第9話 諦観と自棄の隣接
友人たちとの会合を終え、帰路を進みながら、僕は先ほど繰り広げられたやり取りを回顧していた。友人たちとの対話によって、自分の問題の回答を得られた訳では無い。しかし、彼らも等しく、あるいはそれ以上に苦労を味わい、苦悩を背負って、僕と同じように平々凡々な日々を移ろいでいるということを知ることができた。
程なくして自宅にたどり着くと、咲はソファに横になり眠っていた。どうやら社内の企画コンペは佳境らしい。作りかけの企画書が、ダイニングテーブルでノートパソコンのディスプレイ越しに表示されていた。気になってディスプレイを覗き込んでいると、咲はぬくっと目を覚まし、一瞬辺りをきょろきょろした後、
「くさっ! タバコくさっ! もう、早くお風呂入って来て」
と僕に吐き捨てて再びソファに横になった。
僕は、咲に言われるがまま浴室に向かってシャワーを浴びた。何かをやらなければならない。それは分かっていることだが、いまだその何かについて明確なイメージが持てないでいた。通り過ぎていった過去に立ち戻っても、僕がこれまで夢中になった事柄に再び同じ熱量で取り組むつもりにもなれなかった。そして、考えれば考えるほど、現在の仕事への情熱は冷めていく。
数日後、僕はひょんなきっかけで高校時代の友人と再会した。坂下南亮(なんすけ)だ。彼とはもう随分と会っていなかった。最近では、もはや年賀状のやり取りくらいでしかコミュニケーションを取る機会もなくなっていた。僕はまったく知る由もなかったが、つい先日、互いに勤めている会社間で業務提携が成立し、そのフィジビリティで僕の会社で打ち合わせをしていたのだった。南亮は、技術部門の責任者としてその打ち合わせに出席していた。
「はい、じゃあおつかれ」
「まさかウチと提携の話があったなんてね」
「まあね。言おうと思えば言えたんだけど、言ったところでってのもあったし、言って何かあっても嫌だから黙ってたよ」
「まあ、正直どっちでも良かったけど。仮に教えてもらったとしても、別に邪魔するつもりもないから傍観してただろうしね」
「そらそうだろうな。お互い、面倒に巻き込まれるのはごめんだよね」
「その意識は、やっぱり昔の経験から来てるの?」
「そうだね。完全に経験則」
南亮とは高校の頃、ちょこちょこと悪戯のような素行を繰り返す仲で、互いの両親に土下座し合ったこともある悪友だ。よくもまあ軽々しく土下座なんてしたものだったが、僕も南亮も、好奇心はあるものの気は小さいというタチで、当時は何かが明るみになるたびに肝を冷やしていたものだ。それに、悪戯といっても可愛いもので、未成年のくせにちょっと酒を呑みすぎて誰かに迷惑をかけたとか、どちらかの家を訪ねた際に、煙草の不始末で危うく一家露頭に迷う事態に陥ったとか、親の居ぬ間に女友達と宴会をしたとか、昨今よく報道されるようなおぞましい事件を起こすことなどもなく、青春時代のほろ苦い経験をつまみ食いして過ごしていた。
「やっぱりあの頃の経験がなかったら、俺は今でも無謀に地雷原を匍匐前進(ほふくぜんしん)していると思うよ」
「それは無謀だね」
青春時代の教訓を糧に、南亮は面倒なことに巻き込まれることや自ら問題を表面化させることを一際避けて生きている。
「ま、俺は昔からなりたいものがなかったからね。だからその時その時で、美味しそうなものを摘み食いしていくだけだよ」
「だけど、今は毒が入っていそうなものを避ける眼力が身に付いた」
「そういうこと」
南亮は、欲望のまま生きつつも、リスクだけは回避しているようだった。
「相変わらず取っ替え引っ替えしているの?」
「そうだよ。今は嫁を除いて五人」
「五人? すごいな。そんな時間どこにあるんだよ?」
「平日は家に帰らない。俺の職種は仕事柄、昼も夜もないからそういうことにしてる」
南亮は、非常に女癖が悪い。これまでも、付き合っている女の子の他に、複数の女の子に手を出していた。彼は結婚して子供が二人いるが、依然として女遊びは止まらない。奥さんは神の化身か無関心かどちらかなんだろう。以前、南亮に聞いてみた際、彼ははっきりと僕に言った。
「バレてないと思うよ。まあバレてても、ウチのカミさんは神だから」
と、悪びれもしなかった。僕はそのとき、彼の奥さんはどんな類の神なのだろうと想像しかけたが直ぐにやめた。世の中には知らない方が良いこともある。
彼はとてもマメな性格で、自分が妻帯者ということはバレずに数多の女の子とSNSで連絡を取っている。彼女たちは皆、彼と真剣に付き合っていると錯覚しているらしい。一方、仕事も極めてマメで、与えられた職務はしっかりこなしてうまく手を抜きながら出世を続けている。何故そんな精力的に活動ができるのか尋ねると、彼は決まってこう言う。
「どうせ黙ってたらクソみたいな世の中なんだから楽しまなきゃ損だろ? 俺は止まったら死んじゃうんだよ」
そんな自暴自棄なことを言いながら、危ない橋を極力避け、世の中の枠組みからはみ出ない程度に背徳を楽しんでいる。
「平均的な父親、っていうか元々が平々凡々な人間だからね。何も励ましがない生活をずっと送り続けられる訳ないだろ?」
子供二人の父親である彼は、スマートフォンのコミュニケーションアプリで妻ではない女の子に連絡しながら、懺悔するように言った。
僕と南亮はその後も呑み続け、結局家に着いたのは深夜二時だった。南亮との対話で僕の問題について切り出すことはしなかった。仮に切り出したとしても『そんな下らないこと考えてないで、もっと気楽に楽しんだ方が良いに決まってるだろ?』などと笑い飛ばして一蹴されていただろう。僕らはタクシーを使う時間になるまで酒を飲み、後半は二人とも何を喋っているのか分からないという体たらくだったが、多分再会の約束をして帰ったのだと思う。咲は寝室で既に眠っていた。時間帯が時間帯だけに仕方がないのだが、僕は何だか物足りない気持ちになり、風呂にも入らずベッドに潜り込んでみた。すると、眠っているはずの咲に足で身体を小突かれた。
「足汚い、酒臭い。シャワー浴びて。早く」
その辺は敏感なんだなと改めて咲の特性に感心しながら今日あったことを話し始めると、咲は既に眠っていた。寝言だったのか起きていたのかよく分からないが、僕はそそくさとシャワーを浴び酔いどれ気分のまま床に入った。
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