ブラームスのワルツその弐
増田朋美
ブラームスのワルツその弐
ブラームスのワルツその弐
その日は梅雨空という言葉にふさわしく、大変雲って、雨が降ったりやんだりと、鬱陶しい日であった。まあ確かにこうなって当たり前といえばそうなのだが、どうも最近は、そうではないことがほとんどなので、いつも通り雨が降ってくれるというのは、何だか嬉しくもあった。
ネタなんて、そこいらに落ちているもんじゃないんだけどなあ、と考えながら、室岡鮎子は、ぼんやりと道路を歩いていた。どうしても書く記事がみつからないので、なければ探してこいと編集長から激怒されて、今この道路を歩いているんだけれど、子供や若者の教育に役にたちそうなモノなんて、そう簡単にみつかるものではない。
とりあえず、公園のベンチに座って、何かないかなとぼんやり考えていると、公園の中を、着物を着た女性が、二人歩いているのを目撃した。この近くに和風の旅館でもあるのかと考えたが、仲居さんという雰囲気ではなかった。それでは、着付け教室でもあるのかな、と鮎子はかんがえた。二人とも、小紋の着物を着ていて、帯は文庫に結んでいる。今時、お太鼓をしないで文庫を結んでいるなんて、とても珍しい人たちだ。もしかしたら、ネタがみつかるかもしれない。彼女たちは、着物を着てタイヘん楽しそうに見えたので、鮎子は、彼女たちを追いかけてみる事にした。こういう仕事をしてると、狙った獲物は逃がさないという気持ちになる。マスコミ関係の仕事をしていると、そういうことになるのだ。
彼女たちは、バラ公園を出て道路を歩いていった。道路でも、着物姿の彼女たちは目立つので、見逃すことはなかった。つけている事がはっきりとわからないように彼女たちのあとを、鮎子はついていった。もし、特徴的な着付け教室でもみつかったら、また新聞記者として、返り咲きになれるかもしれなかった。だってもう、窓際と言われて何年になるんだろう。ほかの記者からは、碌な仕事をしない女性と言われているし、パソコンやスマートフォンをうまく使いこなせない、ダメな人と言われて馬鹿にされていたから、この着付け教室の取材がうまくいけば、又自分も注目されるようになるのではないかと思った。
やがて、着物を着た二人の女性たちは、大きな日本旅館のような形の建物へ入っていった。これは何をする建物だろうか、旅館だろうか?鮎子は通りかかった人に聞いてみようと思ったが、通りかかる人は誰もいなかった。
よしと決断して、彼女は製鉄所の敷地内に入ってしまうことにした。何か言われたら、少々取材させてくださいといえばいいのだ。ちゃんとこの建物の事を、記事にしたい、と自分の意思をいえばわかってくれる、そういう無理やりやってしまうというか、強引な手口だって、使わなければならないこともある。そのための口実を、即興で言う技術だって身に着けているから、私は大丈夫。そう思って、鮎子は製鉄所の正門をくぐってしまう。そして、玄関の引き戸を音がしないように開けて、隙間からそっと覗いてみた。玄関は土間になっているが、ほとんど靴は置かれておらず、草履ばかりが置いてあるのに驚いた。しかも上がり框はなく、車いすでも、平気で入れる。何だか大正時代から昭和の初め頃ならあり得るかもしれないが、現代であることを忘れてしまいそうな場所であった。
そんな中で、遠くの方からピアノの音がする。何ともいえない、美しい音で、とても素人が弾いているとは考えられなかった。こんな和風の建物に、ピアノの音は似合わないと思われるほど、本当に綺麗だった。鮎子はまるで、別世界に来てしまったのではないかと思ってしまう位だった。
「一体ここで何をやっているんだ、お前さんは。」
と、いきなり後ろから声をかけられて、鮎子はびっくりした。そこには、着物を着た車いすの男性がいた。黒い大島紬の、麻の葉柄の着物を身に着けているので、間違いなくこの人物は、影山杉三こと、杉ちゃんであった。
「そうやって、人の家を覗き込んでいるとなると、ただの見物人じゃないな。なんかの報道関係とかだったら、直ぐ帰ってくれよ。そういうやつらには、ここへは来てもらいたくないから。」
「そうですか。ごめんなさい。この建物、今の時代にあってない、不思議な建物なので、何だと思ったんです。少々、取材させて貰えないでしょうか。」
鮎子は、報道関係者らしく、作り笑顔で言った。
「まあ、そうかもしれないけど、こういうところなので、あまり公のモノにはだしたくないのよね。お前さんは、何の記者さん何だよ。」
杉ちゃんに言われて、鮎子は財布から名刺を取り出した。
「悪いけど、僕字は読めないのでね。一寸読んでみてくれ。」
読めないというのも、大変珍しいが、鮎子はそれを隠したまま、
「はい、室岡鮎子、子供新聞というローカル新聞の記者です。」
と、シッカリ答えた。
「子供新聞とは何だ?子供のための新聞か?新聞読むのなんて、中年のおじさんか、お年寄りばっかりだと思うけど。」
と、杉ちゃんがいうと、
「はい、もちろん、普通の子供さんだったら、なかなか新聞は読まないと思います。そうではなくて、学校へいけなくなった子供さんに、新しい行き場の情報を提供する新聞何ですよ。そのために色んなところで、取材をさせて貰っています。」
鮎子は、自信を持っていった。
「そうなんだね。そういうことならなおさら覗かないほうが良いと思うよ。子供さんにいい情報提供させてやれる新聞だったら、好奇心からの取材はまずいでしょ。ここを利用している人にもいい迷惑だ。帰んな帰んな。」
と、杉ちゃんがいうと、
「そうなんですけど、この建物は何なんですか。着物を着た人がこんなに大勢集まって。着付け教室?それとも、着物で何かイベントでもやる会場ですか?それとも、新宗教とか?」
鮎子はそこだけは押さえておきたいと思って、杉ちゃんに聞いた。
「この建物は、ご覧の通り製鉄所だ。それ以外なんでもない。」
「製鉄所?鉄を作るんですか?」
杉ちゃんの答えに、鮎子は素っ頓狂に言った。
「製鉄所というのは建物名。内容はただ、書き物したり勉強したりする場所を貸してやっているだけだよ。お前さんも、そういう新聞の記者さんならわかるだろうが、家に居場所がない若い奴が、ここにきて勉強しているよ。なんか、学校とか家よりずっと勉強がはかどるんだって、みんな言ってるよ。教えてくれる人もいるし、塾へ行くより良いってさ。まあ、そういう事だ。」
杉ちゃんがそういうと、
「そうなのね。講師がいるとか、そういう事?」
鮎子はすぐに聞いた。
「いないよ講師なんて。ただ、同じ勉強をしている奴が、教えてやっているだけの事だよ。講師なんて、阿羅漢ばかりで肝心の事を教えてくれないでしょ。それに学校の勉強だけじゃなくて、資格試験の勉強だったり、趣味的に勉強しているだけのやつもいる。まあ使い方はそれぞれだが、利用者さんたちの思いはいろいろあって、まあ、それをさらけ出したり、隠したりしながら、ここへ通ってるわけよ。」
「まあ、ずいぶん変わったシステムになっていますね。勉強するのに、なんで着物を着て、皆さんここへ通っているの?勉強するなら、制服とか、スーツが一般的だと思うけど?」
答えを出す杉ちゃんに鮎子はすぐに質問をつづける。
「みんな、事情がある人ばっかりだから、着物を着ていると、そういうことを忘れられるんだって。」
杉ちゃんは、もういいかという表情で言った。
「待って。もう一つ教えて。着付け教室も併設しているの?着物なんて、ひとりで着られるモノではないでしょう?」
鮎子は杉ちゃんに突っかかる。
「いや、ひとりで着られるさ。みんな、本見たり、動画サイトとかいうもんで、着方は勉強してくるんだよ。だってみんなここへ来るときは、いつものみじめな自分はいないもん。みんな家の中で、疫病神とかそういうことを言われている奴らばかりだからね。そういう、弱い自分を変えたくて、着物を着てきてるんだ。まあ、異様な空間に見えても仕方ないな。」
「じゃあ、つまり、高校生や大学生くらいの人たちが、ここで宿題をやりに来るというわけね。皆事情がある人だから、それを変えたくて、着物を着てくるのか。ねえ、この建物は誰が企画して、誰が、着物を着るようにと制度を作ったのか、そこを教えて貰えないかしら。」
「もうしつこいな。お前さんの質問に答えている暇はないんだよ。さっきも言ったろ。ここは繊細で弱い人たちが、居場所を求めてくるんだからさ。それをぶっ壊すような真似は、しないでもらえないか?」
「まあ、そんなこと言って。私はただ、記事にしたいだけで、何も悪意はないわよ。」
鮎子は、杉ちゃんに言われて、思わずそういってしまった。
「いや、大体な、好奇心で取材を求めてくる奴は、碌な奴じゃないね。それに、ここを取材しても、お前さんの出世には、たいして響きはしないだろ。ただ、場所を貸しているだけなんだからよ。まあ、あきらめて、帰んなよ。出世したいなら、まずこの製鉄所は、役にたたんよ。」
鮎子は、できれば、利用者の誰かにインタビューしたかったし、主宰の方が入ればその人にインタビューして見たかったが、この杉ちゃんに妨害されているようで、ちょっと苛立ってきた。
「あたしは、出世したいとか、そういう気持ちでここを取材させて貰おうとは思っていません。私の、事業所でも、居場所が無くて、困っている若い人たちが沢山来ているんです。その人たちの役にたちたいから、それで記事を書かせて貰おうと思っているだけなんですが。それではいけませんか。」
「じゃあ、お前さんの事業所は、どんなモノなんだ?」
杉ちゃんはすぐに言った。
「ええ、私は、雇われスタッフのようなモノなんですが、勤めている事業所は、学校にいけないとか、非行に走ってしまった人たちのための、無料相談所です。主宰者は、最近本をだしたことで話題になっている、有名な俳優さんだった方が、やっているんです。」
鮎子は、嘘偽りなく、自分の事業を説明した。
「はあ、まあ、要するに、有名人だった奴が、自分の名を売るために作った無料相談所ということか。」
杉ちゃんは、デカい声で言った。
「そんなことはないわ。主宰の方は、娘さんが学校に行かなくなって、非常に苦労した方でとても優しい方なんですよ。あたしみたいな雇われスタッフにも、ずいぶんよくしてくれるし。本の印税で、施設を作ったって、すごいことじゃないですか。なかなかそういうことができる人はいないと思いますよ。」
「まあねえ、、、。有名人がやっていると、何だか自己顕示欲の強い奴だなと思ってしまうけど、お前さんは、その事業所に雇われているだけなの?そういう事業所って、大衆演劇の一座と一緒でさ、血縁者で作っているような会社でもあるよねえ。」
と、杉ちゃんは言った。
「もしかしたら、お前さんがその娘さん何じゃないの?」
杉ちゃんが質問すると、鮎子は、ぎょっとしたような顔をした。
「僕、文字読めないから、テレビも新聞も見てないけどさ。お前さんのご両親がお前さんが不良になった事を本にして、お前さんも有名になったけど、それで、逆に居場所をなくして、親御さんの事業を手伝うしかない、ということになった。其れじゃないのかい?」
「文字もよめなくて、テレビも見ていない人によくできるわね。あたしの事、なんでわかってしまうの?もしかして、私の事を、雑誌かなんかで読んでいたとか、そういう事?」
鮎子は、もう正体がばれてしまったという顔をして、杉ちゃんを見た。
「いやあ、あてずっぽうで言ったんだけどね。どっかおかしいと思ったんだ。お前さんも、ご両親の事業を手伝うしかないと思うけど、お前さんの人生もあるんだってことも忘れないでいってね。」
「ご、ごめんなさい。でも、言ってくれてありがとう。」
杉ちゃんの話しに、鮎子は何か嬉しくなった。近所の人や、一般的な人からは、更生させてくれた、両親に感謝しろとか、そういう言葉しか言われなかったからである。お前さんの人生なんて、そんな事一度も考えた事はなかった。お父さんやお母さんが、書いた本の印税で建てた、無料相談所と、子供新聞を引き継いでいくしか自分の人生はない。自分でも思っていたし、周りもそうおもっているのだろうと思っていたから。他にも、父や母に雇われている、事業所のスタッフはいる。時に彼女たちのほうが、有能な仕事をすることもしょっちゅうあって、私は、もうこの世の中からも必要ないと思われていると、思っていたのに。
「じゃあ、お前さんの名前を出さないという条件で、取材してきな。」
と、杉ちゃんは言った。
「いいんですか?」
と、鮎子は聞くと、
「ああ、ただ、利用者さんの名前とか、そういうことは出さないでやってくれよ。それは、お前さんだったらわかるだろ?お前さんは名前をだされる恐怖を、よく知っているだろうから。」
と、杉ちゃんは、カラカラと笑った。
「じゃあ、よし、入れ。」
杉ちゃんに言われて、鮎子は段差のない土間で、靴を脱いだ。製鉄所の廊下は、鴬張りになっていて、誰かが歩くときゅきゅと音を立てなるようになっている。鮎子は、もうブラームスのワルツはなっていないことに気が付いた。もうピアノの練習をやめて、別の事をしているのだろうか。このピアニストさんの話しも聞くことができたら、それはそれでまたいいだろうなとおもった。その代わり、鮎子に聞こえてきたのは、激しくせき込む声だった。
「あ、水穂さんが又やってるな。又、畳を汚したら、畳の張替え代がたまらないよ。」
と、杉ちゃんは言った。確かに、鮎子も畳のはりかえを頼んだことがあるが、とても高価な張替え代を請求されて、びっくりしたことが在る。まあ、鮎子の家は貧乏ではないので、さほど両親は困った顔をしなかったけれど。
せき込んでいる声は、かなり激しく、通常の風邪をひいてせき込んでいるという感じではなさそうだった。それと同時に、水穂さんほら、薬と声をかけている若い女性の声も聞こえてきた。由紀子さんが来ているなと杉ちゃんは言った。杉ちゃんがふすまを開けて、おーい、だいじょうぶかと言うと、昼間のなのに、畳の部屋は布団が敷いてあった。布団の上には、真っ白い顔をしてげっそりと痩せた、でも、美しい男性がよこになっていて、駅員姿をした女性が、彼に布団をかけてやっているところだった。布団の横には、グランドピアノが、窮屈そうに置かれている。ということは、この人が先ほどの部ラームスのワルツを弾いていたということだ。その人は、大変美しい顔をしていて、多分何処かの外国の映画俳優にも負けていないほど綺麗な人だった。鮎子は彼と話して見たかったけれど、由紀子が持っているチリ紙に、赤い液体がべったりついていたため、今彼がせき込んで何をしたのか、すぐにわかってしまった。こうなると、本当に大正時代にタイムスリップしてしまうような気がしてしまったが、でも、鮎子は現実の世界にいるんだと自分に言い聞かせた。
「水穂さんは大丈夫?」
と、杉ちゃんが言うと、
「大丈夫よ。無事に吐き出したから。今日は、ピアノを弾いていたから大丈夫だと思っていたのに。やっぱり無理させてはダメね。」
由紀子は、すぐに答える。綺麗な人は、多分、飲ませた薬が回ったのだろうか、静かに眠っていた。もう疲れ切ったような、そんな感じでもあった。
「そうなのね。じゃあ、ご飯はいつ食べさせたらいいだろうね?無理やり起こすのもかわいそうだしなあ。」
杉ちゃんは、そういうことを言っている。鮎子は、彼と話してみたかったが、それは無理なのかなと思い直した。でも、あのブラームスのワルツは大変素晴らしい演奏だったことは間違いなかった。
「あの、彼が演奏していたブラームスのワルツを聞きました。すごく素敵な演奏でした。あんな演奏、私にはできません。」
「あなた、一体何をしにここへ来たの?」
警戒心の強い声で由紀子は、鮎子に言った。
「ええ、子供新聞というのをやっているのですが、それにこの建物の記事を書かせて頂きたいだけで。それだけの事なんです。」
と、鮎子は答えると、
「其れだけはやめて!水穂さんにひどいことしないで!あなたは、あの有名な本に書かれていた方でしょう?写真が出ているから、それはわかるわよ。水穂さんのことをひっかきまわしにきたの?」
由紀子は疑い深そうに言った。
「由紀子さん、そんな事言わないでやってくれや。彼女は、そういうことはしないって、言ってくれたよ。まあ、うまく書いてくれるだろ。そこらへん、ちゃんとやるのだって、一流記者なら、できることだぜ。」
「私の事、そんな風に見てくれるの?」
鮎子は、杉ちゃんを見た。
「ああ、そうだよ。だって、これからお前さんも、新聞記者として、やって行くんだろ。それに、親御さんにつくられた人生と思うかもしれないけどさ、お前さんの人生なんだから。それは、お前さんなりにやっていかなきゃだめだぜ。」
杉ちゃんはにこやかに笑ってそういうことを言っている。
「由紀子さん、僕たちも協力してあげようよ。多分親があそこまで有名になりすぎると、窮屈で辛いと思うよ。だから、そこから少しでもガス抜きできるようにさ。やってあげようぜ。」
「そうね、、、。」
由紀子は、杉ちゃんにそういわれて、少し考えて、そういうことを言った。
「じゃあ、まずは、インタビューを御願いします。この建物は、どんな人が利用していて、何をするところなのか、お話しください。」
鮎子は、鞄の中から、取材用のメモ用紙とペンを取り出した。鮎子は、スマートフォンを使いこなせないので、昔ながらのメモとペンと使って取材をするのである。少々老けているかもしれないが、鮎子にはそれが丁度いいのだった。
「はい、ここはね、家で居場所がなかったりした若い子たちが、勉強したり、仕事したりしているよ。」
杉ちゃんが、そう答えを出すと、彼女は分かりましたと言って丁寧にメモをとった。
ブラームスのワルツその弐 増田朋美 @masubuchi4996
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