第13話 第一階層~休息の時(2)~

 目覚めは突然に訪れた。眠りについてからあまり時間が経っていないことは体感で分かる。

 ふわふわとしたものが顔の周りをくすぐっていた。

 いったい何が……。

「……ッ!」

 口から出かかった叫び声をどうにか喉元でこらえた。目を開くとその上には二つ並んだ赤い瞳。周りからは銀の髪が霧雨のように降り注いでいる。

「……何してんだ?」

「観察。暇だった」

 横から覗き込んでいた銀髪はすぐに体を起こした。俺はまた瞼を閉じて寝ようと……クソ、無理だ。さっきので目が覚めちまった。まだ心臓が早鐘のように脈打っている。

 体を起こして銀髪の隣に座る。周りは決して明るくないが頭上を覆うベールのお陰ですぐ隣の姿は分かった。

「とりあえず寝てるときに真上から見るのはやめてくれ。心臓が止まりかねん……これ、食べるか」

 俺は夕食からそのままになっていたビスケットを取ると一つ隣の少女へ手渡す。不格好な菓子モドキに目を移したあいつから小さな歓声が上がる。

「食べる」

 俺も一つ手に取り半分ほど口に含んだ。

 外はしんなり。中はボロボロ。腐らないようにかけまくった塩が嫌というほど口に広がる。

 保存食とはいえ酷い味だ。グールだって吐き出すぞ。

「あーどうだ? 味は、その。個性的かと思うが」

 あいつはまるでリスのようにちょこちょことビスケットを齧っていた。頬っぺたに食べカスが付いている。

「おいしい」

 腹の底から染み出したような声。嘘じゃなさそうだな。まったく羨ましい舌だ。

「お前ならテベス•ベイの地下だって暮らしていけそうだ」

 半分ほどまで齧ったあいつは、ふと口を止めこちらを見上げた。

「聞きたいことがある」

 相変わらず表情に変化は乏しい。だが、いたって真剣なことは雰囲気から分かった。

「なんだ?」

「私の言葉はおかしくない?」

 言葉? なんだろう? 少したどたどしいところはあるが別におかしなところはない。

「特にないと思うけど」

「私は、まだ話することに慣れていない。だから上手く話せていないことがあると思う。知らない事も言葉もたくさんある」

 年齢は十五ほどに見えるが実際の時間はもっと短いのだろうか。青白い光を受けてさらさら流れる銀の髪が月のような光を帯びている。

「分からないことは多い。だから教えてほしい。一番知りたいのに何も分からないことがある」

 こちらに向けられるのは純粋無垢な瞳。

 薄い唇から出た質問は唐突でシンプルで、思いもよらないものだった。

「生きるって何?」

 頭が真っ白になった。

 生きる?

 言葉を探そうにも空っぽの箱を逆さにしたように何も出てこない。

「私は……生きていない。だから教えてほしい。生きているあなたに。生きるとはどういうことなのか」

 生きるってなんだ? 真っ白になったまま頭で考えると、ふわふわした考えが浮かんでは消えていく。

 自分でものを食べたり動いたりすること? それはこいつもそうだ。

 考えたり話したりすることか? それもこいつは出来る。

 心臓が動いていること? 本当にそんなことか?


 思案から現実に戻ると迎えたのはあの混じりっ気のない灼眼。

 こいつはずっとこんなこと考えてたのか。

 ……取り繕うべきじゃない。思っていることを話そう。

 今自分に言える答えを。

「正直に言うと……分からない」

 銀髪は微動だにしない。

「お前にその質問をされた時、頭が真っ白になった。全然分からないのは俺も同じだよ」

 ビスケットを少しだけ齧る。塩の匂いがツンと鼻を通り抜ける。

 隣に目を移すとあいつの表情は不思議と柔らかくなっているように見えた。

「この疑問はずっと重かった。おなかの中に重りがぶら下がってるみたいに」

 銀髪は手を後ろにつくと上体をそらす。

「でも今は、ちょっと楽かも」

 しみじみ言い放つと残ったビスケットを口に放り込む幸せそうに噛み砕いていく。俺もそれに倣って残りを口へ。

 相も変わらずの味が口いっぱいに広がった。

「悪くないかもな、このビスケット」

「教えてほしいことはたくさんある。あなたは海を見たことある?」

 お次は海か。先生にでもなった気分だ。隣の生徒は手頃な教師を捕まえてか、声が少しだけ弾んでいる。

「ああ、海ならあるぞ。ただ……」

「本当! 教えて! 先が見えないくらい大きいと本にあった。他には見たこともないような生き物がたくさんいるとも」

 どうにも勉強熱心なようだ。まずいな。

 期待に満ちているこいつ(表情の変化は乏しいが)に浮浪者がたむろするテベス・ベイの港の光景を教えるのは気がひける。

「俺も港、あー船がたくさんあるところだ、そうだ。そう、港から見ただけなんだが、特に夕暮れの時なんか綺麗だぞ。青かった水が一斉にオレンジに変わるんだ。太陽が海の下にもぐる瞬間ひときわ強く光ってな」

 本当にきれいな光景なんだ。吐瀉物が浮かぶ港内部を除けばの話だが。

 隣の生徒は目をつぶって脱力しているようだった。海を想像してるんだろうか。

 こいつは内陸で過ごしてたのか? 気になるな。

「お前が見て面白かった風景なんてあるか?」

「ある」

 銀髪は体を投げ出すように後ろへ倒した。

「私が見たのは光る花」

「光る花?」

「そう。すごく、すごく綺麗だった」

 光る花……初めて聞いた。頭の中をひっくり返してもそんな花や薬草は出てこない。よほど珍しい場所に生えるものなのか?

「綺麗な光。まるで夜空の星が落ちてきてそのまま花に生まれ変わったように。それが辺り一面に広がってた。そよ風が吹くと花びらが一斉に舞い上がるの。周りが全部光で満たされて……」

 幸せそうに語っていたあいつの口が急に止まった。体を起こし伏せた顔に影ができる。

「綺麗で、きれいで……。憧れたんだ。あの光に」

 その影はあの灼眼さえも隠してしまうほど深い、深いものだった。

「私は持ってない生命の輝き、そのものだったから」

 それっきり会話は途切れた。

 静かな時間だけが俺たちの間に流れていった。かける言葉を探しても、湖面の月をすくったように指の間から逃げていく。

 やがて、ゆっくりとあいつは体を横たえた。

「もう、寝よう」

 俺も寝袋に包まる。瞼を閉じる前、あいつの横顔が目に入った。病的なまでに白く生気を感じない肌。あいつはそのまま顔をこちらへ向けた。

「さっきはありが……」

「なあ、俺も考えてみるよ」

 今、俺にできること。

 それはまだ悲しいくらいに少ない。

「え?」

「生きるって何って質問。あ! あんまり期待するなよ。俺は小難しい理屈をこねくり回す学者先生じゃないからな」

 まず出来そうなことから始めてみよう

 この質問魔の同行者に少しでも答えられるように。

「ビスケットみたいな気分」

 小鳥のさえずりのような声。表情はここからでは読めない。

妙なこと言い始めたな。なんだ? オークのクソみたいってことか?

「あー、そりゃどういう」

「悪くないってこと。あなたが言った」

 話は終わりとばかりにあいつは仰向けになり瞼を閉じた。そんなわけじゃないのに、なんだか一本取られたみたいだ。

 だけど、気分は悪くない。

 やがて、俺の瞼も銀髪の寝息に合わせどんどん重くなっていった。

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