第7話 明確な混沌との対峙
翌日、僕はまず、中山健人と会うことに決めた。ひとりで考え込むよりも、誰かに会って話を聞いて、自分の考えを前に進ませようと思ったのだ。健人は、僕の大学時代に最初できた友人だ。互いの好みも合い、学生時代は双方の家で酒を呑み、朝まで文学や音楽などについて談義するような間柄だった。現在でも年に一、二回は酒を呑み交わしている。
店を予約した数日後、僕はいつもより少しだけ仕事を早く切り上げた。彼と呑む店は決まっていて、これまた大学時代の友人が営む小料理屋だ。なので、僕はその友人に予約を申し込んでいた。都心の喧騒から少し逃れたところにその店はある。僕が暖簾をくぐって店に入ると、健人はすでにカウンターに腰掛けて煙草を片手に呑み始めていた。
「お、いっちゃんいらっしゃい。遅かったじゃんか、もう健ちゃん来てるよ」
最近は耳慣れないあだ名で僕を呼ぶのは、この店の店主の内海美恵だ。僕の名前は一哉だが、漢数字の一でみんなが呼びやすいとのことで『いっちゃん』というあだ名がついた。彼女は大学を中退して料理の道へと進んだ。いつぞやその理由を聞いたとき、このように言っていた。
「何となく進学の道を選んで大学に来てみたものの、どうしても自分がその先どうやって生きていくのかが見えなかったから」
彼女は確固とした決意の元、自分の進むべき道を選んだのだ。
「あれ、結構急いで来たつもりなんだけどな」
「過程じゃなくて結果だろ」
健人はタバコを揉み消して、悪戯っぽく笑いながら僕に声を掛けた。僕はそれに呼応するように含み笑いを浮かべ、彼の隣に腰掛けて荷物を置いた。
「えーちゃん、生ビール二つで」
「はいよー。ていうか、未だにえーちゃんなんて呼ぶのあんた達くらいよ」
あんた達というのは、僕と健人の他に二人いる友人の渡辺友也(ともや)と鈴山結城(ゆうき)を含めた四人のことだ。
「はい、生ビール二つ。くれぐれも呑みすぎて帰れなくならないように」
「うす」
「じゃあ、久し振りということで」
他愛のないやり取りを挟んで、僕と健人はビールを呑み交わした。始めは最近どうなのとか、お互いの奥方は元気かとか、何てことのない近況報告の授受を重ねていた。僕は、今日の本題をどのタイミングで切り出すか測りかねていた。健人の話に相槌を打ちながら、特に面白みのない自分の近況を打ち明けるという、腹の探り合いみたいな時間がしばらく続いていた。
「それはそうと、今日は何か話したいことがあったんじゃないのか?」
健人に唐突に切り込んできた。僕は不意を突かれて固まってしまった。
「まだ、踏ん切りがつかないんだろ?」
それとなく聞くつもりだった僕の企みは、あっさりと看破されてしまった。僕は観念して彼の問いに回答した。
「やっぱりわかる?」
「わかるよ、そんな顔してりゃあ」
僕は、おそらく自分の顔にまとわりついているであろう霞を払いのけようと、右手で自分の顔を覆った。
「自分自身納得しないまま先に進んだら、後悔はついて回るぞ」
「それは分かってるんだけどね」
「分かってないよ」
「そうかなあ」
健人は引き下がってくれなかった。
「だから現在こうなっているんだろ?」
僕は霞を振り払うことができなかった。彼はそれ以上続けなかった。いつも彼は僕の心の隙間を見抜く。彼とのこんなやり取りは、これが初めてではなかった。初めて言われたのは、僕がCGデザイナーの道を諦めたときだ。
「またあのときの繰り返しか」
「再来したって感じだな」
健人も僕と同じシーンを想起していた。
「ま、巡り巡って廻ってくるんだよ、そういうもんは」
大学時代、彼は小説家、僕はCGデザイナーを目指して活動していた。何故それを目指したかなどという初期衝動の理由など答えようもないが、単純に格好良いと思ったからだろう。僕はただ、格好良く生きたかった。しかし、僕は世の中の大半の人と同じようにそのスタートラインに立てなかった。
「十年くらい前のことか。俺は、お前はそのまま進んでいくもんだと思ってたんだけどな」
「もう終わったことだよ。今更そこには戻れない」
僕は大学二年の夏、あるコンテストで入賞した。その後も独学で学びながら、作品作りに打ち込んでいた。しかし結局、ビギナーズラックで過剰な自信をつけてしまったことで、その後は鳴かず飛ばずだった。次第に、結果が出ない中でやり続けることへの不毛感が何となく億劫になってしまい、自分の中でやり切った感覚がないままその道を断念して就職した。夢の欠片はいつまで経っても欠片のままだった。その一方で彼は、昼夜を問わず執筆活動に没頭し、探求と試行錯誤を重ね、学生中にとある短編小説でデビューした。そのとき僕の心の片隅に、嫉みがなかったとは言い切れない。でも僕は彼を祝福した。
きっと彼は覚えていないだろうが、僕が会社員になってからも同じことを言ってくれた。そのとき、僕は現在の仕事に慣れてきたところで、日々のあらゆるタスクに忙殺されていた。仕事が落ち着いたらその内と思っている間に時は過ぎ、いつの間にかその夢を忘れてしまった。僕は、夢の実現のために努力せずに断念したことを今でも引きずっている。そのこととハリのない現状が相まって、僕の人生への焦燥感を突き動かしている。
僕と健人はしばらく無言で呑んでいた。特に険悪なムードだった訳では無い。僕は後に続く言葉が見つからなかったし、彼は僕が発する言葉を待ち続けていた。本当の友人とは、互いの間に流れる沈黙も共有することができるものなのかもしれない。無理やり隙間を埋めるための無駄な会話は必要無い。とは言え、長らく黙っている僕に業を煮やして、健人は口火を切った。
「ほら、よく言ってたろ? 歳を取っても『あの頃は…』なんていう大人にはなりたくない、って」
「このままいくとなりたくない大人になっちまうぞ」
「あの頃は…、ねえ」
二十代の頃は、酒を呑んで管を巻いて気休めにもならない一息をついていた。いつしかそれは何の意味もないことに気付く。そして管を巻くことにすら疲弊し、ただただ諦めを喉に流し込むようになっていくのだ。
「かと言って、今更昔の夢を追いかけ直す気にはならないんだよ」
僕は自分で発した言葉が、僕にとって真実であるかを再確認して続けた。
「じゃあ、これから何をやるのか。としたときに差し当たって何も思い当たらないんだ」
「それはちゃんと吟味できているのか? 刹那で思いついたことを取捨選択してるだけじゃなくて? 例えば現実的な柵(しがらみ)に捉われて、公平に比較できてないとか」
大人になって直ぐに答えを求めるようになった。目まぐるしく変わる状況に追われて余裕が無いからだ。それに、時間経過の体感速度が上がったことも影響しているだろう。大人は常に切迫している。ゆとりが無い。
「それはあるかもしれない」
「最終的な判断を下す上で、現実に抱えた問題を踏まえるってのは、俺たちの歳ならするべきだとは思うけど、最初の段階からそうしてたら選択の幅を狭めるだけじゃないか?」
健人は、僕の固くほつれて纏わり付いた霞の帯を解きほぐすかのようにこのお題に向き合ってくれていた。
「不満は無いんだよ、不満は」
「本当に?」
間髪入れず健人が問い掛けてきた。僕は迷いながらも、その問いに答えた。
「うん、勿論。本当に不満は無いんだ。会社の将来性には疑問符だけど、仕事自体は上手くいってない訳じゃ無い。それなりの評価もしてもらってる。それに結婚生活だって、どこにでもあるようなそれなりの問題は抱えているだろうけど、少なくとも僕は上手くいっていると思っているし、こうして悩んだときに相談できる友達だっている」
「でも、実際に鬱屈して葛藤してる訳だろ?」
健人も引き下がらなかった。
「まあね。確かに葛藤してると思うよ。ただ鬱屈というと大袈裟な気もしていて、不満や鬱屈の兆しになる歪みを抱えているってのが正確な表現に近いのかもしれない」
「それは自分の気持ちを誤魔化しているだけに聞こえるなあ」
健人は僕のその場凌ぎを見抜いているようだった。自分が選択してきた過程と比較して、何か思うところがあるのだろう。そして、僕は痛いところを突かれて切り返すことができなかった。僕は二十代の頃は、三十代なんて人生アガって残りの決められた時間を全うするだけなんだろうと思っていた。それが今やスタートアップ企業の経営者、俳優やミュージシャンなど、三十代に入って名を上げる人がたくさん出てきている。そんな情報に接すると、僕もまだまだチャンスがあるのではないかと、自分の行く末に希望という幻想を抱くことがある。しかし現実はそんなに甘くなく、僕の毎日は二十代の頃にイメージしていた三十代より過酷だった。人生アガることもできず、自分の天井が見えてきたにも関わらず、地道に疲弊を繰り返す日々だ。僕は観念して言った。
「誤魔化しね。そう言われると否定できないな。実際、こうして答えを出せずに悩んでいる訳で。それって、自分が答えだと思っていたことが本当に正しいのかって疑問を持ってる証拠だと思うよ。多分僕は、自分が納得して生きていく上での明確なイメージを作ることが出来なかったんだと思う」
健人は僕の言葉を咀嚼するようにビールを口に含んで喉を潤した後、新しい煙草に火を付けて言った。
「イメージね。確かにそうかもしれないな」
健人は更に続けた。
「ただイメージなんてものは、そうそう簡単にできるもんでも無いと思うけどね。簡単にイメージ出来る人もいれば、長い時間を掛けてイメージを作り上げる人もいる。いつの間にかイメージと出会う人もいる。人それぞれなんじゃないのかね」
僕も健人の言葉を咀嚼するように、ビールを喉に流し込んだ。
「健人は出会って、僕は出会えず。そして僕はイメージを作ることをしなかった」
「もうやめちゃったけどな」
実は、彼は小説家を廃業して現在は葬儀関連の仕事に就いている。健人はデビューした後、数冊の小説を刊行した。発表した作品のほぼ全てが初版止まりでも書き続けられたのは、何かしら目を惹くものがあったからではないかと思うが、彼は九冊目の小説を発表した際に廃業を決意した。何故キリ良く十冊目を出さなかったのか尋ねると、『そんなの単なる数字上のキリが良いだけで、もう自分の中でキリが良かった。これ以上のものを書けないと思ったからやめた』と、インタビューの教科書に載りそうな模範回答が返ってきた。本人は言わないが、実は家族の問題もあったようだ。兼業することもできたが、中途半端にやりたくないとの思いで、綺麗さっぱり小説家の道から足を洗った。彼は決断して成功しなかったが、後悔はしていないと言っていた。
「まあでも、きっかけがなかっただけ、ってことかもしれない」
健人は僕の回想を遮るように言った。
「まだ覚えてる? 俺たちは偶然友達になったんだよ」
「もちろん、覚えてるよ」
「あの時二人とも道に迷ってなかったら、今ここでこうしてることはないんだ」
「きっかけなんて、そんなもんだと思うよ」
「そうかもしれない」
僕は現在、明確に混沌という、よく分からない状態に突き動かされて現状を打破しようとしている。大人とは厄介なもので、曖昧なものには手を出しづらい生き物だ。概念は明確だが、衝動は混沌という渦を巻いて全身を駆け巡っている。混沌の渦に僕は雁字搦めになってしまい、足を踏み出すことができないでいる。
「ま、あとは何が必要かってことだな。きっかけはもう掴んだ訳だし」
「そうだね。そこが一番大事なんだけどね」
「それは言えてるな。じゃあ、結局明確な解を得られてないじゃないか。良かったのかよ、こんなんで?」
「今まで散々先に進まなかったんだから、今更足踏みしたところで大勢に影響はないさ」
健人との対話で答えは見つからなかったが、健人との対話によって、改めて自分の思考が整理されたことは確かだった。何が必要か。健人に礼を言った後、僕は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。健人はそれを横目に何か言いたそうな雰囲気を醸し出していたが、何も言わずただ煙草を吹かしていた。
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