若い頃の苦労は飼ってでもしろ。

寒川ことは

若い頃の苦労は飼ってでもしろ。


 僕が小学校に入学した日、父さんが苦労のヒナを連れてきて、僕に育てるように言った。


「これは苦労のヒナだよ。この鳥はとても育てるのが難しい。だけどお前ならきっと立派に育てあげることができるよ。さあ、今日からお前がこのヒナの世話をするんだ。」


「嫌だよ。苦労って、街でゴミを漁ったり、辛い思いをしている人の周りを飛び回っている鳥じゃないか。なんで僕が育てなくちゃいけないの?」


「若い頃の苦労は飼ってでもしろというだろう?お前も大人になれば苦労の本当の価値がわかるよ。」


 僕はその黒くて縁起の悪い鳥を不気味に思ったが、父さんに言われた通り渋々苦労を育てることにした。


 苦労は僕が悲しんでいる時や苦しんでいる時、いつも肩に止まってカァと鳴いた。そして僕がその苦しみを乗り越えた時、嬉しそうにまたカァと鳴いた。僕が友達と喧嘩した日も、仲直りした日も、父さんに叱られた日も、褒められた日も、いつもそばには苦労がいて、僕の肩にとまってはカァと鳴いた。その姿が愛おしくて、僕は苦労にだんだんと愛着を覚えるようになっていった。


 ところが、中学生になってすぐのある日、僕は一つの過ちを犯してしまった。夏休み前の期末試験、赤点になれば夏休みに補習が決まっていたのだけれど、どうしても補習が嫌だった僕は、数学の試験の時間、つい誘惑に負けて隣の子の回答を覗き見てしまった。先生に見つかることもなく赤点を免れることができたけれど、僕はすごく虚しくて、そして強い罪悪感を覚えた。


 僕がカンニングをしたその日から、苦労は僕の肩にとまらなくなった。それどころか、餌も食べずにどんどん衰弱していった。慌てた僕は父さんに苦労の様子がおかしいことを伝えた。


「父さん、最近苦労の様子がなんだか変なんだ。餌をあげても食べなくて、どんどん弱っていくんだ。いったいどうしちゃったんだろう?」


 慌てる僕とは反対に、父さんは落ち着いた様子でこう言った。


「お前、何かズルをしなかったかい?苦労はね、頑張っている人の汗や涙を糧にする生き物なんだよ。だから、飼い主が努力なしに何かを手に入れてしまえば、苦労は力を得られずに弱ってしまうんだ。」


 父さんの言葉に僕はハッとした。


「そうだったんだね。父さん、実は僕、この前の期末試験でカンニングをしたんだ。隣の子の回答を見てしまったの。赤点だと補習 があって……でもどうしても夏休みに遊びたかったから……ごめんなさい。」


「そうかい、それはとても悪いことをしたね。それでお前はどう思っているんだい?」


 静かに問いかける父さんに、僕はずっと感じていた心の中のモヤモヤをゆっくりと話し始めた。


「赤点は避けられたのに、僕とっても悲しくて。悪いことをしてしまったし、それに自分の力で試験を乗り越えられなかったことがすっごく悔しい。自分のことが情けないよ。」


 すると、泣きながら話す僕の目を優しくじっとみつめながら、父さんはこう答えた。


「そうかい、そうかい。よく反省しているみたいだね。それに気づいているならお前も苦労も大丈夫だよ。今の気持ちを全部苦労に話しておいで。そしてまた、自分の力でいろんなことを乗り越えていくんだよ。それが苦労の糧になるから。」


「わかった。僕もう二度とズルなんてしないよ!」


 その後、父さんに優しくポンと背中を叩かれて、僕は苦労に自分のしたことや、今の気持ちを全て打ち明けた。苦労に言葉が通じているか分からなかったけれど、苦労は僕の肩にとまって小さくカァと一回鳴いた。

 

 それからというもの、僕は何事も全力で頑張るようになった。悔しい思いをすることもあったけれど、それでも頑張ることをやめなかった。サッカーの試合で他校に負けた時、苦労は僕のそばで悲しそうにカァと鳴いた。大学受験で第一志望に合格した時、苦労は嬉しそう羽を羽ばたかせてにカァと鳴いた。いつでもどんな時でも、僕のそばには苦労がいた。


 そうして月日が経ち、僕が二十歳の誕生日を迎える前の日に、苦労は天寿を全うした。苦労はもう歳だったし、最近はあまり元気がなかったから覚悟はしていたけれど、やっぱりとても悲しかった。だって子供の頃からずっと一緒だったんだから。僕はその晩ひとりで泣いた。隣でカァと鳴く苦労はもういなかった。


 いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったのだろう。僕は不思議な夢を見た。夢の中の僕は苦労と一緒にいて、苦労は僕の肩にとまってカァと鳴いていた。すると突然、真っ黒だった苦労の羽がだんだんと白く輝き出して、苦労は嬉しそうにカァと鳴きながら、光に包まれ消えていった。それはとっても綺麗だけれど、どこか切ない夢だった。


 二十歳になった日の朝、僕は父さんに夢の話をした。父さんは僕の話を聞いて嬉しそうにこう言った。


「お前が見たのは自信だよ。苦労は育てるのが大変だということはお前もよくわかっているだろう。飼い主に嘘や偽りの心があれば苦労は育たない。街には捨てられた苦労がたくさんいるだろう?だけどお前は苦労を立派に育て上げた。そして立派に育った苦労の本当の姿、それが自信なんだ。お前は自分に嘘偽りなく努力をし続けた。そのことを自信に誇っていいよ。二十歳の誕生日おめでとう。」


 僕は父さんの言葉に涙が止まらなかった。僕が苦しい時や辛い時、苦労はいつもそばでカァと泣いてくれた。そして、僕が苦しみを乗り越えた時、知らないうちに小さな自信を少しずつ手に入れていたのだ。その自信が僕を支えられるほど大きくなった今、苦労は役目を終えて旅立ってしまったのだろう。


 僕はもう苦労がいなくても大丈夫。だって今までの努力に嘘はないから。これからの人生、また辛いことや悲しいことはたくさんあるかもしれないけれど、その時も苦労に嘘偽りなく頑張ったと言えるように、自信を持って生きていこうと思った。そして僕が親になった時は、やっぱり自分の子供に苦労を与えようと思う。だって言うでしょ?若い頃の苦労は飼ってでもしろって。

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