第3話 できない恋
それから数日、“茅野時彦”さんと言った幽霊さんは、出てきてくれなかった。
私は、初対面の時に私があまりにも図々しかったから、嫌われちゃったかなと思った。それでずいぶん悩んだけど、ある日の朝、時彦さんはもう一度姿を現してくれた。
私はその朝、朝食を作り終えて、先にフライパンだけを洗おうと思った。
このあとは学校にすぐに行かなくちゃいけないから、急ごう。
そう思ってキッチンペーパーを一枚破り取って、私はフライパンの柄を掴もうとした。でも、予測に反してフライパンはふよふよと浮き上がった。
「えっ…!?」
私は思いもよらない、というか、ありえない現象に、ただ見ているしかできなかった。
フライパンは隣のコンロに着地して、その前にすうっと時彦さんの姿が透かし絵のように現れる。
時彦さんは朝の日光を返さずに、影もなく立っていた。彼はそんな、どこか悲しげに見える様子で、ふふっと笑った。
「フライパンは冷めてから洗わないと、火傷するよ」
その言葉に私は胸が高鳴り、それが恥ずかしいので、ちょっとうつむいてしまった。
それに、久しぶりの対面なのに私はパジャマ姿だったし、髪も梳かしてない。
こんな姿、見られちゃうのは恥ずかしいけど、なんかその分嬉しいような気もする…。
「ありがとうございます…」
私の声は小さくなってしまったけど、きちんと目を見てお礼が言えた。時彦さんはそれで満足そうに頷いて、すぐにまた消えてしまった。
「あっ…」
私はしばらく拍子抜けしたように立っていたけど、また洗い物に戻って、フライパンは最後に洗った。
それから時々、私がスマートフォンをいじってばかりだったり、課題を放ったらかしにしていたりすると、時彦さんが現れるようになった。
「こら。明日は宿題の提出日じゃないの?」
その声に顔を上げると、私の横には、あぐらをかいた時彦さんが居た。
私は自室の窓際にあるベッドに寝転んで、スマホをいじっていたところ。ベッド横の床に時彦さんは座り込んで、どこか挑戦的な目で私を見つめる。
びっくりした…。時彦さん、急に部屋に現れるんだもん…。しかも、ベッドの隣なんて、そんなに近くに!
私はうつむいて、顔の熱さが消えるまで頑張った。それから、なるべく無愛想に聴こえるように「はーい」と返事を伸ばしてから、ベッドを降りる。
「終わるまで見ててあげるから、頑張りなよ」
机の前に腰掛けた時、後ろからそう聴こえてきて、私はまたドキドキするのが止まらなくなってしまった。
時彦さんって…優しい。
それが嬉しくて、その優しさをもらえるのが嬉しくて、私はしばらくときめいたままで勉強していた。
でも、初めは怖がってたのに、どうして私が優しくしてもらえるのかな。きっと、元々誰にでも優しい、だけだよね…。
それから、たまに時彦さんと話をするようにもなった。とは言っても、世間話みたいなものだけど。
それは私が初めて時彦さんのことを聞いた時。
「時彦さんって…あ!あの、ごめんなさい、馴れ馴れしい呼び方して…」
やばい。いつも心の中では勝手に「時彦さん」って呼んでたから…。
「別にいいよ。名字で呼ばれても気まずいし」
「あ、ありがとうございます。それで、時彦さんって、この辺に住んでたんですか?それともこの家が建っていた場所、とか…。あの、嫌だったら、答えなくて全然大丈夫なので…」
私は途中からしどろもどろになってしまったけど、時彦さんはうんうんと頷きながら聞いて、それからこう答えた。
「いや、実は、何もわからない」
それは、あまりにもあっさりした言い方だった。
えっ?どういうこと?
「何もって、でも、名前とかは…」
私は自室のベッドから身を乗り出して、勉強机の椅子に座った時彦さんにもう一度聞く。
「何がわからないんですか?」
時彦さんは「こまったぞ」といったように顔をしかめて、下を向いた。
「いや…どこで生まれたとか、どこに住んでたとか、なんで死んだみたいな…そういう記憶はなくてさ…。だから僕は誰にも害は与えない」
下を向いたまま、まだ考えてる途中のように時彦さんはそう言った。
え、でもあなた、初めて会った時、思いっきり私をおどかしましたよね…。
そう思ったけど、なんとなく私はそれは言えなかった。それに、そのおかげで時彦さんに会えたんだし。
でも。そんなになんにも分からないんじゃ、不安じゃないのかな…。
「あの…でも、知りたいなって、思わないんですか…?」
私がそう言うと、時彦さんは大きく胸を反らせてちょっと腕を組み、「うーん」と唸る。でも、その顔は不安そうじゃなかった。
「そうねえ。わかったらいいのかもしれないけど、探したり調べる方法もなかなか思いつかないし…まあ、人が死ぬ理由にいいものなんてあるかわからないし、自分のものならなおさらね…。それならそれなりに、幽霊としての人生も楽しめるかなって」
そっか…考えてみれば、そうかも…。
…ん?ちょっと待って。じゃあもしかして…。
「あの…、じゃあ私があの時におどかされたのって…」
私が控えめにそう切り出すと、時彦さんは申し訳なさそうに笑って、長い髪の間から薄い頬を掻いた。
「ごめんなさい。ちょっと、興味本位で…」
へへへと笑いながら時彦さんがそんなことを言うもんだから、あの時死ぬほど驚かされた私は、彼を控えめにらみつける。
「もう。本当に怖かったんですからね」
「ごめん。もうしない」
私たちはそんな話をして、くすくす笑い合ってから、その晩私は眠った。私が眠ってしまう前に時彦さんは部屋を出ていったけど、その時彼はこう言った。
「あんまり女の子の部屋に長居しても悪いし、もう寝るでしょ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
時彦さんは優しい。それに、すごく控えめで、礼儀正しくて…。
そんなふうに彼を少しずつ知ることができて、嬉しくて、私は家に帰るのがいつも楽しみでしかたなかった。
「ねえねえ雪乃。最近帰りはいつも一人で早く帰っちゃうし、もしかして彼氏とかできた?」
「えっ…」
急に前の席に友だちの舞依が座って、出し抜けにそんなことを言ってきた。それも、けっこう大きな声で。
私はもちろん時彦さんのことを思い出した。でも、彼氏じゃないし!
「でっ、できてないよ!全然!」
すると舞依はにやにや笑いながら私を指さして、くるりくるりと指を回した。
「あやしー。隠してないだろうなー?」
「隠してない!何も隠してないよ!」
私は慌てて両手を振った。
「でも好きな人はいるもんねー」
「まあ…って!いないってそんなの!」
私は、不意に舞依が言ったことに、思わず素直に答えてしまった。
「あー、やっぱり好きな人はいるんだ。へへ、どんな人なの?」
舞依はほとんど騙し討ちとも言える方法で聞き出したことを、さらに掘り下げようとする。
「もう!いないってば!」
「だってさっき「まあ」って言ったじゃん。ねえねえどんな人?どこのクラス?」
そこで私ははっと正気に返る。
時彦さんって、そういえば「幽霊」、よね…。それを好きになったなんて言ったらきっと心配されるし、それに、叶うはずがないのも、私だってわかってる…。
「どしたの?うまくいきそうにないの?彼女いる人とか?」
私がちょっと落ち込んでたことに舞依は気づいたのか、なぐさめるように声を掛けてくれた。
「ん、なんでもない。ほんとに、いないから…」
私のただならぬ雰囲気に舞依は何かを察したのか、「わかった。なんかあったら言ってね」と言ってくれた。
叶うはずないって、わかってる。ちゃんとわかってるから、大丈夫。
Continue.
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