第6話 アンニュイな僕と妻の一面

 自宅に着くと咲は夕飯を済ませており、彼女はビールを呑みながらノートパソコンに向き合っていた。僕は帰宅した事を告げ、そそくさとシャワーを浴びに浴室に向かった。呑みすぎたビールが、酔いのへどろとなって胃の中にこびりつき、僕はひどく気分が悪かった。出来ることなら今日一日のあらゆる事象ごと洗い流して、無かったことにしたかった。いつもより湯の勢いを強めてシャワーを浴びながら、僕は自分自身の濁りを絞り出していた。

 浴室から出てリビングに行くと、咲は引き続き仕事に取り組んでいた。何をやっているか覗き込んでみると、新商品のアイディアを練っているようだった。咲は日用品メーカー勤務で、あるブランドのマネージメントを担当している。その中で、販促活動はもちろんのこと、新たな商品の企画もミッションに含まれている。彼女の担当カテゴリーはシャンプーだ。どうやら、ブランドマネージャー対抗で新商品の企画コンペを行うらしい。

 咲は毎日の出来事を僕に聞かせたり、結婚相手としての適正さを茶化したりと、一見僕に依存しているように見えるが、そんなことは全くなく、とても自立した女性だ。日常生活からは、仕事の現場が想像できないくらい、オンとオフの差が天と地ほどある。彼女はデキる人間なのだ。一方で僕は、しがないスタートアップ企業で労働集約型ビジネスの企画をしている。既存のビジネスモデルの良いところを繋ぎ合わせて、新しいものに見えるようにドレスアップして世の中へとリリースする。同じ企画でも咲の仕事とは大違いだった。本来、商品企画は生活者のニーズと便益が強く意識されるもののはずだ。しかし、僕が携わっている業界ではユーザーのニーズや便益は知らんふりだ。とにかくパッと見新しそうに見えてキャッチーなものだけが求められる。そんなことをしていると、プロダクトライフサイクルはどんどん短くなり、自分で自分の首を絞める構造を作り上げてしまう。僕は、今この瞬間に頭の中で咲と僕の仕事を比較したことで、より一層気分が落ち込んだ。

 先ほど浴びたシャワーは、都合よく僕の酔いだけ洗い流してしまったようで、僕は酔い直すために冷蔵庫からよく冷えた国産のビールを取り出した。咲と向かい合うようにダイニングテーブルに座り、彼女の仕事ぶりを眺めながらビールを流し込んだ。しばらくすると咲は仕事の手を止め、顔を上げた。

「これ、どう思う?」

咲は僕の足音を聞きつけて、僕の姿を見ずに問い掛けてきた。新商品のコンセプトボードについての意見を求めているようだった。

「何というか、渾渾沌沌(こんこんとんとん)な気がするね」

コンセプトボードには、『ノンシリコンでクリーミーに洗い落とす。オーガニックな香りできれいさっぱり』と書かれてあった。

「あ、やっぱり。一応私の所感だけじゃなく、第三者の印象も拾っておこうと思って」

「また、新人の人が作ったの?」

「そ。論外ね、やり直し」

どうやら、咲は企画コンペの中で部下の教育も兼ねてコンセプトを作らせてみたらしい。

「こんなの適当な言葉を拾って繋ぎ合わせただけで、見掛け倒しにもならないわ」

僕は耳が痛かった。会社の人間にも聞かせてやりたかった。咲は若くしてブランドマネージャーに抜擢された気鋭の若手社員だ。今回も同じレイヤーの人間たちには負けられんと、息巻いている。彼女はいつも目の前のことに全力を注いで生きている。ペシミスティック気味な僕とは大分異なる生き方だ。

「あーもう。こんな全体のランキングなんかを鵜呑みにして…」

咲はダイニングテーブルにノートパソコンと生活者リサーチのレポートを広げ、方々と睨み合いをしながらぼやいていた。ノートパソコンには複数の画面が立ち上がっていて、企画コンペに提出する新商品の企画をまとめたパワーポイントの企画書や、担当するブランドの業績報告書などが映し出されていた。咲は咲で、僕にも打ち明けていない何かを抱えながら生きているのかもしれない。それでも彼女は、懸命に現在を生きている。一瞬、僕には彼女が光のように見えた。さしづめ現在の僕は、彼女が射した片隅に発生する影のようなものだ。それでは駄目だと僕は思った。僕自身の魂のようなものが消滅してしまう。僕は、本当の意味で自分の足で立ち、歩いていかなければならない。

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