安全な世界
最初は、ただただ怖かった。
感情は喜怒哀楽を失くして純粋な畏怖の感情だけ。
だけどもそれは三日もすれば慣れてしまったのだから、自分にも、嗚呼、まだ人間らしい順応力というものが備わっていたのだと想えばすぐに畏怖は安堵感へと変わってしまった。
今に想えばこんなに安全な場所は無い。
衣食住は完備され、生活に困ることは何も無い。
簡単なショッピングサイトと彼への連絡ツールのみに繋がる様に改造されたパソコンもあるから欲しい物には困らないし、彼のクレジットカードが登録されてあるから金に困ることも無い。
金に困らないという事は無理矢理金の為に下卑た人間の欲望を満たすような仕事もしなくていいし、外に出る必要も無いから電車で嫌な想いをして一方的な悦楽と欲望の捌け口にされるなんてようなこともそもそも起こりえない。
食事も彼が帰った時に作っておいてくれるし手料理に餓える事も味に不満も無い。
ただ一つだけ不満を挙げるとすれば、慢性的な運動不足か。
健康的に悪いからと言えば、疲れて帰ってきているだろうに簡単なストレッチに付き合ってくれたり最新の健康器具に食事も菜食中心のヘルシーなものに変えてくれた。
白い天井に飽き飽きして始めた密事も彼に見られていれば最初の抵抗なんてやっぱり順応力でカバーされ、好いように手伝ってくれたりもして。
今では彼が見てくれていた方が変な安心感さえ生まれて日課にさえなった。
嫌なことはしないよ、との言葉通り彼からは何も需要は無い。
何もかもが与えられる世界。物も、悦楽も、何もかも。
何もかも与えられて、何も需要の無い世界。
何も不満の無い無いものだらけの世界。
けれど、それは唐突に終わりを告げた。
彼は誰かに連れて行かれ、別れも告げられずに自分はどこかの病院へと引き取られた。
同じ様な白い天井は、また忘れていた畏怖の感情を容易く引き戻した。
同じ様に衣食住は約束されど質素な病院食。
彼の作ってくれたような手料理の温かみは消え既製品のような暖かいのに冷たい印象の食事。
毎日同じ時間に訪問してくれる先生は昔相手をした下卑た鼻の下の伸びきった雄に似ていて怖くて、怖くてただただ彼の名前を呼んで布団にくるまって過ごす日々。
あの人が何をしたというのだろう。
自分が何をしたというのだろう。
何も不満は無かったんだ。
何も無かった。
何も無い世界だったけれど、きっとあれは幸せだったんだ。
返してください
彼を、返してください
幸せを、安全な世界を返してください
あの白い天井を返してください
あの、何も無い幸せを。
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