愛人

あべせい

愛人



「どうしたッ。苦しいのか!」

 標高1200mの頂上まで、まだ2時間はかかる。

 道幅60センチほどの登山道で、カップルのうちの女性が、突然倒れた。胸を押さえ、「痛いッ!」と言い、とても苦しそうだ。

 2人は、夫婦ではない。

 男性は42才の会社員、久茂渉(ひさしげわたる)。女性は、同じ職場の彼の部下、裏谷麻子(うらたにまこ)、28才。2人は、俗に言う不倫関係にある。

 2人は、連休を使って、昨夜この山の麓の旅館に泊まり、今朝早く、頂上を目指して出発した。

 2人が一緒に山登りをするのは、これが2度目になる。麻子は高校時代、山岳部に所属して、日本アルプスに登った経験もあるが、渉はいまの会社に入ってから、2年前会社の山岳同好会に参加して、山登りを始めた。

 その意味では、麻子のほうが山の経験は長い。当時、渉は企画開発第2課で、麻子は総務課であり、本来余り行き来のない2人だったが、この山岳同好会で、親しく口をきくようになった。そして、この4月、麻子は総務課から、渉が課長を務める企画開発第2課に異動してきた。

 同好会の山行に、2人が参加したのは過去に2度ある。渉は、その2度の山行を通じて、麻子の魅力に引き付けられた。

 しかし、麻子には持病があった。心臓だ。心臓弁膜症という病で、時折発作的に心臓に激痛が走る。しかし、この2年、症状は出ていなかった。だから、安心していた。

 前回、2ヵ月前だが、2人が初めて、同好会を離れ、2人きりで中央アルプスの駒ケ岳に登った時も、麻子の体調はよかった。もっとも、途中までロープウエーを使い、実際に徒歩で登ったのは、1時間ほどだったが。

 2人は、そのときの宿で、初めて肉体関係に陥った。2人とも、最初からそのつもりで、2泊3日の山行を計画した。

 ただし、渉は、妻の砂羽(さわ)に対して、同好会の登山だとウソをついて出かけている。砂羽は夫に何ら疑いを持っていなかった。愛されていると信じていた。

 渉は目の前で、心臓の痛みを訴えてしゃがみこんだ麻子を見て、最初に思ったのは、

「困ったことに……」

 だった。

 山の中で、どうすれば麻子を無事に下山させることができるか、という意味ではない。この出来事がもとで、2人の関係が、会社や妻にバレやしないか。渉は、まず自己保身に走った。

 彼は、その程度の男だった。その程度の心づもりで、麻子と不倫していたことになる。

 渉は周りを見渡した。山道の前後に人影はない。

「麻子、しっかりしろッ。立てるか?」

 立てるわけがない。山道の脇の草むらにうずくまり、「ウゥ、ウゥ」とうなり声を発し、苦しんでいる。

 本来なら、携帯電話を使い、麓に救急車を待機させ、渉が彼女を背負い、急いで下山するのが最も理に適った行動だろう。

 そのとき、

「どうされました?」

 男の声だ。渉はハッとして、下を見下ろした。下から登ってきた山男だろう。

「彼女が突然、倒れまして……」

「それはタイヘンだ」

 彼は山登りの服装をしている。土地の者ではない。年の頃、渉と同年代だが、見るからに、筋肉質のガッチリした体格と、その体に似合わない優しいマスクをしている。

「あなたはすぐに救急車の手配をしてください。そうだ。119番ではなく、救急病院の番号をお教えします。ここからだと携帯の電波は届きます。ぼくは、この方を背負います。ぼくのは背負子だから、背負いやすい。病院の電話番号は……」

 彼は、渉に電話番号を伝えると、渉の返事を待たずに、肩から背負子を外して、その背負子に積んでいた彼自身の寝袋やザックを外して、脇の地面に置いた。

「その荷物は……」

 渉は、電話を掛けてから、男性が背負子から降ろした荷物を示して言った。

「あとでとりに来ます……」

 男性は、渉の手助けを得て麻子を背負子に負うと、ごく当たり前のように下山を始めた。

 渉は、男性が降ろした寝袋とザックを見て、このままにしておくわけにはいかないと考え、自分のリュックの上に、細引きでしばりつけ、男性の後ろについて山を下った。

 時刻は、もうすぐ正午という頃だった。

 麻子を背負った男性の下山はすばらしく速かった。幸い、登山道に入って1時間弱だったこともあり、麻子は倒れてから30分余りで、麓の国道に待機していた救急車で地元の救急病院に搬送され、集中治療室に入ることが出来た。


 麻子を救った男性は、医師だった。

 渉は、山で救急車を呼ぶため携帯で電話をかけようとしたとき、男性が渉に救急病院の電話番号を教え、そこに掛ければ、病院の救急車が駆け付けると言った意味が、男性の素性を知ってようやく理解できた。

 男性は、麻子が搬送された総合病院の外科医、伊柿杜矢(いがきもりや)、43才。外科医として20年近いキャリアがある。

 麻子は幸い、手術をせずに投薬だけで快復した。しかし、大事をとって、1週間の入院が決められた。

 麻子と渉の暮らす東京までは、車で2時間余り。渉は、麻子の笑顔を見ると、安心したように、「すぐに迎えに来るから」と言い残して、宿に留めてあった車で帰って行った。

 この分では、職場にも、家庭にも、2人の関係が露見する恐れはない。渉はそのことをいちばん喜んだ。

 しかし、ことはそう簡単には治まらなかった。

 翌日、出勤した渉は、部下の麻子が急病で1週間ほど欠勤すると課員に伝えた。麻子の家族から、連絡があったように装ったのだ。しかし、これが失敗のもとだった。

 その日、渉は急用が出来たといって、午後3時に早退した。妻には会議だと偽り、麻子にいる病院まで電車とタクシーで駆けつけた。

 ところが、いるはずの病室に麻子がいない。病室は個室だ。前を通りかかった看護師に尋ねると、喫茶室だと言う。

 妙な胸騒ぎがしたが、渉は病院最上階の7階にある、レストランと床続きの喫茶室に行った。喫茶室は廊下との仕切りが透明のアクリル板のため、中がよく見える。

 そのとき、渉の動きが止まった。4人掛けのテーブルに、麻子が医師の伊柿と並んで腰掛け、その向かいに年配の男女がいる。

 渉は麻子の両親に会ったことがない。しかし、年配の男女は、年格好から見て、麻子の両親に違いない。

 渉は考えた。こんなとき、あの場に出ていいものか。職場の上司として急いで見舞いにやって来たと言えば、いいのかも知れない。しかし、山で居合わせた伊柿が余計なことを言う恐れがあった。

 少し時間を置いてから、麻子の病室に行こう。渉はそう考えて、屋上に行った。人目がある。

 渉は貯水タンクの陰に入り、タバコを吸った。

 屋上からは、昨日登った山が見える。山はすっかり紅葉が進み、麻子が望んだ山肌になっている。あのまま頂上に着けば、どこかで唇を合わせ、下山していた。渉はつい興奮を覚え、妄想をふくらませた。

 と、男女の話し声がする……。

「お父さんもお母さんもお元気そうで、よかったですね」

「エエ。すべて、先生のお蔭です」

 麻子と伊柿医師の声だ。

 渉は一気に緊張した。こんなところで……、なぜだッ。

 渉は記憶を辿った。あの山に行ったのは、2度目だ。しかし、前回は渉ひとりだった。

 麻子もあの山は2度目だと言っていた。一度は同好会の女友達と。ただ、そのときは、山で転び、地元の病院に搬送されたという。20日余り前のことだ。

 そういえば、一昨夜、麻子はベッドのなかで渉を拒否した。体調がよくないからだ、と言って……。先月以来、渉は麻子と関係していない。だからこそ、彼は、今回の山行を楽しみにしていた。

「でも、麻子さん」

「何ですか、先生」

「あんな山道で、倒れておられたので、本当にびっくりしました。最初の約束では、もう少し上のほうで、足首を捻挫することになっていたでしょう。ぼくが登り始めたのが遅かったからだろうけれど……」

「久しぶりの発作でわたしもびっくりしました。でも、先生、そのお話は、こんどにして。いまはわたし、とっても気持ちがよくて……。すっかりよくなったみたいです」

 渉は、衝撃を受けた。麻子が、あの医者とツルンでいた。いったい、いつ、どんな約束をしたと言うンだ。

「それはよかった。しかし、麻子さんの快復力には脱帽です。あの状態では、集中治療室に入る必要はなかった、と思っています」

「すべて先生のおかげです。先生とお約束していなかったら、あそこで先生と出会うこともなかったのですから。わたし、いまここで、先生と、こんな風にお話をしていられるのも、先生の……」

 突然、2人の会話が途絶えた。

 渉は気になって、貯水タンクの陰から一歩、踏み出し、2人のほうを見た。

 なんということだ。麻子があの医者の胸に顔を埋めている。おれには、これまで、あんなドラマのようなポーズを見せたことがなかった。

 医師はそんなに頼れるのかッ。麻子、おまえはそいつに騙されているンだ。目を覚ませ! 渉は、そう心のなかで叫び、さらにもう一歩、踏み出した。

「麻子さん。よしましょう。ここは病院です。ぼくは医師です。結婚して2年になる妻も、います」

 麻子は、ハッとしたように伊柿から離れた。

「すいません、先生。わたし、つい先生にお礼を言いたくて。取り乱してしまいました」

 それでいいンだ。麻子、おまえは、おれのもとに帰ってくればいいンだ。

 渉は、麻子の潤んだ瞳を見て、彼女と2人になったとき、この事実を彼女にどう突き付けようかと思案した。


 結局、その日、渉は麻子の病室を訪れることはなかった。医師の伊柿と親密な関係にあることを知り、冷静な気持ちでは会えない、と考えたからだ。

 麻子は、それから3日後に出社した。同僚には、田舎から両親が出てきたのはいいけれど、母親の具合が悪くなって看病していたと話した。

 企画開発第2課には、渉のもと、7名の課員がいる。4月の人事で総務課から異動してきた麻子のデスクは、課長席からは最も遠い位置にある。

 渉はその日から、麻子のデスクの電話に注視した。もし、伊柿から連絡があるとすれば、スマホにメールが入るのが自然だが、監視するにこしたことはない。渉は、麻子の一挙手一投足を見逃さないようにした。

 このため、仕事が手につかない。麻子がこっそり笑みをもらすと、伊柿とのやりとりを思い起こし、悦に入っているのではないか、と邪推した。


 渉が麻子と深い関係になって、まだ4ヵ月ほどだ。妻の砂羽は何も気付いていない。砂羽はそんな女だ。鈍感なのか、夫を信頼しているのか。結婚して10年になるが、これまで嫉妬めいたことを、一度も口にしたことがない。

 麻子と2人でホテルに行ったのは、これまで3度。渉はもっと頻繁にと望んでいるが、麻子は持病を理由に、そういうチャンスがあっても、拒むことが多い。そして、麻子は、これまで渉がつきあった女性とは違い、自宅に渉を引き入れたことがない。

 渉が一度、キミの住んでいるところが見たいと言ったことがあるが、

「恥ずかしいわ。汚いから。それだけはダメ。結婚するのなら、仕方ないけれど……」

 そう言われると、渉は何も言えなかった。

 渉は浮気をしているという負い目があり、それ以上、強引なことは出来ないと思っている。そして、麻子も、「離婚して」とは、言わない。

 ところが、ひょんなところから、渉は麻子の妙な噂を耳にした。

 麻子が退院して、10日ほど後のことだ。

 麻子が以前いた総務課には、5名の課員がいるが、係長の鹿摩杉尾(しかますぎお)が、2人きりで麻子と居酒屋で会っていたというのだ。

 鹿摩は32才の独身。恋人がいるという話は聞かない。噂では、鹿摩はそのとき、麻子の手を握り、「こんど、ぼくの家に来て欲しい」と言ったそうだ。

 渉はその噂を聞いたあと、麻子にその真偽を確かめた。

「キミは、前の総務課と、まだ行き来があるのか?」

 麻子は、屈託ない笑顔を見せて、

「親しかった同僚がいるから、食事したり、お茶したりすることはあるわ。どうして?」

 と、答えた。

「いや、キミが係長の鹿摩と2人きりのところを見たと噂しているヤツがいるものだから……」

「そォ、そうなの。気を付けなくちゃ……」

 渉がそれ以上追及しないでいると、麻子もそれきり、その話題には触れなかった。

 鹿摩と麻子は、どれほどの関係なのか。渉は気にはなったが、控え目で、従順そうな顔をした麻子を、信じようという気持ちになっていた。

 翌日。

 渉は勤務中、デスクの仕事用パソコンを使い、麻子のパソコンにメールを送った。

「今夜、午後7時、例のホテルロビーで待っている」

 すると、パソコン画面を見て仕事をしていた麻子が、フッと渉のほうを見る。怪訝な表情だ。

 渉はその視線に対して、無表情を装った。

 すると、パソコンのキーボードに置いていた麻子の両手の指が素早く動いた。

 渉のパソコン画面に返信が入る。麻子からだ。

「ごめんなさい。今夜は、先約があります。今度にしてください」

 渉は、パソコン画面に見入り、仕事に没頭しようとする麻子の横顔を見て、それ以上、メールを送ることが出来なかった。

 渉は、定時で勤務を終えると、社屋の真向かいのビル1階に古くからある喫茶店に入った。

 柱の陰にある2人掛けのテーブル席を選んで腰掛けると、コーヒーの注文もそこそこに、会社の玄関から出てくる麻子を待った。尾行するためだ。

 麻子も残業の予定はない。まもなく、出てくるはずだ。

 コーヒーの支払いはすでにすませてある。渉の視線は、片側3車線の車道と歩道を挟み、会社の幅4メートルの自動ドアに釘付けになっている。自動ドアまで、距離にすると、30数メートルはあるだろうか。

 遅い……何をしているのか。渉がそう思ったとき、彼のテーブルに人影が差した。

 注文したコーヒーを持ってきたウエイトレスには、もう何もいらないから来ないでくれ、と念を押してある。

 じゃ、だれだ。向かいの空席に座ろうとするのか。人影は突っ立ったままでいる。恐らく、通路を挟んだ隣のテーブル席にきた客だろう。渉は、その人物を見る気も起きなかった。

 渉は、一瞬の間も見逃すまいとして、麻子を見張っている。視線は外せない。今夜は、特別だ。妻にも、「急な会議で遅くなる」と電話するつもりだが、まだしていない。尾行しながら、するつもりでいる。

「あなた、ここで何をなさっているの?」

 エッ!? 渉は思わず、人影の主を見た。

 妻だ。妻の砂羽だ。

 砂羽は、40才の年齢にはとても見えない、と近所では評判だ。周囲は美人だと言うが、渉は娘が5才になった頃から、砂羽はふつうの女だと思うようになった。

 ことし娘は小学3年生になった。

「おまえこそ。娘は、娘の香奈子はどうした!」

 渉は、驚愕の余り、今度は妻に視線が釘付けになった。

「腰を降ろして、よろしいですか?」

「い、いい。もちろんだ。オーイ。ここに、コーヒーを持って来てくれ」

 渉は、さきほど追い返したウエイトレスに手を上げ、注文した。

 砂羽はゆっくりと渉の向かいに腰を下ろす。

 いったい、何があるというのだ。そのとき、あの麻子が会社の自動ドアから出てくる姿が視野の端に入った。気のせいだろうか、そのとき、麻子が喫茶店にいる渉のほうに、チラッと視線を送ってきたような気がした。

 いや、見間違いだ。思い違いだ。そうに決まっている。

 渉がそんなことを考え、目の前の妻の顔を見ていると、

「あなたは、課長でしょう。余り恥ずかしいまねは、なさらないほうがよろしいかと思いますが……」

「な、何のことだ。おれは、思い出したことがあって、ここで打ち合わせのために部下を待っているンだ」

「裏谷麻子さんでしょう。彼女はたったいま、会社を退勤して、彼氏との待ち合わせ場所に行かれたのでは、ないでしょうか?」

「エッ、おまえ……、知っていたのかッ」

 渉は、急に気持ちが萎えるのを覚えた。そして、なぜか、妻の顔が、この世のものではない、天女のように思えてきた。

「2時間ほど前に、裏谷さんからお電話をいただきました」

 2時間前というと、渉が麻子にメールした頃だ。

「あなたに誘われて困っている、と。わたしには婚約者がいます、とおっしゃっているのよ。あなた、しっかりなさいッ。そんな女性をお誘いして、どういうつもり。迷惑なだけじゃないの」

「いや、おれは彼女が婚活パーティに行く気がないかと誘っただけだ。そろそろ適齢期だから、上司として当然の気配りのつもりだ。婚約者がいるとは知らなかった……」

 渉は、麻子という女がわからなくなった。いったい、婚約者とはどういうことだ。彼女は、30才になるまで結婚は絶対にしないと言っていた。

「娘の香奈子はどうしたンだ」

 渉は話題を変えて、この場を斬り抜けようとする。

「あなたのお母さまに預かっていただいています。ご安心ください」

 渉の母は夫の死後も、総合病院で保険事務の仕事をしている。稼ぎはいい。母の家は、渉の自宅から、車で数分の距離にある。そう言えば、母から、きょうは休みだと聞いていた。

「じゃ、帰ろう」

 渉は、テーブルにある伝票を掴んだ。その心のなかでは、麻子のやつ、どうするか、覚えていろよッ!

「あなた、お掛けなさい。今夜は久しぶりに2人だけなのよ。あなたの浮気心は、未遂として許してあげます。今夜はわたし、飲みたい。昔のように、酔いつぶれるほど、飲んでみたい……」

「おまえ、どうしたンだ……」

 渉は、妻がいじらしく思えて、急に抱きしめたくなった。


 半年後。

 麻子は結婚した。相手は、医師の伊柿杜矢だった。

 伊柿には結婚3年目になる妻がいたが、離婚して、麻子と再婚した。麻子にとっては、略奪愛だ。

 渉はそのことを知って、麻子が許せないと思った。

 医師は高収入が約束されている。中堅IT企業課長の比ではない。ましてや、鹿摩のような係長は、太刀打ちできない。

 鹿摩はどうしているのか。麻子は新婚旅行と称して10日間の休暇をとっている。

 勤務後、渉は鹿摩を誘った。異動してきた裏谷麻子に問題があるから、少し事情を聞きたいという口実だ。

 2人は、会社近くの蕎麦屋に入った。夜は居酒屋のようになる。

「何ですか、話って?」

 鹿摩は係長。課が違うといっても、渉は課長職だ。タメ口はないだろう。渉は怒りを覚えたが、総務課に盾ついても、いいことはないと思い直した。

「裏谷クンのことだけれど、仕事でミスが多くて、どうしたものかと頭を痛めているンだ」

「で?」

「……」

 渉は、麻子がこんな男とつきあっていたのかと思うと、情けなくなった。つまりは、おれもこの男と同程度ということなのか。

 渉は、急に、麻子という女が、すれっからしの、ロクでもない女に思えてきた。

「鹿摩さん、あなた、彼女と交際していたというのは本当ですか?」

 もう、どうにでもなれ。こんな男を怒らせようと、かまやしない。渉は開き直った。

「やっぱり、そのことですか。おかしいと思っていたンだ。彼女が企画開発に異動してきたといっても、それだけでぼくに会いたいと言ったあンたの狙いがわからなくて。でも、考えると、あンたは彼女を追い回していた。どこまで行ったのか、知らないけれど……」

 鹿摩は突然、饒舌になった。

「彼女は結婚したンですよ。ぼくを見限って。ぼくはまだ独身だ。彼女と結婚する資格があるのに、彼女は既婚の医師に走った。相手は、勤務医といっても、年収1200万円の医者ですよ。ぼくはあきらめた。振られたと知った当座は、ショックだったけれど。でも、それはあンたも同じだ。ただ、これだけは言える。麻子は、結婚しても、またぼくを誘ってきます。ひとりの男で満足できる女じゃない。それだけはわかるンだ。ぼくには……」

 鹿摩はそれだけいうと、テーブルに運ばれてきたイタわさを口に放り込み、一合の酒を一気に飲み干し、席を立った。

「久茂さん、やめなさい。あなたには歩がない。勝ち目がない。ぼくより若いのなら、まだわかるが。女を喜ばせる何かをお持ちですか? でも、あンたが部下に手をつけるようなら、総務課の人間として、あンたを懲罰会議に掛けます。わかっていますよね。昼休みに、一緒にコーヒーを飲む程度で我慢することです。じゃ……」

 鹿摩はそれだけ言うと、テーブルの伝票を手に、踝を返して、レジに行きかけた。

「勘定は自分で払う。生意気なことをするな!」

 渉は鹿摩の背中に向かって、鋭い声を投げつけた。

 店員と周りの客がびっくりして、渉を見る。すると、鹿摩はもう一度、テーブルに戻ってくると、腰を屈めて久茂に顔を寄せながら言った。

「久茂さん、じゃ言いましょう。半年ほど前の話ですが、あなたの奥さん、お名前は、確か、砂羽。砂羽さんが会社の向かいの喫茶にいたあなたを、迎えに来られたことがあったでしょう。あれは、ぼくが奥さんに電話をしたからです。勿論、ぼくは名乗っていない。社員名簿であなたの自宅の電話番号を知って、初めて掛けたのですが、あなたがしつこく麻子を誘っていたから。ぼくは邪魔で仕方なかった。麻子がぼくに、そのような意味のメールをくれたンです。で、あなたを諦めさせようとして、奥さんに電話をかけた。『ご主人が、部下の女性と待ち合わせをしています』と、ね。この勘定は、あのときのお詫びの印です。わずかですが」

 渉は、あのとき女房を喫茶店に呼び出したのは、麻子自身だと思っていた。

 鹿摩は渉を残して立ち去った。テーブルには、渉が注文した蕎麦と焼酎がある。

 渉は、焼酎を一気に煽った。半時間もたっただろうか。鹿摩の態度には無性に腹が立ったが、彼の言い分には理があった。

 そのとき、渉のスマホにメールが届いた。

 麻子からだ。

「課長、わたし、もう結婚に後悔しているわ。旅行から帰ったら、また会ってください……奥さんには内緒で……」

 渉はすぐに返信しようと操作した。

 しかし、心のどこかの部分が、こうささやいた。

「やめておけ。もう、たくさんだろう。あいつは、鹿摩にも同じメールを送っているはずだ。いま返事をしなければ、また寄越す。それも無視すれば、また誘ってくる。それまで、気長に待てばいい……」と。

 渉は、初めて、麻子より少し上に立った気持ちになった。

                    (了)

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愛人 あべせい @abesei

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