第6話 幽霊は眠らない
私が駅で災難に遭った日の晩、トイレに起きて私がそれを済ますと、どこからか誰かがぶつぶつ喋る声が聴こえてきた。
え…?これ、家の中から聴こえる!
私はそれに気づいて怖くなり、「でも時彦さんかもしれないから」と自分を安心させようとして、とりあえず深呼吸をした。
ぶつぶつと何かをつぶやく声はまだ聴こえている。どうやらキッチンからみたい。ダイニングキッチンのドアに近づいてみると、時彦さんの低い声がしたので、ちょっとほっとした。
「幽霊かと思ったけど、知り合いの幽霊だったからほっとした」って…よく考えたらわけがわからないかも。
まあいいや。だって時彦さんは優しい幽霊だもん!
私はドアを開けて様子を見ようと思った。でも、時彦さんの低く唸るようなつぶやきは、どこかとても真剣味を帯びている。
何をずっとぶつぶつ言ってるんだろう。困りごとでもあるのかな。やっぱり自分のことが何もわからないのが不安なんじゃ…。
そう思った私は、ドアの摺りガラスから離れて、端っこの木枠に耳をつける。
立ち聞きなんて良くないけど、夜中にこんなの、変だもの。
しばらくして、明瞭に声が聴こえてくるようになった。
「…いや、でも喋ってた感じ、最近って感じだったし、俺かな…わかんないけど、でも、初めて会った時、いや…でも、だとすれば…」
なんだろう?なんのことを喋ってるの?
私は、重心もなくふらふらとさまようような時彦さんの言葉の意味が掴めなくて、もう少し耳を押し当ててみようとした。
ちょっとつぶやきは止んだかな。それにしても、やっぱり時彦さんも一人きりの時は、自分のこと「俺」って呼ぶんだ…。いいもの聴いちゃったかも。いや、こんなのよくないことだけど!
そう思っていると、キッチンのドアがガチャリと音を立てて私の耳からすぐに離れる。驚いて慌てて顔を上げると、いつの間にか時彦さんがドアの前に立って私を見下ろしていた。
その時の時彦さんの顔は、私を冷たく刺すように強張っていて、しばらく無言で私たちは向かい合っていた。
私は時彦さんと初めて会った時を思い出したように、ちょっと怖くなる。だからすぐに謝った。
「ご、ごめんなさいこんなことして!その、なんか悩んでるみたいに聞こえて、心配で…ごめんなさい!」
頭を下げてそう謝ると、ちょっと軽いため息が聴こえてきた。
「顔上げて。怒ったわけでもないし。焦りはしたけどね」
時彦さんは元の優しい調子で喋ってくれた。
「えっ、焦る?何をですか?」
もしかして、私が全部聴いてたって思ってるのかな?でも、私は少ししか聴いてないから、何もわからなかったし…。
「いや、なんでもないよ」
そう言って時彦さんは私から離れて、テーブルの前にもう一度座る。
「明日も学校でしょ。寝なさい」
時彦さんの顔には切羽詰まったような表情はなく、リラックスしているように見えた。
悩みごと…じゃ、なかったのかな?
私はとにかく、「何も知らない」というのは伝えないと!と思って、こう言った。
「あの、大丈夫です!ほんとにちょっとしか聴いてなかったから、「最近になってからだから」とか、「初めて会った時」とかしか聴こえませんでした!だから、私…えっと…なんのことかわかってないです!立ち聞きしてごめんなさい!」
もう一度頭を下げてから顔を上げると、時彦さんはうつむいて顔を両手で覆っていた。
「どうしたんですか…?」
「いや、大丈夫。本当に大丈夫だから、もう寝なさい」
顔に手をくっつけたまま、時彦さんは首を振ってそう言った。
仕方なく私は自分の部屋に帰ったけど、大丈夫かな、なんかちょっと心配だな、という思いが残った。
ある日の暮れ方、部活で遅くなってしまった私は、夜道を家まで歩いていた。
ローカル線の駅は家のすぐ近くだし、10分も歩けば着くからと、私はスマートフォンを取り出して、メールを読んでいた。それはお父さんからの久しぶりのメールだった。
“雪乃、元気ですか。
お父さんとお母さんは仕事が上手く行き始めて、そろそろ軌道に乗ったから、もしかしたら帰るのが早まるかもしれないよ。
まだ一度も日本に帰ることができていなかったけど、今度の日曜日に一泊だけ家に帰れることになったので、その日を楽しみにしていてね。
じゃあ、何かあったら必ず言うんだよ。”
「えっ!?」
思わず私は道端でそう叫んでしまった。
どうしよう。お父さんとお母さんが帰ってきちゃう!時彦さんのこと、どうしたらいいの!?
ろくに考えは浮かばないまま、私は急いで家まで歩いた。
「おかえり」
「…ただいま」
もう最近は慣れっこになった朝晩の挨拶だけど、私はその時ちょっと緊張していた。それに気づいたのか、時彦さんが首をかしげる。
「どうしたの?」
「えっと…ちょっと、あとでお話が、あります…」
「えっ、うん…」
私が言ったことに時彦さんはなぜかすごくドキッとしたようで、肩を跳ねさせた。
「時彦さんこそ、どうしたの?」
「い、いや、なんでもない…」
歯切れの悪い言い方で玄関を上がった私についてきて、時彦さんも私も、とにかくはリビングにあるソファに座った。
向かい合わせになったソファは私のほうが二人がけ、時彦さんのは一人がけ。なぜか時彦さんはおどおどしながらそこに座った。
本当に、どうしたんだろう。なんだかすごく緊張してるみたい。髪が長いから、顔色はよくわからないけど…。
「えーっと、その…大丈夫?」
すると時彦さんはぴんと背筋を立てて、急に大きな声で叫んだ。
「大丈夫!なんでもない!」
絶対に何かある様子の彼も気になったけど、私はとにかく用件を話そうと思った。
ちょっと言いにくいなあ。だって、思いついた方法、一つしかないのに、時彦さんがちょっとかわいそうなんだもん…。
でも、仕方ない。「祓われるなんて縁起でもない」んだし、お父さんたちに知られるわけにいかないもんね。
「…あのね、来週の日曜日、お父さんとお母さんが一泊だけ帰ってくるって言うんです。だから…その、その日だけは、私、時彦さんとは話せません。ごめんなさい」
私がそう言うと、時彦さんは驚いたけど、すぐに笑った。
「なんだ、そういうことか。なんか…、えっと、すごく重大なことかと思った」
どこかほっとしたようにも見える様子の時彦さんに、私も驚いた。なんだかまるで、考えていたこととは見当が違って安心してるみたい。
でも、それ以上何も言いたがらない時彦さんには、それを突っ込んで聞くことはできなかった。
とりあえず私は、もう一度謝ってからお願いして、ごはんの前に着替えようと、自分の部屋に向かった。
Continue.
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