第3話

 家に帰ると、朝食の用意をして両親はわたしを待っていた。


「お帰り」


 何度も耳にした日常会話だ。でも両親の横にいるはずのミウはいない。ぽっかり空いた心の穴は開きっぱなしだ。


 両親と差し向かいで朝食をとった。これも何気ない、当たり前の風景。でも、きっと奇跡のようなゼイタクな時間。ミウを失ってやっと気づいたのだ‥


 わたしは千秋ちゃんのスペアの話を両親にした。二人は話し終わるまで黙って聞いていた。そしてお父さんが答えた。


「愛子に尋ねるけど、お父さんやお母さんの代わりはいるかい?」

「かわり?そんなの考えたこともないわ」

「そうだよ、スペアは命のあるものに使う言葉じゃない。鍵みたいなモノに対して言う言葉だと思うよ。千秋ちゃんはまだ価値のあるものに気づいてないんじゃないかな」

「そうかな」

「価値っていうのは、たとえばブランドとか高級品って意味じゃないよ。自分にとって愛を感じるもの」

「愛?」


 わたしは核心に触れたみたいで嬉しくなった。心のもやもやが解消していく。


「おまえが生まれた時、お父さんとお母さんは喜びのあまり名前に愛という一文字を入れて名づけた。おまえが命あるものを愛することができる人になってほしくて、愛されることを受けられる人間に育ってほしくて」


 お母さんも微笑んでうなづく、お父さんは続けた。


「千秋ちゃんは、もしかしたらわからない環境にいるのかもしれないね」

「どんな環境?」

「それは・・さっき言ったようにブランドや肩書に左右されるような環境。人間は弱いから、すがるものが欲しいんだよ。きっと自分を武装できるものをね」

「ブソウって?」

「兵隊さんの服のようなもの、他人との戦争に負けないようにね。でも、わざわざ他人と戦争する必要はないんだよ」


 お父さんはわたしに、わかりやすく説明してくれた。お父さんはさらに続けた。


「でも社会は勝ち負けや競争の世界ともいえる。だから一個人は別の価値観で生きていきたいんだよ。社会通念をひるがえしちゃってさ」

「社会ツウネン?」


 お父さんは時々ムツカシイ言葉を使う。わたしが聞き直すと、いつも丁寧に意味を教えてくれる。


「・・多数決の常識みたいなものかな?」

「ヒルガエスは?」

「・・逆らうって、ことかな。受け入れないって、意味でもいいけど」


 お父さんは、いきなり立ち上がり、顔から上半身をちくわのようにクネらせながら、様子を説明してくれた。


「これが、身体を翻すってこと」


 お母さんはニコニコしてお茶を三人分いれてくれた。


「食後の玄米茶飲みましょうよ」


 わたしは熱いお茶をすすりながら、いろいろなストレスがどこかに行ってしまうような気分だった。


「これ見てちょうだい」


 朝食がすみ、お母さんが指しした和室をのぞいた。新しい神棚の上にミウの骨壺や写真、お供えの缶詰や水が置かれている。


「この間しつらえたのよ、あんたはずっと部屋に引きこもってたから・・もう、そろそろ元気に生きていかなきゃ。天国でミウが心配で成仏できないって苦情がきちゃう」


 わたしも同感だ、もう大丈夫かも。


「ミウちゃん、いっぱいいっぱい幸せをありがとう。そのうち皆、天国にいく予定だから元気で待っててね」


 元気で、という言葉が少しおかしかった。


「ミウ・・って名前はね」


 お母さんはささやくように、独り言のようにつぶやいた。


「美しい雨って書いて、ミウ。天気雨の降るきれいな雨の日にうちに来たから」


 名前の由来は以前にも聞いたことがあるのを思い出した。すっかり忘れていたけれど。こうして、わたしは徐々に日常を取り戻していった。

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