第5話 Same As You And Me
「やあ。待たせちゃったかな」
後方から、先ほど電話越しに聞いた耳慣れない声がやってきた。振り返ると、それは見紛うことなく直樹だった。彼の声には不思議と存在感が無く、僕の脳内メモリーには、いつまで経ってもその声は記録されていなかった。その一方で、彼の出で立ちはほとんど変わっていなかった。相変わらず浮かない顔を前面に打ち出していて、冴えない中年男性街道一直線といったところだった。
「いや、今来たところだったよ」
僕は、ありのままを答えた。いつも直樹は、僕が待ち合わせ場所にやって来るのを物陰でこっそり覗きながら待ち構えていたのではないか、というくらい計ったようにちょうどのタイミングでやってくる。いつぞやか、一度だけ嘘ぶいて、しばらく待った素振りを見せてみたことがあった。以来、僕は何があっても直樹には今来たと言うことにしている。自分の価値を下げてまで謙る他人の姿を見るのは、あまり気分の良いものではない。
「さて、どこに入ろうか?」
直樹は会うなり僕に尋ねてきた。
「どこでもいいよ、適当なとこで」
僕は本当にどこでも良いと思っていた。この先の展開を熟知していたからだ。
「どこでもいいってのが一番困るんだよなあ」
僕の心持ちなど何も知らない直樹は、ぶつくさ呟きながら直樹は足を踏み出した。直樹の向かう先も、ほぼ見当がついていた。目指す場所が毎回同じだからだ。しばらくそのまま歩いて行くと、直樹は、舌が切れたのではないかというくらい大きく舌打ちした。目的の店が潰れていたのだ。店のシャッターは閉まっていて、申し訳程度の貼り紙に『長い間ご愛顧のほど、誠にありがとうございました』と書いてあった。僕たちが学生の頃から続いていたこじんまりした呑み屋は、時代の流れに逆らえず、その歴史に幕を閉じていた。
「んだよもぉ、せっかく来たのに」
こうなると長くなる。僕はそう確信し、彼に聞こえるように溜息をついた。そんなことはお構いなしに直樹は、通り沿いに並んだ店を物色しながら、どこに入るかを決めかねていた。
「んーここはなぁ。あそこもちょっとなぁ」
彼は目に付いた店全てに難癖をつけ、入店の意思決定を先送りにしていた。直樹が店選びに疲れを見せたタイミングを見計らって、僕は幾つかの店を提案した。
「そうだなぁ。けどなぁ。まぁ、あんまり気が乗らないけど入ってみるか」
直樹は悩ましい顔をしながら、渋々と提案のひとつに同意し、何処にでもありそうな居酒屋の暖簾をくぐって店に入った。僕もその後をついて入店した。直樹と合流してから三十分は経過していた。
「どうなのよ、最近?」
席に着くなり直樹は僕に尋ねてきた。
「そうだね。相変わらず平々凡々としてるかな。大きなことは起きず、小さなことも起きない訳でもなく。直樹君はどうなの?」
僕は偽らざる状況を伝えた。
「いいよなあ、平和な生活って。つくづく羨ましいよ」
彼は俯きながら、僕の日常への羨望と共に鬱屈を吐露し始めた。
「どうかしたの? 何かあった?」
予定調和のやり取りだと感じながら、僕はいつもの台詞をいつもより早めに切り出した。通常この会合は、本題に入る前に多少の与太話的なやり取りを交わす。しかし、僕は今日はそんな気になれなかった。いつものように直樹から提供される優越感を味わう気分にはなれなかったのだ。直樹と酒を酌み交わすとき、僕は彼の日頃の鬱積を受け止めながら、何の解決策にもならない同意という慰めを支払って解散する。その対価として、僕は彼より幾分マシな人生を送っているという優越感を享受する。それでこの会合は成立している。この会合は、僕が優越感を得るための儀式なのだ。しかし、今日はその儀式をこなす気分ではなかった。
僕が直樹の発言に食い気味で質問したことで、早速本題に入った。直樹は僕の反応に戸惑いの表情を見せたが、すぐに気を取り直して言った。
「いやあ、いつもの通りですよ。最近ね…」
と、自分の近況を語り出した。
そこから先は直樹の独演会で、彼は自分の心の内を語り続けた。僕は、彼のステージの幕が閉じるのを心待ちにしながら、ただひたすらビールを胃の中に流し込んでいた。僕は会話の中でタイミングがあれば、僕の抱える問題について切り出してみようと思っていたが、止めた。直樹は止めどなく喋り続けていたし、彼にこんな話をしても何の意味も無いと思ったからだ。
二時間ほど経過したが、彼はまだまだ話し足りていないようだった。彼が話している間、僕は自分の胃に注ぎ続けたビールは、どのようなプロセスで僕の胃まで到達するのかという命題について頭を捻らせていたおり、話の内容は半分くらいしか頭に入ってこなかった。それほど彼の講話はいつも通りで、とても退屈だった。話半分で聞いていた話の内容は、掻い摘むと次のようなことだった。自分が派遣されている企業での仕事が面白くない。その上で、社員から蔑んだような目で仕事を依頼されることがストレス。実家の両親は年金暮らしで余裕がなく、自分が少しでも援助してやらねばならない。だから自分のために金を使えない。そして、祖母の介護問題も若干拗れていて、自分がフォローしてやらねばならない。それもこれも就職氷河期世代で、就職がうまくいかなかったせいだ。といった話だった。直樹は大学は難なく卒業したが、正社員として就職できなかった。手に職をと考えている内に、ズルズルと年月を過ごしてきてしまった奴だ。彼の世代の境遇を思うと、確かに世代としての不遇さに同情の余地はあるが、彼に非がないかというとそうも思えなかった。それでも僕はいつも彼の話を聞きながら、うわべの同情を提供していた。
たまたま入ったこの店はそこそこ繁盛しているようで、店員は空いた食器をなかなか片付けに来なかった。そうこうする内に、僕の手元には空のジョッキが複数並んでいた。直樹の言葉の雨霰はまだ止みそうにもなかった。そろそろビールの味も分からなくなってきたので、ぼんやりした頭でこの話を良い塩梅に終幕させられるかを思い描いてみた。いくつかのシナリオパターンが浮かび上がったが、どれも不出来なエンディングで切り出すことができなかった。直樹はそんな僕の苦心など知る由もなく、延々とスピーチを続けている。直樹が何らかの話をしている途中で、僕は何度か右の掌を開いて前に差し出しながら締めの一言を切り出そうとしたが、それでも彼は止まらなかった。彼は終始俯き加減で語り続けていた。僕は、仕方なく追加でビールと枝豆を注文した。
直樹の終わりの無い話をBGMにして、僕は枝豆を口に運び、ビールで流し込むというルーティンをただひたすら繰り返していた。空いたジョッキは店員が片付けてしまったので、もう何杯呑んだか分からなかった。
「それでそいつがまた…」
直樹の話は、いつの間にか自分の境遇から同僚の不満に変わっていた。僕はそれに気付くと同時に、いつの間にか自分が枝豆の殻を縦横交互に重ねていくという作業に集中していることに気付いた。
「これはいつまで続くのだろう…」
僕は、積み上げては崩れを繰り返していた枝豆の殻を眺めてそう呟いた。突然話を遮られた直樹は、ぎょっとした表情を浮かべていた。
「え?」
「あ、いや独り言。続けて?」
僕は、直樹の話を中断させてしまったことに気付いて咄嗟にフォローした。本当はここで自分が用意したシナリオを展開すればよかったのだが、僕にはその度胸がなかった。自分の演説を予期せぬ形で遮断されてしまった直樹は、きまりが悪かったらしく話を締め括りに掛かった。
「まあ、そんなこんなであれですよ。もうどうしようもないってことですよ。何も変わらないね」
直樹は強い口調で、まるで決まり切ったことのように言い放った。僕は酔いが変な方向に回ってしまったことで、直樹の言い回しが癇に障って反論してしまった。
「本当にそうかな」
「は?」
予想だにしない反応が返ってきたことで、直樹はムッとして食って掛かって来た。僕は、どうせ理解してもらえてないと分かっていることをどこまで言うべきか迷った末、最小限の内容に留めた。
「いや、変わらないって断言できるほどの確証が揃っている訳じゃないんじゃないかな。という気がしただけなんだけどね」
直樹は黙り込んだ。両手はぎゅっと握りしめられていた。
「いやいや、何が言いたいの?」
直樹は噛み付くように反論してきた。
「人間は平等じゃない。この世は平等にできているように見せかけて、実は平等じゃないなんてこと誰でも知っている。流石にそれくらいは分かるだろ?」
彼は僕に唾を吐きかけるようにそう発した。僕は黙って頷いた。それを確認して直樹は続けた。
「だから無理なんだよ、自分の境遇を変えることなんて限られた人間にしか出来ないんだ」
僕は確証を持っていた訳ではないが、全くそうは思わなかった。そもそも、直樹の反論の中で出てきた『だから』が、順接の役割を担っていなかった。それに、直樹の現状に滞留して何も変えようとしない姿勢がどうしても気に入らなかった。この世界で絶対だと言い切れるものは限られている。
「もし何も変えられないことが確定していたら、僕らが出くわす分かれ道で委ねられる選択の権利自体が、必要の無いものになってしまう気がするけどね」
僕は必然論者でも偶然論者でもないので真偽の程は分からないが、自分を取り巻くある程度の事象の結果は、自分の選択によって変化すると思っている。だからある時点からの道を選択し直すこともできる筈なのだ。直樹は大きなため息をついて言った。
「そんなこと、そんなこと言われなくても分かってるし。でもこんなに忙しい毎日で、そんなことを考える余裕なんかある訳無いだろ」
「余裕は皆…」
そう言いかけたところで、僕は自分の発言を呑み込んだ。この辺りが潮時だった。彼は愚痴を言う自分に快感を覚えているだけだ。現状打破など求めていない。それに、感情論に正論をぶつけても、事態が好転しないことは明白だった。
「僕には明かくな解の持ち合わせはないけど、本当にそうかなって思っただけだよ」
それに、どう転んでも自分の意志と行動を以って何かを変える以外に手立ては無い。とは言わなかった。感情を逆撫でするだけだ。
二人の間に暫く沈黙が流れた。それから少しして彼は口を開いた。
「そうだね。確かに真野君の言う通りだわ。もうちょっと頑張って考えてみるよ」
何かを諦めたように上擦った声で僕に呼応し、彼はビールを追加した。彼は、不自然にスマートフォンの液晶を見て言った。
「大分時間経っちゃったね。これを飲んだら出よう」
最後に二人で呑んだビールは、気まずさが苦味を倍増させていた。そして僕らは、当たり障りのない会話と大人の社交辞令的なやり取りをして別れた。これまでの付き合いで記憶している直樹の性質を踏まえると、きっと彼は明日も今まで通り過ごすだろう。
帰る道すがら、僕は自分と直樹の現状を比較していた。環境の違いはあれど、僕も直樹も大して変わらないと思った。偉そうに彼に問い掛けたものの、僕も何か行動を起こしている訳では無い。そう思うと、直樹に対してとても申し訳ない気持ちになり、そんな偉そうな発言をした自分を恥じた。
「本質は何も変わらない、ということか」
僕は夜が更けた街の中で呟いた。そして、いつも味わう優越感ではなく、一際後味の悪い気分を抱いて帰宅した。軽やかな風と相反するように僕の足取りは重かった。
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