るには、何かを犠牲にして闘い抜く覚悟が必要だ。

「そうか。確かにあの頃は色々苦難の連続だったよな」

「そうなんだよな。それを俺だけならまだしも、家族にも同じことを強いるってのは抵抗出ちゃうよなあ」

「やっぱり守るものがあるってのは違うものなの?」

僕は二人の会話に割って入って問い掛けた。

「そりゃ違うだろうよ。しかもウチはほぼ専業主婦だからな。重みが違うよね」

「なるほど。人三人分を背負うわけか。そりゃ重みも違うね」

僕は、海の状況下で専業主婦を貫こうとする感覚も思考回路もあまり理解できなかったが、彼の置かれた現状は理解することができた。海は高校を卒業して短大で演劇を学んだ後、舞台俳優になるべく芸能事務所に所属したが、挫折して俳優への道を諦めた。

「まあ、という訳で、もう演技の道に戻ることはないね」

「それはそうとお前はどうなんだよ。俺らの状況を聞いてるばっかりだが」

「何かあったんだろ? わざわざ招集をかけるなんてさ」

不意に彰と海に問い正されたことで、僕はしどろもどろになってしまった。まったく、僕の友人は皆テレパシーでも使えるんじゃないかと思った。それとも僕の行動特性として、何か自分から行動を起こすときは決まって良くない状況にある時だと思われているのだろうか。いずれにしても、心理状態が悟られやすい性質というのは厄介なものだ。

 僕は自分の問題を打ち明けるか迷ったが、彼らの近況を聞いて差し控えた。この問題に関する彼らからの回答は、もう得られていた。

「まあ、ぼちぼちだなあ。二人に比べたらなんてことのない平穏な日々だよ」

僕は嘘ではないが、正確な実態ではない回答をした。

「そうか。でもそれが一番良いと思うけどな、俺は」

僕にとってこの日常は、取るに足らない何とも味気ないものだったが、それが良いという人もいる。

「そういうもんなのかな。退屈だとは思わないの?」

「退屈だと思えるくらいのりしろがあった方が良いってことだよ」

「そうそう、そもそもそんなこと思う余剰がないぞ、生活してて」

海と彰は口を揃えて発する。

「いや、俺だって経済的に余裕があるという訳では…」

「違う違う、そういう余裕とかじゃないんだって。気持ちの部分であそびの領域があるかないかなんだよ」

僕は彼らの言うことがあまり理解できなかった。僕にはまだまだ経験が足りないのかもしれない。自分が身を置いた現状が良いものだとは、とてもじゃないが思えなかったからだ。

「それに、俺らは一杯まで引っ張って、土俵際でぎりぎり踏み止まってるような生活だからな。生き延びるっていう意味で」

僕は何も反論することができなかった。海や彰の言う通り、僕の日常にはのりしろがある。でも、どうしてもその実感を持つことはできなかった。こうしている間も、僕の焦燥感は一向に消えず、ぐるぐると身体の奥深くで渦を巻いている。

「ま、ある意味羨ましいもんだよ。現実問題として危機を回避できてる状態っていうのは」

彰は自分の家庭や生活を省みて、この先を憂うような表情で言った。僕は二人の表情を眺めながら、自分を取り巻く環境や状況に思いを巡らせていた。

 帰り道、僕は直近で再会した友人たちのことを思い返していた。結局、自分の問題を打ち明けたのは一度きりだったが、彼らの話から、エントロピーのようなものを推し量ることはできた。各々思うところはあれども自分の道を選択している。その選択によって時には何かを棄て、時には新たに何かを抱えて生きている。僕は、この先どのような選択をしたいのだろう。何かをやるにしても、やはり『何か』は見つかっていなかった。選択の仕方は様々だが、自分がどこに到達したいのかというものがあって初めてそのプロセスを選択できる。僕はどこに到達したいのか。僕は、健人たちとの会合で誰かが言った言葉を思い出した。もしかしたら、それは身近なところにあるのかもしれない。

 家に帰っても暗中模索状態でいると、咲がビールを呑みながら話しかけてきた。

「もし私と結婚しなかったら、一哉はどんな人と結婚したんだろうね?」

時々、彼女は僕にそう尋ねてくる。

そしてそのクエスチョンに僕は決まってこう答える。

「分からないな。結婚してないかもしれないし、結婚してても咲とは真逆の人かもしれないよね」

最後の一言は咲をからかう決まり文句だが、僕には本当に想像もつかなかった。咲と結婚しなかったら、他のどんな人と巡り合っていたのか。巡り合っていたかもしれないし、巡り合っていなかったかもしれない。そんなことは誰にも知る由はないが、分かっているのは現在、二人で平和な生活を送っているということだ。勿論、全く問題がないとは言えない。時々他の出来事はどうでもいいことのようにも思える。僕が現在抱えている問題すらも。僕は冷蔵庫から新しいビールを取り出し、咲と夜のひとときを過ごした。

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