第2話 無味乾燥な日常のループ

 そうこうしている内に、僕はマンションのエントランスに辿り着いてしまった。避けようともがいたところで、時間は容赦なく次の場面に僕を進めていく。僕は、状況に抗おうとせずに諦めて、ぼんやりとマンションのエントランスを通り抜け、漠然と玄関の鍵を開けた。

「ただいま」

玄関先に咲の靴が綺麗に置かれていたのを見届けて、僕は家の中に声を掛けた。やはり、咲の方が帰りは早かった。咲はいつも僕より帰りが早い。そして、僕よりも稼ぎが良い。労働の価値の差かもしれないが、僕と妻はそれだけ市場価値に差があるということだ。

 靴を脱いで荷物を置き、浮かない顔でリビングに向かっていくと、咲は夕食の支度を進めているところだった。

「おかえり。今日は早かったね。いつもはもっと遅いのに」

「うん。今日は夕方外出があったから、外で仕事してそのまま帰ってきた」

普段通りのやり取りを交わした後、咲は僕の様相を訝しげに眺めていた。僕は構わずシャワーを浴びに浴室へと向かった。そしてシャワーを浴びながら、身体にまとわりついた汗と一緒に、今日一日の雑念も洗い流していくイメージを繰り返した。

 浴室から出て着替えてからリビングに歩いて行くと、食卓にはご飯と味噌汁、週末に二人で作り置いていたおかずと簡単に作られたサラダが並び、同じ種類で柄の違う箸置きに黒地の箸と赤地の箸が添えられていた。

「じゃあ食べますか」

咲が声を掛け、僕たちは食卓に座し、夕食をとり始めた。我が家の食卓では、主に咲が話を展開する。それに対して僕は相槌を打ちながら、時折自分の意見を添える。

「…でさあ、さっきの件なんだけどね」

「ん? 何の話だっけ?」

「もう、今話してたじゃん。聞いてないのに返事してたわけ?」

「え、いやそういう訳じゃないんだけど考え事してたから忘れちゃった。もっかいお願い」

「あーもう。結婚相手を間違えたか」

というようなやり取りが、我が家のやり取りの基本パターンだ。咲の捨て台詞は、事あるごとに僕に投げつけてくるお約束のようなものだ。こうして僕たちは、連続する今日を締め括る。

 程度の差はあれども、大体の家庭はこのようにして日々を積み重ねているのではないかと思う。特に大きな問題のない平々凡々とした日常。きっと、これが幸福、という状態。しかし人間は欲張りなもので、これが一定期間続くと、退屈な気分や変化のない自分に焦燥が生まれ、この状態に満足できなくなってくる。

「何かあったの?」

「どうしてそんなことを聞くの?」

「さっき何かあったような表情だったから」

比較的勘の鋭い方に部類する咲は、僕が隙を見せた途端に切り込んできた。虚を突かれた僕は、何と切り返そうか迷っていた。すかさず咲は畳み掛けてくる。

「どうせまた下らないことでも考えてたんでしょ?」

「そんなこと考える暇があるんだったら、今度の休日に二人でどこに行くかとか、そういう建設的なこと考えてよね」

まだ一言も発していないのに僕の考えは一蹴されてしまった。下らない考え。まあ僕の考えていることは、きっと下らない域を超えていないだろう。そんなこんなで、僕は毎日を過ごす上でこれといったボトルネックのない状況の中、アンニュイな気分に覆われて自分の生命を持て余している。

 咲との他愛のないやり取りで、僕のもやもやはうやむやになり、次の日も、またその次の日も、僕は何事もない普通の日々を送った。先日刹那の間、僕の頭を悩ませた葛藤の種は、それから芽を出すこともなく、種のまま思考の奥深くに眠っていた。その内、また芽が出る兆しだけが顔を覗かせては消えを繰り返して、日常を乗り越えていくのだろう。僕はそう高を括りながら毎日仕事をし、家に帰り、妻と会話をして眠りにつくという、どこがゴールだかよく分からないプロセスを踏み続けていた。そして今日も、昨日と同じプロセスを辿って帰路に着いた。

 またあっという間に玄関の扉の前に辿り着いてしまった。玄関側の小窓が開いており、耳を澄ますと微かな生活音が聴こえてきた。どうやら、今日も咲の方が帰りが早いようだった。これから僕は咲と他愛の無い話をし、ゴールのない明日に備えるための眠りにつく。明日も。明後日も。そのまた次の日も。僕は玄関の扉を開けることを躊躇っていた。この扉を開けることで、僕は無味乾燥な日常の無限ループから逃れられなくなっていく気がする。

 結局、僕は玄関の扉を開けて自宅の敷居を跨いだ。僕はこの生活を堪え難いと思っている訳では無い。ただ、時折自分自身への鬱屈が抱えきれなくなっているだけだ。

「おかえり」

今日は、咲の方が先に声を掛けてきた。彼女はキッチンから顔を覗かせ、僕の顔色を窺っていた。今日も怪訝な表情の咲をやり過ごし、僕は浴室へ向かった。

 シャワーを浴びながら、僕は考えこんでいた。この先、僕は何をしていきたいのか。考え出すと、いつも理想と現実がぐるぐると回り、結局何がしたいのか分からなくなってしまう。もしかすると、本当の理想は別の手の届かないところに置かれていて、現実的に手に入れられる可能性があるものを理想として考えているからなのかもしれない。結果、そうしたときに僕は配られたカードの中で比較的目新しいものを選択し、しばらくするとまた同じような壁にぶつかって苦しむ。ただこれを繰り返しているだけだ。そりゃそうだと僕は思った。絶対にやり遂げたいと思わないゲームを始めたところで、その気になってやり続けられるもんじゃない。僕自身の選択の目的が、生き延びるためとリスク回避に特化しすぎている気がした。本当はそれを求めている訳では無いのに、当座の生活を維持するための選択を繰り返す。僕は何のために生まれてきたのだろう。僕たちの大半は、一生何かに備えて生きていく。消極的だ。これがあと何十年も続くかと思うと、何と恐ろしいことだろう。その中で、自分の意思で闘えない者は生き方を選ぶこともできず、だらだらと漂流するように生きるしかない。そして、気の遠くなるような遥かな時間にもかかわらず、その体感速度はあまりにも速い。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。僕が俯いている間に、毎日は僕を突き抜けるように通り過ぎていく。漫然と降り注ぐ苦悩のシャワーの中で、そんな二束三文にもならない問答を繰り返していた。

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