第8話 アメリカにて・その4 ――Liebeslieder Waltzes――

   

 アメリカの市民合唱団で歌うようになって、丸二年が経過。三度目の春の演奏会は「ブラームスの夕べ」と題したコンサートであり、「Liebeslieder Waltzes, Op. 52」と「Neue Liebeslieder Waltzes, Op. 65」が曲目だった。日本語では『愛の歌』『新・愛の歌』と訳される合唱曲だ。

 18曲から構成される『愛の歌』と、15曲からなる『新・愛の歌』。分類によっては重唱曲にも入れられる合唱曲だが、それぞれいくつかのソロ曲が含まれている。例えばテナーならば『愛の歌』の17番目、『新・愛の歌』の10番目がテナーソロだ。

 ソロの歌い手は、団員の中から希望者をつのって、指揮者が決めることになり……。

 僕も手を挙げたのだった。


 テナーソロのオーディションは『愛の歌』17番目の「Nicht wandle, mein Licht」で行う、と言われたので、事前にそれを練習していった。

 ピアノ伴奏付きの、約2分程度の曲だ。

 タイトルにもなっている「Nicht wandle, mein Licht」という歌詞は、最初の4小節で出てくる。2小節目までの「Nicht wandle」は五線譜の下側の低い音で、そこからちょうど1オクターブ跳躍して、3小節目と4小節目は五線譜の上側の音で「mein Licht」と歌う。

 ……というような始まり方の曲だった。

 歌を歌う上で重要なのは、その曲に合わせた声や歌い方だ。音だけで単純に考えるならば、低い音だったり短調だったりしたら暗く悲しく、高い音だったり長調だったりしたら明るく楽しく歌えばいいのだろう、というのが、どんな曲であれ、まず僕の基本的なアプローチだった。

 今回の「Nicht wandle, mein Licht」の場合、最初の「Nicht wandle」は低く、次の「mein Licht」は高い音だ。歌詞で考えても、出だしの「Nicht」は「Not」だから打ち消しの言葉、「mein Licht」は「my light」つまり「私の光」。先ほどの原則通りで問題ないだろう。特に「Licht」は『光』なのだから、思いっきり「光!」という明るい響きで他と区別して構わないはず。

 ……などと考えながら、同じように自分なりの解釈で約2分の曲を読み込んで、僕は練習したものだった。


 オーディションは、全体練習の後で行われた。他の団員たちが帰って行った後、数人の希望者が残り、一人ずつ指揮者の前で歌わされる。

 他人事として面白いのは、その中の一人が「その部分は頭声ヘッドボイスで歌って」と指揮者から言われたことだった。約2分の曲の最終盤、楽譜に「pピアノ」と書かれているように音量を抑えながら、高めの音を出す箇所だ。

 僕個人としては最も得意な音域であり、音量を絞るならば「声」というより「響き」だけになるので、自然と頭声とうせいになっている。自分の歌い方が間違っていなかった、と確認できたのも嬉しかったが、

「ヘッドボイスって何ですか?」

「まあファルセットみたいなものだよ」

 指揮者がそのように答えたのも、なかなか興味深かった。ファルセットと頭声とうせい、厳密にはイコールではないはずだが、わかりやすく答えるならば「同じもの」という認識になるのだろう。

 そもそも一番興味深いのは、

「ああ、頭声とうせいは英語でもそのまんま『ヘッドボイス』なんだな」

 という感慨だった。

 日常会話でも研究生活でも出てこない音楽用語の英語訳。こういう機会でもないと、一生知らずに終わっていたことだろう。


 なお、この時のオーデションは「今回の演奏会のテナーソロを決める」というものであり「『愛の歌』の17曲目で判断するから、それを練習してきて」という話だったが……。

 実際には『新・愛の歌』の10曲目の方も歌わされた。

 話が違うよ、と思ったのは僕だけではあるまい。誰一人として、まともに歌えず……。

 結局『愛の歌』の17曲目は僕がソロに決まり、しかし『新・愛の歌』の10曲目の方は、指揮者が団外から呼んでくる知り合いに歌ってもらうこととなった。

 自分がソロに決まった喜びよりも「また外部の助っ人に頼らないといけないのか」という悔しさの方が強かったかもしれない。

 おそらく、昔のような「ソロを歌いたい!」という自己顕示欲ではなく「歌うべき実力のある人間がやれば良い。この合唱団ならば自分が相応しいだろう」という気持ちで立候補していたからだろう。自分がソロを任されたのは順当と思うと同時に、ただし一曲しか任されなかったことで、まだまだ自分は未熟だと思い知らされたのだった。

   

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