5. 拓かれし道に臨むは
シュア人ビルダドは組合長として地域の雑務をこなす。地域住民の声を顔を合わせて集める、気のよい親方のような人物だった。後の時代の油売り代表、うやうやしい礼拝で驕りをひた隠す代議屋は、この専制政治下にはご不在だ。
だが徴税人や公認女衒や、処刑執行人の人事簿には、人手不足の四文字は見当たらない。中でも、中央から派遣された地方官とその私兵は、あまりに煩雑に政務をしすぎて、民からは「何もしないことが寧ろ美徳」と呼ばれる有様であった。
狩人たちは決まってこぞって生まれてくる。家名が仕事を決め、格差を時代である。生まれたときには、権力者は既に顔見知りの集団であった。しかし打って変わってか、だからこそなのか、個体同士が競い合うことでしか、生きる実感を食えないことも珍しくない。カマキリの卵など丁度良い例えだ。
そしてその競争の矛先は、残念なことに住民に牙をむいた。我先にと躍起になって、住人にことごとく重税という重税を課す。まるで胸ときめくゲームか、もしくは無感動な暇つぶし、この二択のどちらからしい。
このゲームはカネを移動させる分野だけでなく、労働に関しても当てはまり、公共事業を募っては、やれ働き口を提供したのだからと、自ら監督者になって鼻息を荒げる。常に鞭を携行してギョロギョロと見歩きながら、サボり始める人間を監視することに終始して、アケメネス=ペルシア総督付きは一日が終わるのである。あの強大なるエジプト王国や、燃える反抗心の下に着々と拡張するコリントスが、目と鼻の先の前に迫ってきながら、大層生産的な仕事があったものだと感心を禁じえない。
自分こそが総督府に貢献している、そんな思い上がりは天井知らずに積み重なり、そうして競うことばかりに考えが囚われるので、酒仲間同士でたむろするゴロツキにさえ通じる平易な話が通じない。それは例えば、土方仕事の「ああ、だるい。早く帰りたい。」とか、「もっと休みが欲しいぜ、なあ」などの言葉が、度の過ぎた怠慢から出てくるものだと本気で思っていて、鞭が空を切る音がどれほど多いか、もっと丁寧に述べたいところではあるが、それはじきに親方の口から聞くことができるだろう。
ビルダドは遠くを歩いていた石工や、車輪のゆがみを槌で叩く馬喰を見かけたときには、決まってねぎらいの言葉をかけた。そこそこ遠くにいても、片手を上げて気さくに挨拶をするため、その気質に勤労を励まされたものも多いだろう。
「やっと道の敷設も半分が終わったことだ。代官殿もあんなにして現場を練り歩いて、まるで鶏のするようなことを仕事と呼んでいるんだから仕方がない。すごい顔してるぜ。」
「ははは、御上も人選は下手くそらしい。忙しいふりをすることに躍起になってるうちは、あいつらは無価値だよ……なんて、際どい皮肉も出てくることさね。でも、なんだかんだ言ってまだまださ。働き通しになりそうだよ、向こう一週間はな。」
馬喰もまたへらへらと応えた。
ビルダド達の住む町では大規模な工事が行われていた。同じ景観が続くストローイエロー色の平原は、そもそも道がないので道には迷うことはない。道には。
「目的地がどこか」、「自分がどちらを向いているか」、この二つが旅の基礎の基礎で、ここがぼやければ命を落とす。古来の砂漠の行き来は、「なんとなく」では済まされない。意志ある一挙手一投足、計算された物資消費、駱駝や馬の身体資本…もしこれらを過とうものなら、人々は星と砂の下に倒れたのだ。
そんな中、やっと道路ができる。
道路が整備されることで、隊商の行き来が活発化し、ここを通る人が増えて町は潤う。これが総督府の言う道理だ。町が潤うとなれば、さぞ聞こえがいいだろう。たとえ自分たちの財布の中身が直接的に増えるわけでなくとも。
だがもちろん、良いことばかりではない。ここに幹線ができるという事は、つまりここを軍が行き来したいという思惑から始まる。また住人には関係のない、国境線の向こうの手際よい戦争屋も、どうせ呼び込まれるのだろう。
インフラの豊かな街とはひとつの宝箱だ。自分たちが金をはたいて作り上げたものが、誰の為に造られたかなどお構いなしに、街道は権力者の徘徊におもねる。そこを占有する誰かしらの為であり、既存の住人か、それとも略奪者かは問わない。いつだって現地人を動員する正当性は「人々のため」と相場が決まっているが、その人々が誰であるかはいつも問われない。強調される“人々のために”とは、文化的な生活者としての意味で用いられるのではなく、文明的な意義としての人頭資本へ換言してしか、行政の目には届かないのであった。
きっと悔しいと思うはずである。この事業にどれほど心を尽くしたとしても、人々は「ついでに使ってもいい」程度の扱いなのである。
だが、生まれ故郷の街に、各方面から野心というツギハギがあてがわれていくのを前に、ビルダドは嘆くことしかできない。やれ「これは清潔なガーゼだ、傷口を拭う」、やれ「これは洒落たシナ由来の帯だ、着飾るには持ってこいだろう?」などと、これでもかと代官殿は出まかせを並べてうそぶく。
親方と慕われて、その立場を立てられても、行政の意向に背くこともできなければ、逆に庶民を指揮することだってできやしない。怒りの声は虐げられ、どこかに隠される。せいぜい派遣地方官の顔に泥を塗らないように助言し、現場がつぶれないように、上役の粗暴で支離滅裂な癇癪を逸らすことが関の山だ。上手くやるのだ。
そうしてビルダドはどんどん自発的な意見をかみ殺すことに慣れていった。強権に翻弄されすぎて、自分の反意を諦めてしまったのだ。そうして厄介事を一手に引き受けると、せめて慰めと言わんばかりの金が懐にやってきていた。どうせ使わないのに、である。
「そうかい、お前さんたちの働いているその苦心ぶりは、よく分かる。今日も頑張りすぎるなよ。」
穴の開いた盥から、垂れ流しになる善意のまま、彼はそう言った。
「いやいや、そうしたいもんだがね。そんなことより、」
馬喰は彼の善意に関心も示さずに目を落とした。荷車の車輪の溝に小石が挟まっていた。ボロボロに傷んだ指では外せないことに苛立ち、工匠は汚れた荒布と箟を手にした。素人目では大変大雑把に箟刃を突き刺したように見えるが、彼の職工としての経験は確かなものだった。溝に水平に切り込みが入る。そこから右手の獲物を逆さに持ち替えて、男は柄をグイグイと石のひび割れに押し当てていく。
「……なんとか工期を引き延ばしといて下さいよ、組長。日に八四〇アンマの整地なんて、こんな人数じゃ無理だ。六〇〇だって無理だよ。あいつらなんにも分かっちゃいねえよ。そもそも石材の搬入から間に合っちゃいねえんだから。」
「わかったわかった。」
「いやね、上が来春迄に終わらせたいって言ってもさあ、その分の台板やら石灰のストックが、どう見てもないよなあ。石工たちはてんてこまい。道具や建材の運搬が主業務の俺にだって、わかりますわな。」
「まあ即席の左官が内地に手配されているらしいし、この数日はさほど、さほどの出来高でも、あんまり五月蠅く言われないんじゃないか?まあ、見ていてくれよ。上手いこと理由はつけといてやるから。」
馬喰は首から上だけを親方に向けて、ニカッと笑ってみせた。とても疲れた笑顔だ。ビルダドは同じような笑顔を一時間前の土方にも見た。
まだ道路はできない。できない。できた後は何をしようか。
無計画に始まった「王の道」へと接続するこの支線が、腐敗のままに頓挫してしまったという事実が現地住民に重くのしかかる。誰もが皆終わらせてしまいたいとはいえ、はしごは外され、じりじりと困窮が迫っている。
ビルダドはこの現状に何も語ることができなかった。目の前で落下する灰皿が、大きな音を立てて部屋の空気を震わせる。破滅を分かっていながらその到来を待つ事しかできないのだが、だが待っているうちが唯一の平和なのである。
後ろ手を組んで、未完成の道を町へと戻る。小高い丘に沿って緩やかに左方向へと湾曲する粗末な道を、西日が左後方から照らしている。辺りの作業工達は帰り支度を始めていた。日が沈めば作業はできたものではない。
「しかし、時代は進んだものだ。若いころはキツネやサソリがここら一帯どこにでもいて、夜でなくたって歩きたくはなかった。俺たちはここに住む危険な生き物を追い払って、今、砂漠を貫く道を作っている…」
無力な組合長は、髭の間に笑顔を張り付けたまま、無感情に太陽を見た。同じように無感情な太陽が空に座っていた。あの日が沈めば、どっぷりとした闇が僻地を包むのだ。
その太陽がちらちらと光った。
自分自身もどうやら疲れているのだろうかと思って眺めていると、その光は急に膨張して、光は人の形になった。砂漠の砂が幻影を見せているのか、うやうやしく未完成の土台の外に、ゆらりと足をつけた。
「「ビルダドよ、ビルダドよ。話を聞きなさい。」」
何だろうこれは。ビルダドは瞬間的に辺りの様子を窺っていた。他の人は離れた場所にいて、この珍事に遭遇しているのは自分一人だ。
右手には疲れながら帰ってゆくもの、左には未だ働き、俯いて石と泥とを積み下ろすもの。いつも彼が現場を歩いても、こちらから声を掛ければ応じるが、親方を見る者はいない。皆が自分の持ち仕事に取り組む事、それはありふれた日常の一局面にすぎなかったが、こうして空間を共にしながら非日常が突然やってくると、気後れするのも無理はない。
「「あなたの友が、あなたの力を必要としています。その友は、ウツに住むヨブと言う男です。彼の敬虔さは、いま、曇ってしまった。どうか力になると思って、彼の元に向かってほしい。」」
「あなたはどちらさんですか。」
「「私の主は、人間をこそ束ねる御方。私のことを、あなたはもう知っているはずです。急な話だとは思いますが、お急ぎなさい。」」
どうやら拒否権はないらしい。近くに留めているロバがこちらを見ていた。長いまつげを瞬かせたが、何を思っただろうか、頭を振ると、顔の左側面をこちらに見せただけであった。気の良い親方は、一秒後には快く承諾した。
「よし、行こうじゃないか。ヨブのところに。」
「「行ってくれますか。」」
「ああ、もちろんだよ。丁度彼とも話をしてみたいと思っていたところだ。はっはっは、しかしヨブか。久しぶりにその名を思い出したぞ。懐かしいな。」
天使はしばし沈黙した。
「「言っておくがお前のその明け透けな態度が、苦しむヨブを逆なでしなければよいがな。」」
「さあ、何を難しく考えることがあるんだい。大船に乗ったつもりでいりゃあいいんだよ。なんといっても、ワシが話を付けてやるんだからな。」
きっと、ワシが話を付けてやる。ビルダドは目を反らして、旅支度の為に家路に戻った。その背を見ていた天使も、無音のまま霞の如く消えた。
この間、ビルダド達を見る者は誰もいなかった。彼の元に急転直下した、神伝えの非日常はすべて、すぐそこにいた作業工たちの、誰の気にも留まることなく、ビルダド一人の前で完結したのだ。
彼は心のうちに虚空をくゆらせ、しかし顔には笑みを携える事ができる人物だった。
しかしなぜ話を切って、歩き始めたのかは、彼自身は分からない。一人で背負い、一人で片付けることに慣れすぎた、独りの寂しいユダヤ人だ。空っ風が吹いてアガマトカゲが踵を返した。雲は遥か南を流れていった。ここにいるもので「帰りたい」と思わないものはいないらしい。
ナアマ人ツォファルは詩人で学者。妻子はいない。ただ机に向かう。彼の家は小さかったので、木版が積み重なると、たちまち横向きに寝る場所はなくなる。壁にもたれて寝る事などはしばしばあった。
机ばかりについているわけではない。たまには旅に出た。旅行などと言う生易しいものではない。時に猛獣に出会い、時に嵐に合う過酷な道のりだ。年を経るごとに不肌を裂く傷や、徐々に動かなくなっていく節々を考えれば、彼のような風来の生活は珍しい。人によっては彼を廃人と呼ぶ者もいるだろう。
もっともこの時代の学者とは所属経歴がものを言うわけで、「どこぞの王室や富豪の家で教鞭を取った」と言うことができるだけの図太さは、彼にも十分に備わっていた。その他に手に職を付けているわけでもないので、彼にとってはこれが墓場へと続く一本道のはずだった。
しかし、彼は更にその上へと登ろうとしない。上下する日銭は次なる研究と酒を導き、次へ次へと消える。そんなふざけた日常譚だが、それでもツォファルは気楽な市井生活を捨てる気にはなれないのであった。なぜか。
ひとつには彼がこれほど自分を曲げないのは、彼の実家がそれなりに金を持っているからだが、それは最低限の気休めとして実家にあるがままに任せ、実際に手を付けたことはない。
そしてそれを凌ぐ持ち合わせはこうだ。自分が飢えていているだけなのはまだ平和で、本当に恐ろしいことは飢えた他者に出会うことだと、ツォファルは考えていたのであった。常に彼の背後には、危険な歯をむき出して、こちらを嗤っている何かの存在がしばしばあるようだ。
例えばハゲタカであれば、ひたすらに暑い中、彼が倒れるのを今か今かと待ちながら、じりじりと空を回り続ける。地面ではヘビが、そうでなければ群れた雌獅子がいて、腹を空かせながらこちらを見ている。どいつもこいつも御馳走を見る子供のような、キラキラとした目を向けている。
命を奪おうと企む者は何も動物だけではない。ペルシャ湾から吹き付けてくる嵐は、我々の体内から熱を奪い取ろうとする。雨と風という暴漢が、力ずくで外套も履物も奪い去っていくものだから、剝がされたツォファルは酷く惨めな気持ちになる。アイソーポスには「聞いていたものと話が違う」と抗議したくなるくらいだ。
かと言って、遥かアテネへと向かおうとしても、船旅でキプロス(旧キティム)の周辺まで行くと、今度は船頭が法外な乗船代をむしり取ろうとしてくる。何から何まで金ばかり減っていくのである。
まったく、なぜ人は、それほどまでに金を欲しがるのか、ツォフォルは頭を悩ませるが、それでも詩歌と学問が彼を包む私腹を思えば、詩人稼業にはかなわない。詩歌が彩る毎日は、きっと貨幣が彩る一日より美しい。
そんなツォファルの下に天使が現れたのは、トラキア人の知人の借り宿で酒を飲んでいた時であった。初めてトラキア民族の死生観を見たのは、学者伝手に回されてきた文献であった。彼らの悲観的な思想には、影響を受けずとも、話を聞きたいと思う程度には興味が募った。そこで、知人を通して一人のトラキア人と書簡を交わし、わざわざアンティオキアまで行くことになった。
トラキアの民族は一定数の巨大なコミュニティを黒海沿いに築いていて、流れていく人間の人生を嫌った。人が生まれると嘆き、また人が死ぬとそれを安らぎと捉える徹底した厭世ぶりで、ユダヤ社会から見ると、その救いの無さには疑問が募った。
「いったい何故、人間は苦しみながら、なお生きるのか」、彼らはその悲嘆と疑問の草分けだ。小さな学者は彼らを調べなければならないと感じた。自分自身もまた変わり種ではあったが、己はユダヤの学者だ。ヤハウェに身を捧げることは、彼にとっての民族的かつ職業的使命感であり、自身と密接不可分に存していた。
だが、異文化交流のハードルの高さは現代とは比較にならない。それは書簡を書こうと思っても、彼らが使う文字を共通にて識るものがいないからである。それどころか、多くの人々が文字さえ識らないのである。だから、必然的に異民族間の隔たりや偏見は修復されぬまま、「いかに自分たちと異なるか」ばかりが見られ、ほとんどの単一民族は歴史に現れては消え、また現れては消える雨の波紋だ。必ず滅ぼされていく宿命であった。
変わり者と変わり者が巡り合う、それはある意味で奇跡に匹敵する偶然であった。ツォフォルに取材の許しが届けられたのもまた一滴の恵みであっただろう。一人のギリシャ語を話せるトラキア人が、アンティオキアにいるらしい。造物主はここに運命を交差させた、そう学者は思い、すぐに飛び立ったが、しかし二つ線の跡はほんの一瞬かち合った後に分かたれた。
盃を交わして飲んでいた時のこと、酒も進み、気の大きくなっていたところに、ヘブライ語か、アラム語か、なにかも分からぬ言語が、不意に男の元へ沸いた。
「「ツォフォルよ、汝の酒樽が逃げていくようだぞ。」」
「何?逃げていく?」
「「外に出てみてみたまえ。」」
出来上がった酔いどれにとって、自分の物が喪失されることは、何かを与えられることよりも心が動かされるものである。突然血相を変えて立ち上がったので、トラキア人は小首をかしげた。
「なんだ、お前?もう触れちまったのか?それともネズミでも見たのか?」
「どこだ、私の酒は!どこへ持っていくのか?」
当人は聞きもしない。半剃りで無精髭の男を部屋に残し、豊満な髭を束ねた男は、土製の門がまえをよろめきながら、天高く星降る外界へ出た。
すっと酔いが退いた。それほど寒い日であった。
外には長身の天使が立っていて、こちらを見ていた。内側からじんわりと光が染み出していたが、しかしその光を前に、ツォフォルは「もったいない」などと俗っぽいことを考えていた。そんな思いを自分で見つけ、悲しくなりもした。
「「お前に酒をついでやろう。うんと美しく、そして強い酒だ。」」
「俺に、なんの用でしょう。言っておくが、俺はしがない酔っ払い。それ以上でも以下でもないのですが。」
ツォフォルは酔っ払いであることを強調して、謙遜するために、あえて粗暴な話しぶりをした。努めて精一杯の虚飾を張ったが、困り果てて立ち尽くす他に術はない。
「「お前だからこそ私は話す。それはお前の義なる友、ウツに住まうヨブについての凶兆だ。」」
「ヨブがなんだって。」
「「お前は連日の不運さえ知らぬことだろう。ヨブは不運に見舞われて、ついにその人徳を捨てたのだ。」」
まさか、今私の前にいらっしゃるのは天使か悪魔か、超存在がここにいる。何故遠く離れた北の地でヨブのことを知りながら、私にその話をする人間が現れると言うのだ。酒だってさほど呑んだわけではない。いや、少なくこそないが、あれくらいの量など今までだって飲んだことはしばしばあった。
逡巡しながら学者は尋ねた。
「ヨブと言えば、世にも稀な義人。いったい何故、悪に呑まれるのでしょう。」
「「義人ゆえに、悪魔が彼を秤にかけたのだ。人徳とはその輝きが増せば増すほど、より邪なる者をも焚きつけるもの。それは宝石を狙う盗人、鶏を狙うヤマネコに同じなり。」」
ツォフォルはより一層、眉間にしわを寄せた。仮に彼の言う事が正しければ、私に接触してきたこの存在は、なぜ天使だと言い得るのか。「友が危機に陥っている」、そう彼は言うが、これは神が私の友情を試しているのか。しかし悪霊ではないのか。「義人であり、ありもしない友の危機を案ぜよ」というのであれば、友の義と安全を信じるのが友であるに相応しいのか。彼の正義に疑問の余地をかけることは、妬みが友情を上回って生まれるのではないのか。
「おおい、どうしたんだよう!」
後ろからの声でツォフォルははっとした。部屋では器にアニス酒を足しながら、旅客が干し肉を噛んでいるのだ。善良な友人は、急いでもう一度ぼやけた光の人物を振り向いた。今自分が現にこそ生きていることを認めた上で見てみれば、立ちどころに姿をくらましてはいまいか。
いいや、そこにいた。宙に浮きながら、妙なる光を振りまき、見下ろしていた。
『人が人に罪を犯しても、神が間に立って下さる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。』
そう告げると、天使以外の何者でもない存在は帰っていった。
「……ふうむ、やれやれ。ヨブ君のところに向かおう。」
天使が言ったヨブの概ねの近況を頭でまとめて、どうウツへ向かうかを考えた後、このラビは友人らしく従うことにしたようだ。赤らめた顔を天使に見られたことについて、まるで意に介してもいない在野の学者は、ふてぶてしくそう答えた。
あたりは暗く、霜の降りるこの土地の寒さは身をぴりりと凍えさせる。酔っ払いの背中に、上着は何も羽織られていない。大きなくしゃみを二度繰り返して、知人が退屈をこじらせ、ひとり酌を傾ける部屋に戻った。
元から民族性にかかずらわないこのトラキア人の男に、果たして事情を話すべきだろうか。あるいは自分とこの男のものだけにしておくかどうかも考えた。難しい顔をしてツォフォルが入り口に佇んでいると、部屋の借主は一瞥したきり、落ち着き払って声を掛けてきた。
「触れた?」
「ああ。触れた。」
「なあんだ、それか催したかと思った。」
「催しもした。……冷えるからな。」
「冷えるかい。じゃあもっと飲まなきゃあなあ。」
気を利かせるのが上手いやつだ。それもずるいくらいであった。ツォフォルは鼻をすすると、用を足しにもう一度外へ出た。
この後すぐにでも旅支度をしなければなるまいが、まさに「素面でなんてやってられない」、天使直伝の大仕事など、一体どう言葉で説明したものだろう。
「私は、」とツォフォルは呟いた。
「私はいかにして自分の人生を愛せるだろう。自分の運命を愛せるのだろう。」
せっかく巡り合ったトラキア人。私は異民族への興味から近づいた。それは内なる他者への理解や寛容さが天意にそぐわぬわけがない、と思い上がっていたからだろうか。あの男は酒をただ注いだだけだ。しかし時間を取ってもらったにも関わらず、この取材は打ち切りになるのである。考えようによっては、彼はこの後ユダヤ文化に触れることもなく一生を終えるのかもしれない。
進んだと思えばすぐに巻き戻る。まったく、人生とは儘ならぬものではないか。統御しようにもしえぬもの。時にこうして人間を裂くのであった。だから人は祈るのである。
オロントス川を囲むように暗い色をした木々が立ち並び、未だ田舎町にすぎぬこのアンティオキアは、後に中東世界と西洋の要衝として、世界で指折りの堅固な城塞都市へと姿を変えていく。ユダヤ人など蚊帳の外にされ、十字の御旗の教皇座に雇われた純潔な騎士と、神など知らぬ下請けの雇われ雑魚兵と、もはや名前さえ遺されぬ現地領民が、槍先を打ち鳴らして血を流すのである。
その最中にもまた、絶えず祈る人間の姿があったはずだ。
野心が町を歩き回るときも、剣と火薬が踊るときも、隠された家屋の陰に膝を折り、指を組み合わせて神に祈った人々がいた。しかし不思議なもので、歴史から葬り去られた人々の安らぐ姿は、生きる者からは常に見えない。
ああ、鉄の処女よ、またはファラリスの雄牛よ、お前たちはこの人類史上で、どれほど多くの人々の悲しみを見てきた?お前たちが手にかけた人々には、悪人もいれば、そうでない人も少なからずいただろう。
私はあなた方を追想することしかできない。しかし神様がいらっしゃるならば、あなた方はせめて眠れるのだろう。メギドの頂にあっても、光をその胸に宿しながら。
こうして清らかな三人の友人は、険しい道のりを超え、苦しみにやつれるヨブの傍らに辿り着いた。彼らの名はエリファズ、ビルダド、そしてツォフォル。六芒星の良識を具えた知恵者たちであった。
召使や御者と共に集った旅人は、手分けして野に座して黙する、小さなヨブを見つけた。家などとうになく、吹きさらしの暮らしをするヨブを捜し出すことがどれほど難しかったかは言うまでもない。
彼の様子は、いやはや、見るに堪えぬほどであった。彼の痛みのすべてが我が身にせまるように感じられるほど憔悴していた。肌は爪によって切り裂かれ、川風に身を焦がす苦しみにこね回され、かろうじて生きることに徹していたのだ。
何と残酷な!痛かったろうに……!死に損ないの病状を改めて目撃した彼らは、嘆きながら衣を裂き、天に砂塵を投げて頭からかぶり、地を拳で叩きながらむせび泣いた。もう何も語りかけることができない。どんな言葉をかければよいか分からない。いかなる言葉も転がり出ず、何者かに取り上げられていたのである。憐れみの情が胸を締め付け、男たちに滂沱の声を上げることさえ禁じた。心底にあるはずの等身大の感情が、触れるほど近くでありありとその在り様を放つとき、いったいどうして舌が回ろう。硫黄の火が降り注ぐ故郷を振り返り見て、何の言葉が湧き出よう。
しかし皮膚病の伝染を疑えば、この弱り切った小さき背を、抱きしめることさえできぬのである。この無力さこそ、三人には悔しくて悔しくて仕方がなかった。
「ああ、主よ!何故ですか……!何故なのですか!」
日の傾いた空を黒猫の流雲がかけていく。遠すぎる横断者は我らの目で例えば「それが猫」と認識できたとしても、愛らしいかどうかに関わらず追いかけようとは思うまい。
ヨブはここに、孤独な人として座っていた。だが、遠い。ひたすらに遠く座っている。凄絶な病と、樫の牢に幽閉された精神が、彼を、何人にも決して触れざる者になってしまっていたのである。
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