第2話 自己紹介しましょう






「消えちゃった…」


私はトイレから一歩踏み出した姿勢のまま固まっていたけど、その場でふーむと考え込んで下を向く。


えっ…すごいかっこよかったよね?今の、幽霊?さん…。


背も高いし、髪が長くて細かいところまでは見えなかったけど、鼻が高くて、目がぱっちりして、ちょっと彫りがはっきりして…。


それに、消えそう!と思って全身を見た時、かなりスタイルいいのわかったし…。


どうしよう。なんか頭から離れなくなっちゃった…。


私はその時、自分の頬がかっかと火照って、胸がときんときんと鼓動を打つのがわかった。



待ってよ…幽霊に一目惚れしちゃった!



「えーどうしよう。どうしよう…」


とりあえず、トイレの扉を閉めるということで正気を取り戻そうとした。けど、無駄だったみたい。


廊下に出て、物音一つしない家の中に、彼が立てたのだろう「カチャン」という音を探してしまう。廊下を見渡して、彼の影がないか探してしまう。


どんな人なのかな。たとえ幽霊でも、お話くらいしてみたい…。


私の頭はもうそれしか考えられなくなっていた。さっき台所から戻る時に恐ろしくてたまらなかったこと、トイレのドアを開けた時にどんなに驚いたのかなんて、忘れていた。


「あ、あの…幽霊さん…?いますか…?」


そう言ってから思ったけど、「幽霊さん」と呼んでいいのかな。それって私が「人間さん」と呼ばれるようなものじゃない?あ、でも幽霊も元は人間だよね…?


まあいいや。とりあえず、家の中を探してみよう!多分この家に取り憑いてるんだろうし!



そんなこんなで私は、恋する幽霊めがけて、家の中を回ってみることにした。










「なんでいないの…」


キッチンを探すのは、かれこれ四度目だ。私は執念深さが売り。その執念で羽を一本ずつ描いたフクロウの絵で、小学生の時に銅賞をもらったんだから!


いやいや、懐かしい思い出話なんかしてる場合じゃない。


キッチンを探すといっても、彼は小さな子どもなんかじゃないし、扉を開ければすぐに全体が見渡せる中、見えないということは居ないのだ。


キッチンも、私の部屋も、両親の寝室も、トイレもお風呂もリビングもクローゼットも、ぜーんぶ探した。何回も。


「うーん、もう一回呼んでみようかな…」


声を出して呼ぶのはこれで五回目。


こうなりゃやけだ。叫んじゃおう!



「幽霊さーん!何もしないから出てきてー!」


「ひいっ!」


私の後ろで、高い声が上ずるのが聴こえた。ちょっと、いや、かなりびっくりした。


振り向くと、さっきの幽霊さんが片手で口元を押さえて立っていた。


うん。やっぱりちょっと怖いのは怖い。だって、体の下半分は半透明で、足はない。本当に幽霊って足がないのね。なんでだろう。


でもやっぱり…かっこいいなあ。私はそう思って、幽霊さんに慎重に歩み寄った。


「えっ…」


幽霊さんは驚いているのか、そんな声を出してから、一歩後ずさった。


私はちょっと緊張していたし、真剣だったから、顔も怖かったかもしれない。そう思って笑ってみる。


「大丈夫ですよ。本当に何もしません。祓ったりもしないです」


私がそう言うと、幽霊さんは途端に震え上がって、こう叫んだ。


「祓うだなんて、縁起でもない!」



…そっか。こっちとあっちじゃ、価値観は正反対…なのかな?そうだよね。祓われたら幽霊さんはこの世からいなくなっちゃうんだし…。


私たち生きてる人間からすれば、多分、「幽霊が身近にいること」の方が、「縁起でもない」のうちに入りそうな気がするけど。


「うんうん、祓わない祓わない。だから、ここに座って」


「なんで!?」


私が指さしたすぐそばのキッチンテーブルの椅子には、彼は座ってくれなかった。その代わりに私を見つめて、さも怖そうに肩を縮み上がらせる。


「ねえ、なんで君怖がらないの?それに、どうして僕を呼ぶの…?怖い…!」


“怖い”。それはおよそ幽霊が口にする言葉とは思えない。恐怖の対象が恐怖するっていう想像がつかない。


でも幽霊さんは確かに私を怖がっている。このままじゃ、話なんかできないなあ。


理由を説明すれば怖がらなくなるかもしれないけど、それって…。


好きって、伝えるってことだよね。



早い早い早い!それはまだ早いよ!だって自己紹介もしてないのに!



そうだ。自己紹介に入っちゃえば、気にしなくなってくれるんじゃないかな…?


私はそう思って、シンクの前で立ったまま、彼に自己紹介をしようと思った。


なんとなくもう一度顔色を窺ってみたけど、彼はまだちょっと驚いたままみたいに、目を見開いていた。


「えっと、その…、あんまり緊張しないでください。私、この家に住んでいて、石田雪乃っていいます。今、その…中学二年生で…。あなたに興味があるし、あなたも自己紹介してくれませんか?えっと…せっかく同じ家にいるんだし…?」


恥ずかしくて、それに気持ちを見透かされやしないかと思うと緊張して、まともにはしゃべれなかった。でも、それで幽霊さんは驚くのをやめてくれた。


「え?自己紹介?聴いてどうするの、そんなの…」


彼は次から次へと私が話しかけるものだから、半分くらい呆れてしまったらしい。ぽりぽりと頭を掻いている。


幽霊も、頭掻いたら音がするんだなあ。


「あ、えーっと、全然正体がわからないよりは、そっちのほうが、心構えができるし…」


「なんの?」


“気持ちを打ち明けるときの”なんて言えないし、どうしたら…。


「せ、生活の…」


「ふーん」


私がひねり出したなんでもない答えに彼は納得してくれたようで、ちょっとの間、顎に手を当てて考え込んでいた。


私はその姿を見て、またため息を吐く。


彼の目を半分くらい覆う下に向いた瞼から、長いまつ毛が流れている。それに、細面の顔に長い髪が垂れ下がると、少し影があって…大人っぽくてかっこいいなあ…。


しばらくすると彼はやっと顔を上げる。


「茅野時彦。享年24歳」


それだけ。自己紹介は二言だった。


「えっ…それだけ…?」


「他に何を知りたいかわからないし…」


「あっ、そうですよね…。じゃあ、ご趣味は…?」


「幽霊に趣味ってあると思う?」


「あ…ごめんなさい」


私たちの会話はそこで一旦途切れて、とても気まずい空気になった。彼は怒ったりはしなかったけど、よく考えたらすごく無神経な質問をしてしまったし、私は「もう嫌われちゃったかも」と、すごく不安になった。


それに、よく考えてみたら、「自分の家に居るから」って、私が彼のことを根掘り葉掘り聞き出す権利なんか、ない。


「あの、さっきの…すみませんでした。悲しませてしまったかもって…でも、お話できてよかったです。あの、あなたは私のことが邪魔かもしれないけど、その…呪ったりしないでくれると、ありがたいかなって思います…」


私がそう言うと、彼は大きく長いため息を吐いて、ちょっと私の近くまで歩いてきてくれた。


ふわっと彼の腕が上がって、私の頭に伸びてくる。びっくりして目をつぶると、かすかに、ほんのかすかにだけど、頭が温かくなった気がした。


「誰も彼もが、全員を呪いたいわけじゃない。それに、確かに的外れだったけど、人と話したのなんか久しぶりだった…。あんまり怖がらないで」


さっき、あなたの方が怖がってたような気がしますけど。そうは言わずに、私は彼に頭を撫でられていた。









Continue.

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