第2話 堤防での出会い
八郎は目が覚めた。
八郎はさっきまで夢を見ていた。
怖くも何ともない夢だけど、ちょこっと寂しい気持ちだった。
部屋を見渡すと、お母さんが眠っていた。
起こさない様に、そっとほっぺたとほっぺたをくっつけてみた。
さっきまでの寂しい気持ちがどこかに飛んで行った。
お母さんの温かいほっぺた。
なぜかお母さんのまつげが濡れていた。
悲しい夢でも見たのかな。
お母さんの生暖かい寝息が、ぼくの顔に当たる。
お母さんが生きている。
当たり前のことなんだけど、何だか嬉しい。
お母さんを起こさない様にひとりで外に出た。
外は少しひんやりしていた。
とりあえず、おしゃべりしてくれそうな人を探しに行くことにした。
川沿いの堤防がいいかも知れない。
八郎は時々そこで夕日を見たり、星を見たり、歌を歌ったり、野良猫と遊んだり、石ころを蹴ったり、トンボを追いかけたりして過ごしていた。
早朝のせいか行く途中、道にほとんど人が歩いていなかった。
堤防に行っても、誰もいないんじゃないかと不安になったが、何だか早く行かないといけないという気持ちがした。
だから途中に公園もあったけど、寄り道せずに向かうことにした。
ちらりと横目で見た公園の早朝の顔は、鳥ですら一羽もいないひっそりとした静かな灰色だった。
八郎は公園に向かって小さくつぶやいた。
「また今度一緒に遊ぼうね。」八郎は時々、物に話しかける癖があった。
そうやって話しかけるようになったのはいつからか、なぜ話しかけるようになったのかは覚えてないけど、何だか物にも心がある様に感じたからだった。
もちろん、物だけではない。犬や鳥、動物園にいる様々な動物、堤防で会う捨て猫にも話しかける。彼らにも心があるからだ。
やっと堤防に着いた。
いつもより少し早歩きだったから、息が荒くなった。
なぜか、少し急いだのは、誰かを待たせている様な気がしたからだ。
堤防の一番高い位置にたどり着くと川が見えた。
悠々と流れるいつもの川が、目の前に現れた。
川はおおらかだった。
人間の悩みも悲しみも怒りも、全て何でもないと言った感じで海まで運んで行ってくれる。
そうやって八郎が川を少しの間眺めていると、視界の中に男の人の背中が見えた。
誰かが待っている様な気持ちになったのは、この人だったんだ。
この人がさびしそうで、助けを求めている様に感じた。
男の人は30代くらいだった。
ぼくは静かに彼の横に座った。
男の人は少し驚いた風だったけど、また川の方を向きながらしゃべった。
「こんな時間に早起きだね。」って。
ぼくも「おじさんも早起きだね。」って返すと、スーツ姿のその男の人は、下を向いて少しくすりと笑った。
横から見ると、膝を抱えた手で缶ビールの淵を指で持って、ぶらぶらと揺らしていた。ひんやりした空気の中に長いこと座っていたせいか、おじさんの顔は温かみと表情を失い、無機質な人形の様だった。
「おじさんはサラリーマンなの?」ぼくが尋ねた。
おじさんは小さな声で「そうだよ。」とだけ返事をしてくれた。
おじさんは物思いにふけっているようだったから、多くをしゃべらないんだなと思った。
おじさんの気持ちが、ちょっと明るくなるまで待つことにした。
ぼくは、目の前の草をいじったり、きれいな形の石ころを探したりしながら待った。
すると、おじさんがしゃべりだした。
「君、今日、学校は?」おじさんは我に返り、ぼくのこと心配してくれている様だった。
少し気持ちが明るくなったのかもしれない。
ぼくは、すかさず答えた。
「今日は休みなんだ。」心の中で、明日も明後日もずっと休みなんだって思ったけど、それは話がややこしくなるから言うのをやめておいた。
「おじさん、今日、会社は?」少し迷ったけど、ぼくも聞いてみた。
「おじさんも今日は休みなんだ。偶然だね。」って、ぼくを見て笑ってくれた。
さっきとは違って、寂しげだったおじさんの顔が温かい笑顔になっていた。
ぼくはほっとした。
ぼくは、人と話すのが大好きだったから、元気になってきたおじさんに、もっと話すことにした。
「おじさんの会社は近くにあるの?」おじさんの顔が少し曇った。
「ううん、ここから一時間くらいのところだから少し遠いかな。」おじさんがまた物思いにふけりそうになったから、ぼくは続けて話した。
「ぼく八郎っていいます。よろしく。」おどけて、ぼくが握手を求めると、おじさんの顔がぱって明るくなった。
目の前の男の子が、想定外の行動に出たから少し驚いたみたいだけど、声を出して笑いながら握手してくれたんだ。
おじさんは複雑な表情をして「威厳がありそうな、素敵な名前だね。」ってぼくの名前に、不思議なほめ方をしてくれた。
でも、ぼくは肩をすくめて言った。
「そうでもないんだ。学校ではこの名前のせいで、たまにからかわれるんだ。忠犬八郎とか、おじいさんの名前みたいとか。」
「絶対にそんなことないよ。素敵な名前だよ。そんなこと言うやつは誰だ。ぼくが君と同じクラスメートだったら、一緒になって怒ってやるのに。」おじさんは、今まるで、ぼくのクラスメートになっているみたいに怒って見せてくれた。
おじさんは、本当に優しかった。
ぼくとおじさんは、これで友達になったんだ。
でもぼくは、もじもじしてから勇気を出して言ったんだ。
「ありがとう。なんだか嬉しいな。だって、その時誰も助けてくれなかったから、今とっても気持ちが楽になった気がするよ。」ぼくの心が、じんと熱くなった。
ぼくも、おじさんを助けたくなった。
おじさんの心は、溺れかけていたんだ。
ぼくには分かった。
だから、この人から離れたくなかった。
ぼくが、力になりたかった。
「ぼくおじさんに助けてもらったから、ぼくもおじさんを助けたいな。」ぼくは本気だった。
本気過ぎて、少し目がウルウルしてしまった。
それでもおじさんの目をまっすぐに見て、本気なのを伝えたかった。
おじさんは大きな笑顔になって、さっきまで持っていたビールの空き缶を横に置いて、ぼくの頭をくしゃくしゃって嬉しそうに撫でてくれた。
細い指だったけど、確かに大人のしっかりした手で、ぼくの頭の半分を包み込むように大きく、でも、優しく撫でてくれた。
おじさんもぼくも、今日は一日フリーってわけだ。
時間はたっぷりある。
けど、おじさんの気が変わらないといいな。
ぼくをただの子供だと思って、本心を打ち明けないかも知れない。
ぼくは慌てず、ゆっくりとおじさんの気持ちに寄り添うことにした。
おじさんのことを、もっと知りたいと思った。
「おじさんの名前はなんていうの?」
「さとしって言うんだ。よろしくね。」おじさんも、ぼくに握手を求めてくれた。
さっき、ぼくの頭を優しくなでてくれた大きな手が、ぼくの目の前に差し出された。
ぼくは当然の様に、自信をもって差し出されたその手と握手した。
熱いくらいに温かい手だった。
おじさんは、痛いくらいに握り返してくれた。
これが男と男の握手って感じで、遠慮はいらないぜっていう気持ちが伝わってきた。
さっきまでの弱々しい、消え入りそうな雰囲気は、どこかに鳴りを潜めていた。
でも、ぼくにはわかった。
おじさんが、大きな重たい悩みを抱えているということを。
ぼくは、そんなことは気づいていない風にして、「じゃあ、さとしおじさんって呼んでもいい?うーん、でもそれじゃあ友達っぽくないから、さとしさんって呼んでもいい?」って尋ねた。
「もちろん、好きなように呼んでくれていいよ。じゃあ、ぼくも八郎くんって呼ばしてもらってもいいかな?」
ぼくはにっこりして、「うん。」と大きくうなずいて、嬉しそうに返事をした。
ぼくは思い切って、話を切り出してみた。
「さとしさんは、なんだか悲しそうな顔をしていた気がしたんだけど、何か困ったことでもあるの?」
「そうだな、わかっちゃっうね。早朝に堤防で、一人でビールなんて飲みながら、ぼうっとしている人がいたら、きっと何かあるって思うよね。心配させちゃったね。」さとしさんは、鼻の頭をこすりながら、少し照れていた。
「良かったら、ぼくに話して欲しいんだ。ぼくはまだ子供だけど、将来はカウンセラーになるのが夢だから、ぼくを育てると思って話してくれると嬉しいな。だってぼくは、世界中の人を助けたいんだ。」
とっさに思いついて、口から出まかせを言ってしまったが、まんざら嘘でもない気がした。
いや、世界中の人を助けたいと、本気で思っていた。
「へー、すごいね。こうやって、早朝に悩んでいる人がいないか探しているの?」さとしさんは、感心した様にぼくを眺めた。
「ううん、今日が初めてなんだ。」ぼくは、えへへと、頭をかいた。
「じゃあ、ぼくが記念すべき、お客さま一号ってわけだ。光栄だな。でも、初めての仕事にしては、大変な問題を抱えているよ。」さとしさんは、冗談交じりに本心をのぞかせた。
話してくれるかもしれない。
ぼくはそう思った。
さとしさんは、ぼくのことを信じてくれたのか、反対にぼくが、見ず知らずの人間だから、本心を話したところで自分の生活に影響がないと思ったからか、または、そのどちらでもなく、ただ気が向いただけかもしれない。
でも、ぼくはそんなことは、どうでも良かった。
ぼくは、目の前のさとしさんが、助かればそれでいいんだ。
「じゃあ、さとしさんに何が起きているのか言ってみて。」ぼくは、なるべく重たくならない様な口調で、さとしさんを促した。
「そうと決まったら、少しお腹が減ってきたなぁ。近くにコンビニがあったから、そこでパンやおにぎりでも買って一緒に食べようよ。君のお母さんに、怒られなければってことなんだけど。どう?」
さとしさんのいきなりの提案に、ぼくは少し驚いたけど、さとしさんが明るい表情になったので嬉しくもあった。
「ありがとうございます!」ぼくは、断る理由なんてなかったから、すぐにオッケーした。
「あっ、その前に一本電話してくるから待ってて。」と言って、さとしさんは堤防を少し上って、どこかに電話を掛けた。
「お待たせ。連絡も終わったからコンビニに行こう!」
さとしさんは、コンビニでしゃけおにぎりとシーチキンマヨネーズのおにぎりとお茶を買って、ぼくは迷いに迷って、メロンパンとチョコの掛かったパンと牛乳を買ってもらった。
菓子パンを食べるときは、牛乳って決めているんだ。
牛乳は、コクがあるのにシンプルな味で、どの菓子パンにも合うからだ。
菓子パンって、意外と飲み物のせいで水っぽくなるんだ。
だけど、何か飲まないと口の中がパサパサしてくる。
その点、牛乳は、菓子パンの味を邪魔せずに、牛乳のコクのある水分のおかげで、口いっぱいに甘さや香りを広げてくれるから、この組み合わせが一番だと八郎は思っていた。
ぼくが口いっぱいにパンを頬張っていると、さとしさんは自分もおにぎりを頬張りながら、ニコニコと笑って、ぼくを見つめていた。
ぼくも、さとしさんに笑い返した。
まだ大きな問題は何一つ解決してないと知りながら、少し幸せな気分に浸った。
「ねえ、さとしさん。」
ぼくは、この幸せな空気を破るのは気が引けたけど、勇気を出して切り出すことにした。
「さっきの話の続きなんだけど、ぼくに、さとしさんの悩みを打ち明けてもらえないかな?実を言うと、ぼくのおじいさんが、カウンセラーだったんだけど、小さいころから、ぼくにたくさんのことを教えてくれて、これでも結構解決策は、色々と考えられるんだよ。」
ぼくは、大きなパワーと知恵を授かっているので、かなりの自信があった。
どこで授かったかって?
それは、今度ゆっくり説明しようと思う。
「へー!」さとしさんは、本当に驚いているようだった。
「それは頼もしいな。」と言って、ぼくを関心した目で眺めた。
「本当は、子供に大人の悩みなんて話すもんじゃないって、話すのはやめておこうと思っていたんだ。でも、君が本当に将来カウンセラーになる夢があるなら、話してみようかな。」
少しためらってから、さとしは、少しずつ八郎に話し始めた。
「ぼくの務めている会社は、そこそこ大きくて、……。」
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