第3話 裏切りと別れ
「おはようございます!」ぼくは、気持ちとは裏腹に元気な声であいさつしながら、職場の扉を開けて入って行った。
自分のデスクに鞄を置くやいなや、上司の新庄部長が大声でぼくを呼びつけた。
「おい、勝本!」
ぼくの心臓は、一気に心拍数を上げた。
「はい!」
瞬時に返事を返し、新庄部長のデスクの前に駆けていった。
新庄部長は、ぼくを睨みつけて言った。
「なんだお前、俺が昨日早々と職場を出たと思ったら、何の連絡もなしにこんな物を俺のデスクの上に置きやがって。こういうのは、手渡しで渡すもんだ。もう一度作り直して来い!」
そう言って、ぼくが作った新商品の企画書を目の前で破った。
「あっ!」
ぼくの心は、企画書と一緒にズタズタになった。
この新庄部長が来てから、これで何度目だ。昨日、部長がデスクに置いておけと言って、職場を出たのではないか。
ぼくは悔しさのあまり、言い返したかったが、その言葉をグッと飲み込んで、歯を食いしばった。何故か分からないが、新庄部長は、ぼくばかりにきつく当たるのだった。
キツイと言ったレベルではない。
正直この仕事を辞めたいと思ったのは初めてだが、それも致し方ないと思うほど、新庄部長のぼくに対する扱いは苛烈なものだった。
職場の人間も、自分に火の粉が掛かるのを恐れて、部長に立てつく様なやつは一人もいなかった。
おれは、ここで何かを築いていたと思ったが幻想だったようだ。
たった一人の男のせいで、一変してしまう薄情な世界に住んでいるってことを痛感した。
そして、ついには、夜中に嫌な夢を見て起きるようになり、家を出るまでの時間がとてもだるく、会社に行くのが精神的にも肉体的にも辛くなっていった。
会社に着くまでの電車の中ですら、緊張し、部長に言われたことが頭の中でぐるぐると駆け巡る回るようになっていった。
そうなると、自分ではどうすることもできないのだ。
気が付いてその負の思考を止めようとしても、また元に戻って、部長のことを考えている。
会社に着くまでにぐったりとして、仕事にも力が入らなくなっていった。
ある日の夕方、トイレに席を立った時に、誰かに後ろから声を掛けられた。
同じ部署で、二年前に他の部署から移動してきた、前沢さんという女性だった。
あまりぼくとは接点がないが、いつも明るく男性社員の中でもよく話題に上る、好感度の高い人だということは何となく覚えていた。
「勝本さん、少しお話してもいいですか?」
前沢さんは、ぼくにどんな話があると言うんだろう。
不思議に思いながらも、特に断る理由もなかったのでぼくは答えた。
「いいですよ。何ですか?」
「もしご都合が良ければ、今日か明日の仕事が終わった後で、少し食事でもしながら商品開発について教えてもらいたいことがあるんです。最近、仕事に行き詰っていて、少し自信をなくしてしまっているのです。それで、以前から商品開発のことを勝本さんにお伺いしたいと思っていたんです。」
前沢さんは、真剣な顔でぼくに頼んできた。
「ぼくでいいんですか?他に頼りがいのある連中はいっぱいいますよ?むしろ、知っての通り、ぼくは、何故か部長に目をつけられて悲惨な状態なんだから、皆と同様、ぼくなんかに近づかない方がいいんじゃないですか?」
ぼくは、少し嫌な人間になりつつあった自分を感じながら、皮肉交じりに答えた。
だが前沢さんは、少し驚いた顔で首を横に振りながら言った。
「いえ、そんなことはありません。勝本さんの商品開発は、とても面白い視点を持っていて、以前からお話したいと思っていたんです。」
そんな風に思ってくれている人がいたなんて、ぼくの方が少し驚いてしまった。
こんな状態になると、目の前の仕事を必死にやるだけで精一杯になってしまい、自分らしいとか、幅広い感覚を持つとかといった、一歩進んだ発想とは無縁になっていたからだ。
前沢さんのその言葉で、ぼくは少し目が覚めたような感覚になれた。
「ぼくは、そんないいもんじゃないですが、そう言うことなら、特に用事があるわけでもないのでご一緒しましょう。」
ぼくの頭には、婚約者の知佳の顔が過ぎったが、仕事の話しなのだから、前沢さんが女であろうが男であろうが関係なかった。
もちろん、恋愛感情なんて微塵もなかった。
ただ、今の職場での追い詰められた状況で、前沢さんの申し出は、ぼくにとって暗闇の中の一筋の光であったのは間違いなかった。
「お待たせしました。少し片づけないといけない仕事があって遅くなってごめんね。」
ぼくたちは、職場でいらぬ噂が立たない様に、職場の最寄り駅から数駅離れた場所の居酒屋で現地集合することにした。
「いえ、いつも本を持ち歩いているので、本が読めて良かったです。」
前沢さんは、片手に持参している本を持って、にっこり笑って答えた。男連中の噂になるのもうなづけた。いつも笑顔で、嫌な顔ひとつしない。
明朗快活とは、前沢さんのためにある言葉だと思った。
会社の仕事の向上のために、ぼくみたいな危うい立場の人間にも臆せず声を掛けるなんて、なかなかできるものではない。
ぼくは、以前この店で同僚と来た時に頼んで、美味しいと思ったものを何品か注文することにした。
「前沢さんも、気になるものを頼んだらいいよ。」
ぼくはそう言って、周りをきょろきょろと観察している前沢さんにメニューを向けた。
「メニューの料理も美味しそうですが、店内や店員の雰囲気もいいですね。活気や清潔感がある上に、店内のあちこちに思考を凝らしているって感じが素敵ですね。」
前沢さんは、キラキラした純朴そうな目でぼくを見て話した。
今のぼくには、その前沢さんの眼差しが眩しく感じた。
そして、少し胸がチクリと傷んだ。その痛みが何なのか、ぼくには分かった。
知佳に対しての後ろめたさだった。
ぼくの心の痛みは、前沢さんに対して少し好感を持ち過ぎたことを知らせている。
そして、この清々しい関係とは裏腹に、危険な暗い空気が絡みつくのも感じるのだった。
ぼくはここが、人生の大きな分岐点とも知らずに、前沢さんと楽しい時を過ごしてしまったのだった。
そして、前沢さんとの時間が楽しければ楽しいほど、ぼくは泥沼に沈んで行っていることに、見て見ぬ振りをしなければならなかった。
これは仕事の一環なんだ、と苦しい言い訳を自分に言い聞かせていた。
ぼくと前沢さんは、月に二回ほど、こういう時間を過ごすようになった。
前沢さんと過ごす時間は、ぼくにとって、まるで禁断の果実の様に、後ろめたさと陶酔感を同時に味わせてくれる魔の時間だった。
もうぼく一人の力では、この時間を拒絶することができなくなっていた。
あろうことか、学生時代からモテていた知佳に対して、優越感を感じるようにさえなっていった。
そうして、四か月が経ったある日、前沢さんといつもと同じ店で待ち合わせた。
その日の前沢さんは、少し緊張しているようだった。
口数も、笑顔も少ないように思えた。
職場で何かあったのだろうか?
いつもは梅酒一杯を食事やおしゃべりをしながら、少しずつ飲むのだが、今日は別のお酒も飲んでみたいと二杯目を頼んだ。
お酒は弱いはずなのに、大丈夫なのだろうか?
ぼくは、心配になって尋ねた。
「お酒、弱いのに大丈夫?何かあった?」
いつもの前沢さんとは別人の様だった。
少し酔っているのか、目が少し赤く潤んで、トロンとしていた。知佳には悪いが、そんな前沢さんを愛おしく思った。
そして、また胸がチクリと傷むのだった。
前沢さんは、左手で頬杖をついて、少し気だるそうにした。
目を伏せたまま、ぼくに呟くように話しかけた。
「勝本さんは、お付き合いしている人がいるんですか?」
前沢さんのその態度で、ぼくが付き合っていることを、誰かから聞いて知っているのだと確信した。どちらにしても嘘は付けない。
「ああ、婚約者がいるよ。」
ぼくは、静かにそう答えながら、どぎまぎしていた。
この関係が、消えてなくなることの寂しさが湧いてきた。
「なんで黙っていたんですか?私の気持ちは、うすうす気が付いていたんじゃないですか?」
彼女の目には、薄っすらと涙がにじんでいた。
ぼくは初めて、自分の身勝手さに向き合うことになった。
もう、目を背け続けることはできなくなった。
いや、もう向き合うには遅過ぎたのかもしれない。
二人の女性を好きになると言うことが、こんなに危ういことだとは知らなかった。
だが、逃げるわけないはいかない。
ぼくは、この目の前の愛おしく、人間的にも素晴らしい前沢さんを諦めるしかなかった。
「ごめん。前沢さんが素敵だったから、つい婚約者の話を言いそびれてしまったんだ。」
「そんなの、ずる過ぎます。ずるい、ずるい、ずるい。」
前沢さんは、今までの緊張の糸が切れたみたいに、泣き出してしまった。
ぼくには、どうすることも出来なかった。
結婚を、6年間も待たせていた知佳と別れるつもりはなかったからだ。
知佳とは大学二年の時に知り合って、すぐにお互い惹かれ合い、付き合うことになった。
大学時代は、いつも一緒だった。
知佳はぼくの彼女でもあったが、将来の夢を分かち合う親友でもあった。
彼女と出会ってからのぼくは、初めて人生を謳歌できた。
お互いに、社会人になってお金を溜めて、仕事が波に乗ったら結婚しようと約束していた。
その日を境にして、前沢さんとは、食事はもちろんのこと、挨拶もしなくなってしまった。
ぼくの一筋の光は、あっという間に消えてしまった。
そして、また、あの暗い暗い闇へと放り投げられた。
ひと時の安らぎも、ぼくには与えられなかった。
月に二回の週末には、もちろん知佳とも会っていた。
その時は、なるべく仕事の話はせずに、お互いにのんびり過ごすことにしていた。
知佳は仕事とプライベートは分けた方がいい、という考え方だったからだ。
それはぼくも同感だった。
おかげで、知佳と会うときは、肩の力も抜いてリラックスして過ごすことができた。
ただ、心のモヤモヤは消えることがなかった。
むしろ、どんどん勢いを増し、溜まっていく一方だった。
そして、仕事場でのぼくの精神は、崖っぷちまで追い詰められていた。
この知佳との週末のひと時にも、その影が忍び寄ってくるほど、ぼくの心の中の多くを占めていたのだった。
ところが、知佳との関係に大きな衝撃が走ったのは、仕事のことではなかった。
「ちょっと話しがあるんだけど、今日、仕事が終わったら会えないかな?」
知佳から平日に会おうと誘いがあるのは、本当に珍しいことだった。
どんな用件なんのか気になったが、仕事のことでそれどころではなかった。
取り敢えず、了解の返信だけ送っておいた。
仕事が終わるにつれて、さっきの知佳のメールが気になりだした。
平日に何があったというんだろう?
今日は、残業をせずに知佳のマンションに行くことにした。
知佳のマンションが見えた。
すでに、知佳の部屋には灯りがついていた。
知佳のマンションの扉を開けると、知佳の匂いがした。
体中が、ほっとする匂いだ。
平日だと言うのに、体がリラックスしようとしているのが分かった。
奥から知佳の声がした。
「お疲れ様。入って。」
急に、心臓がドキドキしだした。
体が勝手に、何か悪いことを予想している様だった。
それは的中した。
テーブルの前に座っている知佳の前に、写真が一枚置かれていた。
ぼくの体から、血の気が引いていくのが分かった。
前沢さんが、あの居酒屋でぼくを撮った写真だ。
携帯で撮して、わざわざプリントアウトしたのだろう。
なぜ、知佳の部屋に、この写真があるのだろう?
まさか、前沢さんがストーカーに変貌したというのだろうか。
予想は、またもや的中した。
「昨日、玄関の下から差し込まれたの。手紙も一緒にね。心当たりはあるんでしょ?」
知佳は、もう十分理解しているようだったが、ぼくに一応確認しておくとでも言う様に質問してきた。
やはり、前沢さんがぼくの後をつけたんだ。
ぼくは、少しぞっとした。気軽に付き合った、自分の浅はかさを呪った。
「確かに、その写真には見覚えもあるし、誰が撮ったかも分かる。今から説明するよ。」
ぼくは、なるべく冷静に話した。
「その必要はないわ。これで終わりにしましょう。その手紙の彼女の所に行って、付き合ってくれていいわ。私には、もうあなたは必要がないの。だって、結婚する前から、約束を守れない様な人に、これからの長い人生、信用できるはずがないでしょ?そんな不安な結婚生活をする気は、私には微塵もないのよ。それは、あなたにも何度も話してきたはずだわ。」
知佳の目には、迷いが全くなかった。
こんなにまで割り切れるものなのだろうか。
きっと、説明すれば分かってくれるはずだ。
だって、前沢さんとは、居酒屋で食事しながらおしゃべりしただけなのだから。
男女の関係にも、キスすらしていないのだから。
「待ってくれよ知佳。全くの誤解だよ。前沢さんという女性が仕事の相談をしたいと言ってきて、仕事のことならと思って会っただけなんだ。それ以上でもそれ以下でもないんだ。」
ぼくは、前沢さんに惹かれていたことはもちろん黙っていた。
しかし、知佳はそんなことも気付かないほど馬鹿ではなかった。
「ええ、そうでしょうね。恋愛感情がない女性と、何度も会ったりしないことぐらい私も知ってるわ。体の関係とかの話しを私とあなたとの間で問題にするなんて、それこそばかげている。そんな話しは嫌と言うほど世間で交わされているけど、本当に吐き気がするのよ。そんな話しをここで持ち出すなら、時間の無駄だから出て行ってちょうだい。あなたの荷物は、後で送るから心配しないで。」
知佳の心は、氷の様に冷めてしまったみたいだった。
6年間も付き合ってきたのだから分かることだが、絶対に知佳の心はもうぼくには戻らない。
知佳とぼくの関係は、あっけなく終わってしまった。
そして、ぼくは完全に独りになったんだ。できることなら、振り返って、知佳に泣いてすがりたかった。
それで許されるなら、プライドなんて本当にどうでもよかった。
でも、そんなことをしたところで、知佳の気持ちが救われたり、ぼくが許されることはなかったのが十分過ぎるくらい分かったから、悪あがきはせずにマンションを出て行ったよ。
あんなに愛していた知佳を裏切った自分が、今でも信じられないでいるんだ。
ぼくに残されたのは、ただの地獄だよ。
だからこんな薄っぺらな自分や、この世界とはおさらばしたかった。
そう、この目の前の川に入って死にたかった。
だからこの堤防で、ビールを飲みながら、今までの人生にお別れをしてたんだ。
さっきも電話で、部長に会社を辞めますって話したんだ。何か怒鳴っていたけど、すぐに電話を切ったから何を言っているか分からない。
どうせ、全く意味のないことばかりだよ。
さとしさんは、一気に話し終わると、川を見つめながら、大きな溜息をついた。
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