第3話 個人的な問題の提起
いつもより長い時間を浴室で過ごした後、僕は全然気乗りしないまま着替えて髪を乾かし、何の気持ちの整頓もしないままキッチンへ向かい、缶ビールのタブを開けた。
「やっぱり、何かあったんじゃないの?」
咲は、ビールを呑む僕を覗き込むように言った。僕は意表を突かれて、喉にビールを多めに注ぎ込んでしまってむせ返った。缶ビールのタブを開けた後の一口目の至福は、無残にも搔き消された。
「いや、何があったという訳ではないよ」
「じゃあ、どうしたの?」
咲は畳み掛けるように僕に質問してきた。僕は返答に窮した。ここ最近、咲は僕に猜疑心を抱いているようだった。このままいくと、咲に在らぬ疑いを持たれてすれ違いのきっかけを生み出してしまうかもしれない。僕は少しの間、どう伝えるか迷っていたが、咲に妙な誤解を与えることを避けたかったので、正直に打ち明けることにした。
「このままだと、僕は何もしないまま終わってしまう気がする」
「どういうこと?」
咲は僕の真意が汲み取れず、ダイレクトに聞き返した。
「このまま、僕はずるずると終わってしまいそうなんだ」
僕にはこれ以上言葉の持ち合わせが無かったので、ほとんど同じような意味合いの言葉を繰り返した。
「どうしたの? 急に」
僕の唐突な発言に、咲は目を丸くして僕を見つめていた。
「うまく言えないんだけど、このままだと僕はどんどん駄目になっていく気がするんだ。何かに備え続けたまま一生を終えてしまう」
僕は咲の反応を待った。僕は自分の心中をうまく伝えられただろうか。
「今の生活が不満なの?」
やはり咲には伝わっていなかった。僕は物事を順序立てて説明することが得意ではない。なので、自分が考えていることを相手に正確に伝えるために、自分の中で問題を咀嚼しながら言葉を選ばなくてはならない。
「そうじゃない。今の生活が不満ということではないよ」
「じゃあどういうことなの?」
咲は僕の考えがまとまる前に先を促してきた。咲は結論を急ぐ癖がある。
「僕はこれまで、いつか自分が何者かになれるとか、何か大きなものを手に入れることができるとか、そういう風に考えてきたのだけれど」
「今の生活以上に欲しいものがあるってこと?」
咲は僕が最後まで言い切る前に質問を被せてきた。冷静な口調で対応しているが、何か誤解しているのかもしれない。僕は慎重に言葉を選んで言った。
「違うよ。もう一度言うけど、生活が不満な訳じゃない。これはあくまで僕自身の問題なんだ」
咲は何かを言いたそうな顔をしていたが、何とか沈黙を守っていた。咲の反応を確認して僕は先を続けた。
「現代では、欲しいものはある程度手に入る。けど、自分が多大な時間を費やすことからは、案外思ってもいないものしか手に入れられないと思ったりするんだ」
「そうかしら?」
咲は不思議そうな顔をして言った。
「自分で主体的に何かを得たいと思って選択してきた人がどうかは分からないよ。ただ、僕のように目の前にあるものを何となく選択して生きてきてしまった人間には、そう思えてしまうんだよ」
「そうなの? あなたは、これまでそんなに何の考えもなく選択してきてしまったの?」
「そうさ」
僕は言った。
「これまで僕は、そんな風にそのとき都合のいいと思ったものをチョイスしてきたんだ。本当はそれを求めている訳では無いのに」
「これまであなたが得てきたものは、あなたの求めるものでは無かったということなの?私との生活も?」
咲は分からないといった表情で言った。
「これは、僕自身の問題なんだ」
僕は慎重な口調で答えた。そして、咲が感じ取っていたであろう僕の問題と、僕自身が抱える問題を切り分けた。
「誰かと一緒に手に入れるものに関しての問題ではないんだ。これはあくまで僕自身の、僕という個人が得るものについての問題なんだ」
咲は黙っていた。僕はもう少し説明を付け足すことにした。
「僕がこれまで得たものを挙げていくと多分キリがないのだけれど、咲との生活が不満だということじゃない」
「本当に? ではどういうことなの?」
「これは僕の個人的な問題なんだよ。僕個人がこれまで得てきたものは、咲の言う通り、僕の求めるものでは無かったんだと思う」
咲はまだ分からないといった表情を浮かべていた。
「うまく言えないけど、僕はまだ何も成し遂げていないってことなんだ。そして今のままでは、これから先もそうなりそうということ」
「本当に?」
「そうだね。少なくとも僕はそうだ。例えば、百ある選択肢の中で優先順位をつけたときに、少なくとも上位十位に入るものを、生きている間に幾つ手に入れることができるだろう?」
「分からないわ。ひとつかふたつかしら」
「では、上位二十位なら? 自分が欲しいと思ったリストを明確に作れたとしても、その中からいくつ手に入れられるか分からない。僕みたいに自分の指針を明確にできていない人間は、何かを手に入れたとしても欲しいものが手に入った気になっているだけで、実は何も獲得できていないのかもしれない」
そうして僕らは手の内で転がされている間に疲弊し、自らに与えられた時間を失っていく。それ以上を求めるなら、何かしらの犠牲を払わなくてはならない。僕は先を続けた。
「こんなことを言ったら、手に入れたくても手にすることができない人たちに後ろから刺されても文句は言えないよ。でも、おそらく僕みたいな平凡な人の多くは、こういったジレンマを抱えた経験があるんじゃないかな」
「じゃあ、自分がしたいように生きてみればいいじゃない」
「じゃあ明日からそうします。と言ってそんなに簡単にできるものじゃないんだよ」
「じゃあどうしたいと言うの?」
咲はその先のプランを尋ねてきた。僕は答えを出せず口籠った。この手の話は、それがないとただの世迷い言で終わってしまう。とはいえ、僕にはまだその先のアイディアは何も思い付いていなかった。
「いや、具体的に何をどうしていくか、この先どうしていきたいのかということはまだ決められてないよ。ただ、不自由のない普通の現状に対して、このままでいいのかなっていう何かにずっと苛まれてるんだよ」
結局、自分の手で何かを変える以外に手立てはない。しかし、しがらみの中で毎日を生きている内に、どうしても何かを始めるには腰が重くなってしまう。そうした意志の弱さと共に、僕はこれまでの人生を歩んできた。
「もう一回聞くけど、今の生活が不満とか、この生活をやめたいとか、そういうことではないのね?」
咲は念押しのように言った。
「勿論。繰り返すけど、これは僕自身の問題なんだ」
僕は言った。
「分かった。それはあなたの問題だからしっかり考えた方がいいと思うけど」
「けど?」
「二人で暮らしてるってことは忘れないでね」
僕は頷いた。
「歳相応に年を取れないってのは面倒なもんだよね。良い歳して自分自身に明確なイメージが持てないなんてさ」
「私は、そもそも歳相応とか良い歳って何?って思うけどね」
と言って咲ははにかんだ。僕たちはその後互いにビールを一缶ずつ呑んで、僕たちは眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます