So Many Ordinary People, Ordinary Days
相沢光里
第1話 渇きを癒さないアイスコーヒー
何杯目かのアイスコーヒーを呑み干して、僕は自分の腹と喉を交互に摩った。僕の腹の中では、アイスコーヒーの波がしきりに打ち寄せてきて、たぷたぷと腹を揺らしている。その氾濫した腹とは対照的に、僕の喉は渇ききっていて、まだ幾分もの水分を欲していた。
僕は、気を紛らわすために店内を見渡した。大学生くらいの年頃の女の子が猫のように座っていた。女の子はイヤフォンで耳を塞ぎながら、小さなタブレットに顔を擦りつけて何かと見つめ合っている。左の方に視線を移すと、女の子から二つほど席を空けて、大学生らしき男の子が激しい猫背でスマートフォンに齧り付き、液晶を睨みつけていた。ここがまるで自分の部屋にいるかのような崩れた体勢、仕草で、一心不乱に液晶画面をタップしている。彼の頭の中では、刹那的な快感と興奮の渦がぐるぐると脳中を駆け巡っているようだった。彼の左目は若干血走っていて、左手で充血した箇所を擦っていた。彼は生理的現象に無意識に反応しつつも、意識はスマートフォンの中に傾注させていた。その隣では、これといった特徴のない老夫婦が、スマートフォンに埋没した若者を尻目に不思議そうな顔をしながらティータイムを嗜んでいた。
翻って別の方角を向くと、所々皺が寄ってくたびれたスーツ姿の会社員らしき男が、両手に収まりそうな小さなノートパソコンを睨みつけて指をキーボードに叩きつけていた。おそらく僕と同世代だろう。歳の割に陰が濃く深い皺が、彼の顔に年季を刻み付けていた。彼は、その身に纏ったスーツ以上に疲労困憊に見えた。彼も僕と同じように、無為に時をやり過ごし、そのまま社会の歯車に組み込まれていったのかもしれない。
店内では、店の雰囲気とはそぐわないムーディなブルーズが延々と流れていた。そのせいで、店内は異様な静寂と気怠さに包まれている。選曲したのは誰なんだろう。まるで、自己顕示欲に支配された建築家が、自分の素質を越えて空間をコーディネートした際に起こる、気味の悪いデコレーションを見せられているかのようだった。
今日は社外で打ち合わせを終えた後、そのまま出先で残務を片付けて直帰すると会社に伝えてある。しかし作業もそこそこに、僕は取りとめもなくこの先の自分の身を案じていた。と言っても、火急の事態に身を置いている訳ではない。僕は、特に日々の生活に不自由していない。大学を出て就職もした。仕事は大して面白くも無いし、毎日のように帰りも遅いが、それなりにはやれている。会社からもそれなりに評価はされていると思う。そして結婚し、マンションも購入した。『一般的な成人の幸せな家庭生活』というカテゴリーにおいて、備わってないものが何か、強いて挙げるとすると、たぶん子供と車くらいだと思う。この先必要なものが全て揃っているかというと否だが、かといってどこか不具合がある訳でもない。この憂いは、もはや贅沢や我儘でしかない。俯瞰してみれば、鬱屈の欠片が散らばっている程度の他愛のない状態だ。現状は最悪ではないが、最高でもない。かといって僕にとっては、まあまあとか、可もなく不可もなくといった無難な状況ではない。
僕は、アイスコーヒーの乗ったトレーを返却スペースに片付けて店を後にした。店の外では、夏のすべてを溶かしてしまうようなぎらぎらとした空が幅をきかせていた。僕は、さらなる渇きを喉に感じつつ、腹の中のコーヒーが気化していくイメージをしながら、とぼとぼと自宅への道を歩き出した。
僕はぼんやりと自宅への路地を歩きながら、すんなりと家に帰りたくない自分がいることに気付いた。そんな気分を誤魔化すように、僕は商店街に立ち並ぶ店を鑑賞していた。
街は一日の喧騒をやり過ごし、夜の装いに切り替わりつつあった。喧騒といっても大袈裟なものではない。この街に住むそれほど多くない人々の消費活動が、小さな店が寄り集まってできた商店街に引き起こした一瞬の渦のようなものだ。いつ創業したかわからない弁当屋の店先では、売れ残った惣菜や弁当が誰かに懇願するように並べられている。その向かいでは、最近乱立されて生存競争に追われるクリーニング店が一日の活動を終えて、店仕舞いを待っている。空き地を隔てた区画には、いつ閉店するか分からない古びたパチンコ店、どこも同じような面構えの殺風景な飲食店、隣接する大型スーパーに呑み込まれそうな小さな食材店が寄り添うように立ち並んでいる。このどこにでもありそうな商店街は、いつもと同じ一日を移ろいでいる。惰性で日々を漂流する僕と同じだ。皆、僕と同じように体躯の奥底に影を抱えているのだろうか。ある意味ではきっとそうなのだろう。光があれば影ができる。そもそも憂いという言葉がこの世に存在している時点で、誰しもが何かしらのしこりや柵(しがらみ)を抱えて生きている。自分だけがそうなっている訳が無い。
「僕は誰なんだろう」
誰にも聞こえないように呟いてみた。答えるまでも無い。僕は僕だ。それ以外の何者でもない。しかし、この呟きはそういう意味では無い。僕は数多の人が考えるのと同じように、自分が他人とは少しだけ異なる人物だと思って生きてきた。しかしその思いとは裏腹に、僕もまた多くの人と同じように普通の人だった。普通と言うと、その定義によって意味するものも変わってくるかもしれないが、要は、僕は何かを成し遂げた訳でも、大きなものを手に入れた人間でもないということだ。
また今日も答えの出ない自問自答を繰り返してしまった。答えの無い問いに時間を費やすことほど無駄なことは無い。何故なら答えが無いからだ。問いは永遠に続く。真面目に付き合っていたらキリがないと思う。しかし、僕はこの自問自答を止めることができなかった。それはきっと、僕がこの現状に満たされていないからだろう。僕はこの先どうなっていくのだろう。この何とも無い日々の中で。日々何となく疲弊して、その代償に得た小さな幸せを積み重ねて、何者でもなく生命を全うするのだろうか。
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