第6話 アメリカにて・その2 ――アメリカでの最初のステージ――
日本にいた頃も、一般の市民合唱団の練習に少し参加したことがある。特に男声メンバーが足りなくて、演奏会が近くなると、大学の合唱サークルに「正式に入団しなくていいから、今度の演奏会までの臨時メンバーとして、歌いに来ませんか?」という声がかかったりするのだ。いわゆる助っ人というやつだ。
もちろんセミプロの合唱団で歌うようになる前の話であり、名目としては『助っ人』だったが、まだ僕にそれほどの技量はなかった。実際には『数合わせ』と呼ぶべきだっただろう。
だが、そうした『助っ人』経験を複数の合唱団でさせてもらったおかげで、一般の市民合唱団の雰囲気が何となくわかったし、
アメリカの市民合唱団も、日本の市民合唱団と基本的には同じだった。
楽しく歌うことが第一だ。演奏会を開く以上、他人に聴かせられる音楽としてそれなりに仕上げる必要があるけれど、あくまでも『それなり』だった。
個々の団員も、中には上手い人もいるのだが、大多数はそうでもない。大学の合唱サークルの初心者と似たり寄ったり、と言ったら言い過ぎかもしれないが、その程度だった。
まず合唱初心者というものは、音取りに苦労する。『音取り』という用語自体、合唱をやっていない者にはピンと来ないかもしれないが……。
例えば楽譜に「ド・レ・ミ」と書いてあったとする。「ド・ファ・ラ」と書いてあったとする。ピアノのような鍵盤楽器ならば、それぞれ「ド・レ・ミ」あるいは「ド・ファ・ラ」の鍵盤を叩けば良いだけだから、比較的簡単だろう。
だが、
それでも「ド・レ・ミ」は、まだ難しくないはず。よほどの音痴でない限り、誰でも「ドレミファソラシド」と口ずさめば、自然に一つずつ――厳密には全音と半音の違いはあるが――音階が上がっていくだろう。
一方「ド・ファ・ラ」はどうだ。「ド」の次に隣の「レ」をイメージするのは簡単でも、咄嗟に「ファ」の音をイメージできる人は少ないのではないか。さらに続いて「ファ」から「ラ」、これも「ド」から「ファ」の間隔とは異なるし、イメージしづらいのではないか。
譜面を見ただけでそのような音を瞬時にイメージして、すらすら歌える者もいるのだろうが、それは例外。一般的には、まずキーボードと呼ばれるような電子ピアノなどで「ド・ファ・ラ」を叩いてみて、ふむふむこんな音なのか、と体に覚え込ませる必要がある。これが音取りと呼ばれる作業であり、「ド・ファ・ラ」のような短いフレーズだけでなく、曲全体について行う必要があるのだった。
合唱初心者の中には「キーボードを叩く」という段階で躓く者もいるし、その場合、代わりに誰かに弾いてもらうことになる。ただし他人に弾いてもらうと、自分がわかりにくいところも、わかりやすいところも、同じように流されてしまうので、かえって音取りが難しくなる場合もある。
かようにして、合唱初心者は音取りに苦労するので……。
究極的には「同じパートの人が歌っているのを聴いて、それと同じような音を出そう」という方針になってしまう。これが合唱初心者にありがちな「一人では歌えないから、みんなと一緒に歌う」というやつだ。
初心者でなくても「ここだけ難しくて音が取りにくい」という部分は、他の人が歌っているのを参考にして覚える場合がある。そもそも事前に音取りしてきたとしても、パート内で揃える必要があるから同じパートの音をよく聴く必要があるし、ハーモニーとしての正しい音――ピッチとか周波数とか――は他パートの音との兼ね合わせで決まってくるから、他パートの音もよく聴く必要があるのだが……。
久しぶりに歌うとなると、僕も少し音取りに苦労した。復帰第一戦のメインが「歌ったことある曲」なのは、その点、本当に恵まれていた。サブの方の曲は、それほど難しい曲ではなかったはずなのに、難曲に感じてしまったほどだ。
そして、ここで大きな問題となるのが、その場がアマチュアの市民合唱団であるということ。僕が「ここだけ難しくて音が取りにくい」という部分があっても、『他の人が歌っているのを参考にして』というのは出来なかった。同じパートの他の人たちも、僕が音取りしにくい部分は、同じく歌えていないのだ!
幸いメインである『戴冠式ミサ』の方は、僕は一通り歌える状態。同じテナーの中の「一人では歌えないから」というレベルの人たちが僕の歌声を頼りに声を出している、という空気をヒシヒシと感じることになった。
いかにもアマチュアの市民合唱団である。
なお『戴冠式ミサ』にはテナーソロもあり、僕が初めて参加した日には、合唱団の団長的な人――事務的な取りまとめを行う人――が「私がテナーソロを歌う予定になっている」と言っていたのだが……。
結局、本番のステージでは、指揮者が余所から呼んできた『助っ人』がソロを歌っていた。
他のパートのソロは合唱団の中から選出されており、テナーパートの未熟さを思い知らされたような気分になった。まだ入ったばかりで仲間意識というほどではなかったが、それでも少し悔しく思ったものだ。
同時に「もしも僕がもっと早くこの合唱団に入っていたら、僕がソロをやっていたのかもしれない」という傲慢な気持ちも抱いてしまうのだった。
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